第11話 Gone days
夢の中でくらい、本音を叫んでもいいのだろうか。
今ここにあるのは記憶の残滓。
幸福だった頃の思い出の欠片。
実家では三匹の犬を飼っていた。そのうち二匹は一昨年大往生したと聞いている。残った一匹は天寿を全う出来なかった。
僕が幼稚園の頃の話だ。
きつね色の毛並みに長い胴体。 モカという名前のミニチュアダックスだ。
他の二匹は僕には懐かなかった。
傍から見れば異様な程に。
幼い僕に理由の検討はつかなかった。
今ならわかる。動物の本能、野生の勘だ。
彼等には僕が死神に見えていたことだろう。
そういう意味では、僕に懐いたモカは、その野生を喪っていたのだろうか。
幼稚園から帰った僕を、玄関まで嬉しそうに出迎えてくれたのも。
僕がトレーに入れた餌をただ一匹、美味しそうに食べて、食べ終わると僕の傍に走り寄って来たのも。
お腹を見せて撫でて貰えるまで、頑として動こうとしない姿も。
他の二匹が近寄ろうともしなかった僕に、これでもかと寄り添ってくれたことも。
全て、何もかも、モカが動物としてあるべき生きる術を失って、ただ人に飼われるだけの愚かしい畜生であったからなのだろうか。
違う。絶対に違う。
モカに野生はなかったかもしれない。だけどその代わりに、理性を持っていたのだ。
僕の持つ呪いに、その痛みに、弱きに寄り添おうとする、高潔さがあったのだ。
そうでなくては。
そうでなくては。
そうでなくては、やり切れない。
僕の家族が。その死が。
報われないだろう。
幼い僕は、庭で動かなくなったモカが、眠っているものと思って何度も揺すった。モカ、モカ、と何度も何度も声を掛けた。
だけどそうする内、何となく、そうじゃないのだと気づいていった。
冷たい。
柔らかくない。
生き物じゃなく、ものみたいに、動かない。
どうして。
どうして動かないんだろう。
今日の朝まで、あんなに走り回っていた。
どうしたらまたモカは走れるのだろう。
僕はすぐに母を呼びに玄関へ駆けて、初めて靴を揃えずに脱ぎ捨てて、靴下で滑るフローリングに転びそうになりながら、台所の母に言った。
「モカが、変なんだ。動かなくて、冷たくて、固くて、どうしよう」
母がなんと言ったか、思い出せない。
けれどその顔は今でも忘れられない。
その時は、その顔が、どんな感情の表出なのか、分からなかった。
今なら分かる。
それは、恐怖の顔だった。
不幸中の幸いだったのはあの時の自分がその呪いに気付いていなかったこと だけだろう。きっと気付いていたらもっと自分を責めていた。
けれど代わりに僕は初めて、喪うということの途方もなさを体感したのだ。
概念として理解出来たとは、お世辞にも言えない。
でも、巨大で抗いようの無い正体不明な何かに、覆われて生きる自分という存在がなんとささやかで、頼りないものなのだろうかと、そう言葉に出来ずとも、心の深い部分に楔となって突き刺さったということは、確かなことだった。
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小学生のころ僕は幸運なことに、友達が少なくは無かった。趣味が合う友人もたくさん存在して、2時間目の終わりの20分しかない休み時間に、誰から言い出すでもなくロッカーにしまってあるバレーボールを取りだし、校庭へと駆けだしてドッジボールをするのがお決まりとなっていた。男女問わず活発な人物はこぞって参加し、勝ったら笑顔、負けても笑顔という至福の時間だった。
泥だらけになりながらも、「お母さんに怒られる」とはにかむ友人たちを見て僕も心躍ったものだ。
それだけではない。アクティブな遊びもそうだったが、インドアな遊びをする友人もいた。僕はそのどちらにも属していて、友人が多かったのはその多趣味からくるものなのか、と今になって自己分析できる。机の上に消しゴムを並べ定規で弾いてぶつけ合い、最後まで残っていた人間の勝利という、単純ながら奥の深い遊びだ。
そのうち消しゴムにこだわる友人も増えていき、終いには1kgもある超大型の消しゴムを持ち込む人も現れて、それにはどうやっても勝てないぞ、と些細な諍いがあった、が小学生特有のものだろう。次の日にはまた笑顔でレギュレーション決めが行われたものだ。残念ながら、翌月には教師が必要最低限の文房具しか持ち込んではいけません、とのお触れを出し、消しゴム弾きも下火になった。
僕はあの空気が、大好きだった。大人になれば娯楽など腐るほどあるだろう。酒、煙草、風俗、パチンコ、麻雀、と枚挙にいとまがない。
しかし、あの制限された校則の中で、自分たちで「楽しい事」を発見し、法の穴をつくように様々な娯楽を友人たちと遊べる、というのは、如何にお金を持て余した大人でも、如何に時間を持て余した大人でも味わうことが出来ないことを今になって思うととても寂しく感じる。
順調な小学校生活だったが、大きく亀裂が入ったのはそのころからだろう。最初はよく遊ぶ友人が転校した。
それ自体不思議な事ではない。友人と転校して疎遠になることなどよくある話だ。それでも幼年期によく遊んだ友人との離別というものは、喪失感が大きい。それも世界が大人に比べて極端に狭い、学校や家庭が自らの世界のほとんどを占めている小学生にとって。
しかし、数が多かった。僕の友人と呼べる人間は軒並み、仕事の関係だの、身体を壊しただので、いなくなっていってしまった。
そうすると必然、仲の良くないグループが学校には残り、僕と接することになる。お前は疫病神だと。一緒に遊んだら別の学校に行かされちまう。と煽られた。しかし、僕の一番の親友だけは、最後まで僕の肩を持ってくれていた。
彼はどんな遊びを考えるのでも右に出るものはいなかっただろうと、大人になった今でもそう思う。すごろくに一手間加えて、ドイツ製ボードゲーム顔負けの名作を作ったり、鉛筆に文字を書いて、六面体のどの面が出るかを勝負に昇華させたり。彼がいたら、日本にもう一つのオモチャ会社が生まれていただろうと思うだけの逸材だった。
嬉しかった。誰か一人でも自分の味方がいてくれるというものはこれほどまでに力強く、勇気を与えてくれるものだと、心が燃え上がった。
しかし、その一か月後。その親友は大型のトラックに轢かれてこの世を去った。そうするといよいよ仲の良くないグループからも忌避されることになった。虐められることさえされない。恐怖の対象となったのだ。
親友の母親が学校にやってきて、僕を罵ってきたことが一番堪えたかもしれない。僕のせいで、可愛い息子を失ったのだから。結局その母親は警備員に引きずられて退場したが、そこのしんとした教室で僕に慰めの言葉を掛けることは担任の先生ですらしなかった。
当たり前といえば、当たり前だ。自分も友好度を深めれば死の危険が待っているとすれば当然の危機管理能力だ。これは一体誰が悪いんだ。トラックの運転手が悪いのか。不注意な親友が悪いのか。いや、違う。僕が悪かった。
孤独というものに人は慣れない。一人が好きという人間も一定数存在するだろうが、自分側の人間が誰一人存在しない空間に、まだ小学生だった僕が立たされていたのには。心に響くものがあった。音も聞こえる、眼も見える。でも、それがより一層僕は一人だという現実を突きつけてきた。
学校から帰っても、両親と会話は起きなかった。ネグレクトや虐待をされていたわけではないが、必要最低限、ある程度距離を置いた関係になっていた。食事の時間は合せず、食卓テーブルの上に焼きそばが置いてあり、「あっためて食べて」と温度の感じないメモが張られていた。
そんな僕の唯一の癒しとなったのが、そう離れていない場所に住んでいる祖母との交流だった。小さいころから好きだった。学校や家でまともな扱いを受けていない僕の話を聞いて祖母はにこりと笑い。
「じゃあ、傑ちゃんは私と遊びましょうねぇ。何がしたい?」
と声を掛けてくれたのには本当に救われた。年季の入ったトランプや将棋を棚から取り出し、祖母は顔をほころばせた。難しいルールは分からなかったのでトランプではババ抜き、将棋は崩し将棋をしてたくさん遊んだ。デジタルゲームにも興味はあったが、おばあちゃんと遊べるなら、ババ抜きのほうが100倍楽しかった。
両親には伝えていなかったが、それを祖母に話しても「私が言いくるめるから大丈夫よぉ」と笑顔で答えるだけだった。
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「上がりだよ! ばーちゃん弱い!」
「傑ちゃんは強いねぇ」
崩し将棋はともかく、運の勝負であるババ抜きですら、僕は祖母に大勝していた。今思えば、あれはわざとジョーカーをひいて、僕にジョーカーを引かせないように手加減してくれていたのだろう。そんな優しさに当時は気付くことは無かったがそれでも僕はおばあちゃんが好きだった。
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「今日は自作のすごろくを作ってきたんだ!」
「傑ちゃんは面白いおもちゃを作れるのねぇ。これは将来おもちゃ会社の社長さんかもしれないねぇ」
学校帰り、両親には内緒で、祖母の家を訪れるのはほぼ日課となっていた。しかし、鈍感な小学生にとって、祖母の感情の機微に気付けという事は無理筋であったかもしれない。
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傑ちゃんは私に初めて出来た孫だった。出産が近いという連絡を聞いて、自分の腰が悪いのも忘れて大急ぎで飛び出した。それはそれは人様に見せられる形相をしていなかったでしょう。
赤ん坊のころから知っている。あの子は祝福されて生まれた子供だ。誰もが望み、喜び、あの子が無事生まれ落ちたことを神に感謝しました。
ただ少し体が弱かった。幼稚園の時に病気で死にかけたなんて連絡を聞いた時には全国の神社を回って祈願をしたものです。
小学校に入って友達とも仲良くやれていると聞いて安心した、が。最近どうにも傑ちゃんの身の回りで“不幸”が起こり続けているらしい。運が悪い、ただそれだけの事じゃあないですか。
ただ、私としても、何も考えがない訳じゃない。当然あの子と仲良くすることは危険が伴う。
だからなんです? 危険だからかわいい孫を蔑ろにしろとでもいうんですか? そんなときに黙っているおばあちゃんがどこにいるものですか。ただ、縁起でもない事ですが、遺言状に言いたいことは書いておきましょう。私に万一の事があっても決してあの子を責めないように、と。
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ある日、いつものように学校から逃げ帰るように帰宅していると、祖母の家の前が騒がしい。僕は小学生ながら胸がざわついた。赤色灯が点灯している白い車からは救急隊員が大声を上げながら、指示を飛ばしている。そこには僕の両親も存在した。
僕が気付いたのが先か、両親が先か。ともかく、話し始めたのは両親が先だった。
「これ、もしかして、アンタが……」
と神妙な顔をして、表情を一変させたかと思うと、母が怒鳴り始めた。
「この人殺し!!」
祖母は母方のおばあちゃんであり、母のお母さんだ。実の親を僕に殺されたのだ。これくらいの暴言を吐く権利は、ある、だろう。亡くなったのか。そこで実感した。もうおばあちゃんはいないのだ。
「おいやめろ。言い過ぎだ! 傑だって、苦しいに決まっているだろう!」
弁護に回ってくれたのは父だった。それでいくらかは救われた。しかし、僕は祖母を間接的に殺して、挙句、実の親に殺人犯呼ばわりされることは、未成熟な僕の心を歪ませるのに十分すぎる言葉だった。
「あなたはいいよね! 自分の親が死んでいないんだから!」
「俺だって悲しいんだ!」
子はかすがい? そんな事は全然なかった。縁を取り持つどころか、引き裂いているではないか。バカバカしい。忌み子だとなじられ、それ以降両親は不仲に、僕への風当たりも一層強くなった。僕だけが、世界で僕だけが悪者なのだ。
ただ、僕は感謝した。両親を好きにならなくてよかった、と。
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県外の中学へと行くことになり、僕のことを知る人物もいなくなった。中学に上がり僕は人と仲良くすることを止めた。流行りのカードゲームはコレクションにして楽しむこととして、小説や漫画の世界に身を投じることになった。最初は声を掛けてくれる心優しい人物もいたが、僕は基本的に無視することにした。そうすれば自然と人は離れていく。
心苦しかったが、仕方がない。これで、理不尽な呪いに巻き込まれることもないだろう。孤独と戦いながらも僕はひたすら自分の趣味に打ち込んだ。そうすることでしか発狂しそうな孤独感を忘れられなかったのだ。
だが、現実はそう甘くなかった。カードゲームは絶版となり、好きだった小説の作者は体を壊し、続刊が出なくなった。お気に入りの漫画も打ち切られた。神はそんなささやかな。多くを望まない僕のささやかな趣味でさえ奪っていくのか。
好きになったカードゲーム、定食屋、アイス、小説、漫画と悉く消えていった。全部なくなっていく。これもそうだ。悪者は僕以外にいないのだ。僕以外誰も悪くない。
これは呪いだ。僕が好きになっていくものは全部失われていく。ならば全てを嫌おう、全てに嫌われよう。
好きになったものが失われていく僕が取れるたった一つの選択肢は、全てに嫌われることだった。
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小うるさいアラームが僕を覚醒の世界に引き戻す。寝覚めは良いとはとても思えなかったが、洗面所に行き顔を洗い、歯を磨く。リュックサックに今日の講義のテキストを詰め込み、松葉杖をついて玄関に向かう。靴を履くのに苦戦しているところで玄関のチャイムが鳴らされる。
滅多に起こらない事なので僕は身構えてしまう。しかし聞こえてきた言葉は温かい声色で僕を癒してくれる。
「阿礼さん! 起きてますか?」
なんだ、彼女か。もう慣れてしまっている自分が怖い。外にいるであろう白鳥希子に僕はぶっきらぼうに返事をする。
「今行くから、待ってろ」
「わかりました」
漸く無事なほうの足に靴を履き、玄関扉を押し開ける。そこにはいつもと同じく無邪気な笑みを浮かべた白鳥さんが立っていた。相も変わらず美しい。
「大学までは何で移動しているんですか?」
「あー、そうだな。近くにバス停もあるしそれに乗るのが一番手っ取り早い」
「勉強になります!」
本当にこのままでいいのだろうか。彼女は好奇心で僕に付きまとっているだけだ。本当のことを打ち明けたところでどうなる。「呪い? 中二病を発症するには年を重ねすぎてしまっていないですか?」と相手にしてもらえないだろう。
いやむしろそれを証明出来たら、彼女が僕に固執する理由は無くなる。彼女のためを思えばここで全てのネタ晴らしをするべきなのだ。
「バスが来るまで結構時間がありますね。ティーセットはお気に召したでしょうか?」
「そもそも僕の家に茶葉はない。残念ながらまだ未開封だよ」
「そうですか……」
「誰もかれも紅茶を楽しむ余裕があるとは限らないんだ。そこのところ、もうちょっと注意を払ったほうが良いぞ」
「ごめんなさい」
「……でもまあ、ありがとう」
まただ、彼女と一緒にいると本心が出てしまう。どうにかならないものか。今さっき彼女を遠ざける決心をしたところだろう。
そうこうしているうちにバスが到着する。ステップを上るのに苦戦していた僕を見かねてか白鳥さんは手伝ってくれる。
「でも、大学でお喋りできる友達が初めて出来て嬉しかったです」
「初めて?」
聞き間違いだろうか、この美貌でぼっちだったのか。男どもは放っておかないだろう。それについて質問しようとするも、笑顔ではぐらかされてしまった。
美少女の笑顔は、ピストルなんかとは比べ物にならないほどの武器なんだな。重々それをわかったうえで彼女と接さなくてはならない。油断したら彼女は失われ、僕の喪失感は果てしなく大きいものになるのだから。
「ステップのところ危ないから気を付けてくださいね」




