瞳に爛れる十字の星は
犬神は痛みを感じた。
「――?」
光る十字が双眸であることを理解するも、予想できない場所での人影に思考が止まる。
十字に射抜かれる犬神は、肌を突き抜け腸を炙られるような感覚に陥った。
視線を逸らせず、心臓が異常に早打ち、肌が泡立つ。
その感情と感覚が、思考との繋がりを無視し逸っていく未経験を、犬神は痛みとして錯覚しているのだ。
「なん……? お前っ ?」
犬神は働かない頭で無警戒に、十字の光に手を伸ばす。
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暗く冷たい水の底で、反り立つ岩の壁をひたすらに掻きむしっていた。
足元も脆く、少し動けば壊れだす。
‘ずるずる’と闇に落ちていく。
嫌だ。恐ろしい。
もう夜は嫌だ。みんなの居ない独りは嫌だ。
あの夜の牢獄が追ってくる。
■背負いも、騎■蜂も、殺戮■も、全部倒してやったじゃないか。みんなで……!
……ぁ?
途切れ途切れの、記憶の切れ端。
声も、匂いも、……名前も掠れて埋もれていく。
どうして闇が怖いのか、どうして夜が悲しいのか。
いつの間にか思い出せない。
「(頼りにしたくなる、この顔は誰だ?)」
周りの岩が揺れ出すが、俺は少しも震えやしない。
「(この弓を持つ女の子は?)」
奔り始めた青雷は、明かりの代わりになりやしない。
「(……このボードゲームを差す手はいったい?)」
思い出せない、分からない。
それでも嬉しいことが1つだけ。
――夜闇が全く怖くない
あんなにも剥がれなかった絶望が、嘘のように軽くなる
想いの無いモノに恐怖しない。喪失の痛みは抜け落ちた。
轟音と共に、体が上へ運ばれる。水の重みは、この体には堪えない。
水底から解き放たれるその瞬間、背を引く小さな手を感じる。
その子が誰か、理由無くとても気になったが……振り向いては見なかった。
そして眼前にある黒鎧。
嗚呼、お前は忘れず覚えてる。黒牢の中じゃ、そんなナリでは無かったろう?
いったい何時から騎士を気取ってる?
「(魔物ひしめく地獄の中で、皆が血を流すのを見て、お前は何を想っていた?)」
“■■■ナを守る“と口ばかりで、最後まで俺達を見捨て続けた。
―― ?
俺達……? 他に誰が……?
いいや、どうでもいい。ただお前を許せない。
お前の現在に、ドウしても納得デきない。
憎イ! 軽蔑をモッテお前ニ報いてヤル!
痛みト恐怖ヲ、オマエにも分ケテやルッ!
「―― 鋼 城ォォォォォオオォォォォッッ!!」
犬神の伸ばした腕が、墨谷の手に掴まれ……砕音を響かせ握り潰される。
「イ˝、ぎゃあああああああああ」
日本の近代工学を用いて、異世界の鉱石と炭素合金を融合させた、技術融和の結晶。
超硬度を誇る魔導外殻は、黒化顕現を露にした墨谷の手で肉ごとひしゃげていく。
「な、なんですっ? 犬神は、何に襲われて!?」
「…………あれ、は」
月明りしかない夜闇の中、裕理と伽藍は犬神の悲鳴に困惑する。
燃え輝く十字の光が見えた途端、息が止まりそうな重圧が圧し掛かっていた。
ともすれば、水竜以上の怪物が現れたのかと戦慄する。
……烈剣姫だけはその十字に覚えがあったが、記憶とかけ離れた光の陰惨さ故に沈黙する。
【愚か者の法衣】が、操作途絶により完全停止するまで、あと十数秒。
すでに獣の四肢は人の外観を捨て去り、惨い黒肌を晒す。
――長い間、“捨てた”と自分に言い聞かせた暗い想い
「ヨク顔を見せれたナああぁぁっっ」
それを存分に、暴力を持って取り戻す。
「ぐえあぁああっ! ぢ、ぢがう。オレは犬神っ――」
砕けた腕から、血が噴き出す様を見て悦に浸っていると、生臭そうな怪物が視界に入る。
まさしく魚の眼球と視線が合う。怪物は方向を変え、この場から逃げようとしていた。
「(アレも殺してやろう)」
あんなデカブツ、放っておけば何人死ぬか知れタものじゃなイ。
ソれにぃ……喰いでがありそうだ。
みんな腹ヲ空かせて待っていル。璃■も手放しで喜ぶだろうな。
「逃げるナッ!!」
手の内にある鎧には、掴みやすそうな胸の陥没がある。
その凹みに爪を突き刺し、鋼鉄を握り込んだまま地面を蹴る!
「あぁあああああっ!?」
鎧から悲鳴が続く。
足場を崩壊させた代償に、魚の怪物は目の前に。
手に握る鉄塊で勢いのまま殴りつける。
――Giイ˝イ˝イィィィーーッ!
「ぐえあああっっ」
化け物を海面へ叩きつける程の衝撃。
――うるさいヤツらだな
なぜ俺はこの塊を持っているのか、さっきまで何故あんなに憤っていたのか、もうよく思い出せない。
――でモ関係ない
「(両方殴り殺しテ、黙ラせればいいんだから)」
空いた手で刃の生える根元を抉る。
得体の知れない獣に取り付かれ、食らいつかれた箇所からの激痛。
獣の重量に、”崩天”は宙へ逃れることを許されない。
体を海面にこすり付けるようにしながら、一心不乱に泳ぎ続ける。
「あの怪物を、殴り飛ばして……?」
あっという間に倉庫群から遠く離れていく竜と犬神、突如現れた不明存在。
裕理らは、その一部始終をどうすることも出来ず眺めていた。