第6話 佐々木朗希選手の物語
高校野球においては稀に、「怪物」と呼ばれる圧倒的な力を持った選手が登場する。
昭和の怪物、江川卓選手。
平成の怪物、松坂大輔選手。
そしてこの令和の時代に怪物と呼ばれたのが、佐々木朗希選手だ。
恵まれた長い手足。
躍動感溢れるフォーム。
そこから繰り出される剛速球は、160km/hを超える。
鋭く落ちる高速フォークまで投げるのだから、もう手が付けられない。
怪物と呼ばれるに相応しい、恐るべき投手だ。
そんな佐々木選手だが、小学生の頃に東日本大震災の津波で、父親と祖父母を亡くしている。
まだ幼い佐々木少年にとって、どれほどショックだったことだろうか。
中学時代ぐらいまではまだ震災の影響があり、野球部の練習は仮設住宅横の空き地で行うしかなかったという。
悲しみや逆境の中でも野球に打ち込み続けた佐々木選手は、県内外の野球強豪校から熱烈なスカウトを受けるほどの選手に成長した。
その中には甲子園常連である、超有名校の名前もあったという。
だが佐々木選手は、地元の高校に進学する道を選んだ。
中学時代の仲間達と同じ高校に入り、甲子園を目指すことを決意。
地元への思い入れが、そうさせたのだ。
高校3年生の夏。
佐々木選手のチームは、岩手県大会の決勝まで勝ち進んだ。
あとひとつ勝てば夢の大舞台、甲子園だ。
しかし決勝戦のグラウンド上に、佐々木選手の姿はなかった。
監督が、試合に出さなかったのだ。
「このまま試合に出続けると、佐々木朗希は壊れる」と判断して。
佐々木選手は中学時代から、怪我に悩まされることが多かった。
凄まじいポテンシャルに、成長途中の体がついていかなかったのだ。
エースピッチャー兼4番バッターを欠いたチームは敗退した。
令和の怪物とまで言われた少年は、甲子園の土を踏むことなく高校野球を終えたのだ。
この監督判断には、非難の嵐が吹き荒れた。
「なぜ投げさせなかった!? 甲子園まで、もう少しだったのに!」
「監督と佐々木だけのチームじゃないんだぞ! 夢を断たれた、チームメイト達の気持ちも考えろ!」
「怪我が怖ければ、スポーツなんかするな!」
佐々木選手の高校には、約150件もの苦情電話がかかってきたという。
一方で、監督の判断を支持する声もあった。
「佐々木朗希は、日本球界を背負って立つ可能性がある選手。大事に育てるべきだ」
「高校野球で、使い潰していい才能じゃない」
「よくぞ佐々木を守ってくれた」
というような論調だ。
テレビ番組でも取り上げられるほど、世間の注目を集めた事件だった。
よく考えれば、とんでもない話である。
「いち高校生が、アマチュアの試合で投げなかった」
それだけのことなのに、日本中の野球ファンが大騒ぎしたのだから。
筆者は監督の判断を、全面的に支持している。
だが、こうも思う。
佐々木選手、仲間達と一緒に甲子園行きたかっただろうな……と。
高校卒業後の佐々木選手はプロとなり、千葉ロッテマリーンズに入団した。
甲子園には行けなかったが、彼の野球人生はここからが本番ともいえる。
令和の怪物が日本球界に新たな伝説を刻むことを、皆が期待していた。
ところがプロ1年目。
佐々木選手は、全く試合で投げなかった。
1軍の試合だけではなく、2軍の試合でもだ。
球団の意向で、最初の1年は肉体強化に専念させられることになったのだ。
2年目の後半からはマウンドに上がることもあったが、かなり間隔を開けてのポツポツとした登板。
「球団は佐々木を、甘やかし過ぎではないのか?」
「もはや腫れもの扱い」
「プロでは通用しないから、投げさせないんじゃないの?」
「『投げない怪物』ワロスwww」
など、野球ファン達は疑問を持ち始めた。
そんな疑問の声を、実力でねじ伏せる瞬間がやってくる。
プロ3年目。
佐々木選手は完全試合を達成したのだ。
完全試合というのは試合において、1人も出塁させなかったということ。
相手チームは9回×3人=27打席の攻撃で、佐々木選手の投球に手も足も出なかったのだ。
ピッチャーとして、最高の栄誉。
日本プロ野球においての完全試合達成は、実に28年ぶり。
しかも佐々木選手はこの試合で、連続奪三振の世界記録も更新している。
おまけに次の試合でも、完全試合寸前までいくという圧巻っぷり。
この活躍は海を越え、アメリカのメジャーリーグ関係者やファンをも驚愕させた。
充分な準備期間を経て、令和の怪物は目覚めたのだ。
佐々木選手の才能を信じ、非難の矢面に立って守り抜いてきた大人達の苦労は報われた。
そしてプロ4年目。
21歳になった佐々木選手は、日本代表チームに選出された。
WBCで日本が世界一を獲るためには、「令和の怪物」の力が不可欠だ。
すでに世界中の野球関係者から注目されていた佐々木選手だが、国際試合では初お披露目だったりする。
佐々木選手のWBCデビュー登板は、3月11日。
奇しくも東日本大震災と、同じ日だ。
佐々木選手は震災を振り返り、こう語っている。
「当たり前が当たり前じゃないとか、今あるものがいつまでもあるわけじゃないとか、そういうのを思い知らされました」
多くのものを失ってしまった佐々木選手は、感謝を忘れない。
自分を信じ、守ってくれた人々に。
野球ができる環境に対する感謝を。
そんな佐々木選手だからこそ、周囲の人々やファンは応援したくなる。
多くの人々から想いを託されて、佐々木選手はWBCのマウンドに登った。
剛速球がキャッチャーミットに収まる音は、東京ドームの屋根を突き抜けて天まで届きそうだ。
この日、世界は「令和の怪物」を目撃した。