蜘蛛と天女(2)
青白く輝く球体、異世界と日本を繋ぐ秘匿ゲート。ゲートが浮く周りは無残な有様であった。
壁と天井はひび割れ、風と月明かりが入り込む。
床に至っては大部分が崩落し失われ、ゲート周りに僅かな面積を残すのみ。
そのゲートの隣に、リンカはへたり込んでいた。
「クジャク様……くじゃくさま…………」
幼い頃、ありきたりなお家騒動によって生家を追われたリンカ。
大勢の大人によって逃がされた先は、苦界と見まごうばかりの裏路地。
幼いリンカにとって、生まれて初めての凍える寒さ。
名家で育った世間知らずにとって、生まれて初めての飢え。
そこから拾い上げてくれた、生きる術を教えてくれたクジャクは母親も同じ。
生みの母の顔も朧げな少女にとって間違いなく愛しい、縋るべき母なのだ。
「私はただ、七郎様に見て欲しかっただけなんです」
絡新婦から追われる旅に、弱音ひとつ吐かなかったリンカが、今度ばかりは打ちひしがれている。
「でも七郎様にとって私は……代わりだったんですね。私が誰なのかも興味が無いくらい、誰かの代わりだったんだぁっ。クジャク様の言った通りで……――う、ぅ、ぐすっ……ううぅぅぅぅぅぅぅぅ」
下で戦っているであろう母に、恥も無く泣きつきたいと思うほどに。
大粒の涙で悲しみをいくら洗い流しても、次から次へと溢れてくる。
幼い身に過ぎた情念が、冷たく心を焼いていく。
「――っ、くそっ。派手に壊してくれる……」
どこからか発せられる声。
声と共に、秘匿ゲートの青い輪郭が広がった。歩み出てくるのはリンカを連れ戻そうとする、ヤツメ家重臣の男。
「おおリンカ様、ご無事でしたか。レンメイめ、リンカ様の身を危険に晒し――」
男が割れた壁から外を覗く。
紅蓮の炎に照らされて、黒のドレスが殺意で舞う。
「挙句、未だ紅蓮を始末出来てないではないか。……まあ、こういう時の為に苦労して持ち出した竜共だ。これでヤツら全員海の藻屑よ。ははは」
水の様に揺蕩っていた円が、今までとは比較にならない大きさに広がった。
途端に漂う生臭さ。湿り気を帯びた吐息が、ゲートの奥から流れてくる。
まず門を潜ったのは白い牙だ。人間数人分あろうかという長さの、気味の悪い鋭利な牙。
続いて現れたのは牙を生やす大口。巨大な目玉を持つ縦長に扁平な顔。
牙を除けば、まさしく魚類の顔貌である。
醜い顔に続き、巨体がゆっくりと泳いでくる。リュウグウノツカイを思わせる長い体躯。
構造色じみた光沢を持つ鱗が全身を覆う。
そして何より目立つのは、巨体に不規則に生えた鈍色の刃だ。鉄鋼で鍛えた如くの刃剣が、反り返りながら無数に生えている。
おそらく鱗が変化したモノなのだろう。
その刃を縫うように、螺旋状に背鰭が生え、蠢く。
赤い突起は鰓の様にも見えた。
コレこそ、ヤツメ家が飼い慣らす亜竜。
水棲の魔物、鉄刃戦魚の成れの果て。
言語を解する知能は無い。
だが鱗の堅城、鏖殺の刃、海を離れ宙を泳ぐ。本能で魔力を用い、海を在りもしない手足の如く扱う怪物。
竜の末席に相応しい異形である。
「さあリンカ様、どこぞのヤクザ者に従う日々から解放して差し上げます。貴女様はヤツメ家の直系。正当な跡取りなのです! ワタクシめが必ずっ、その地位をお約束します」
「そんなの、要りません……」
「いいえっ、是が非でも協力していただきたくっ! 今、ヤツメ家を取り仕切るのは、直系の血筋でなく傍流の家柄……妾腹の血がヤツメ家の家督を奪い取るなど言語道断なのです。あなたが幼き頃の騒動も、あ奴らが過ぎた願いを持った末の大罪! であれば、正さねばならないっ。直系の血を持って、真の棟梁が誰なのかを――」
「……あなたは私を、権力を得るために利用したいのですね」
「っ……これも貴女様の身の上を想えばこそです。…………ごくっ」
男は生唾を飲み込む。
目の前に膝をつくのは、糸で縛られる非力で哀れな少女のはずだ。
だがどうだ。血の貴さを表す少女の艶やかな闇色の肌は。
自身の鼓膜を揺さぶるのは、生まれながらの支配者の声色。
何より彼女の、冷たく悲壮な仕草が、年不相応な妖しい魅力を振りまいている。
跪き、慰めたくなるような……。
「(っイカン。何を考えているのか……)」
男は慌てて頭を振る。
「……とにかく、まずは貴女様の憂いを絶たなければ」
――“竜どもよ、敵は母なる海の上だ。存分に喰らいませい”
男の言葉に、竜に刻まれた刻印が反応する。
竜の成長過程で刻まれた刻印は、術者の命令を伝える。
反逆には、超絶の苦痛を罰とした。
秘匿ゲートより体を解放する水竜。
もう2匹もそれに続く。
「竜が、3頭……」
「ご覧ください。ワタクシめの力を! “白雨”、“玉眼”……そしてヤツメ家歴代の使役竜で、最も強靭な“崩天”を」
巨大な“崩天”に、2頭の竜が侍るように付き従う。この2頭が“白雨”と“玉眼”なのだろう。
「“玉眼”、そして“崩天”! あれなる敵を殺し、喰らえ。“白雨”は此処を守るのだ」
男が港付近で踊る炎を指さすと、2頭が牙を剥き出し進撃する。
「きっと、竜は殺されます」
「!? ……なんと申されます。そんなことはあり得ない」
男はリンカの言葉を否定する。ラコウの土地ならまだしも、日本でアレらを殺し得る人間が存在するわけがない。
そんな常識的な考えからの否定。
「いかに元“金冠級”のクジャクでも、2頭の竜……まして“崩天”が相手では及びますまい」
「――」
リンカは母の力を信じている。姐と烈剣姫の実力も。
何より、いつか湯霧の中垣間見た黒い金剛を。
レンメイの糸をものともしない、埒外の膂力を。
あの悲し気で、優しい眼差しを。
――しちろうさま
失恋の痛みで爛れた胸。
リンカは未だ癒す術を知らない。
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