第1話 始まりの朝
痛い、痛い痛い痛い。なんだこれは。骨折ってこんなにも痛いものだったのだろうか。軽く自動車にはねられただけでこの痛さだ。誰かに助けを求めないと。
僕が、助けを? 飯屋では威張り散らし、最悪のクレーマー。道行く人は少なくないが、それでも誰も助けてくれないのは僕がやってきたことのツケじゃないか。
粛々と受け入れよう。嫌われ者の人生はここで終わりだ。漸くこの呪いともおさらば出来る。もしも来世があったなら、人に尽くそう。今世で出来なかった恩返しを出来る限りの人物に。
「大丈夫ですか?」
花が咲いたようだった。大輪の向日葵が。アッシュブラウンの髪に、琥珀色の瞳。今すぐにでも助けを求めたいほどの激痛を気合で押し込めながら、僕は彼女に嘘をつく。
「……余計なお世話だよ」
嫌われてしまった。今度こそ確実に。でもそれでいいんだ。彼女を、僕を取り巻く災禍の渦に入れるべきではない。だからこそ僕は嫌われるべきなのだ。
「ふふふ、私を誰だと思っているんです?」
だれって、まだ名前も聞いていない。それに何笑っているんだこの子は。
「私は泣く子も黙る名探偵。貴方の孕む矛盾をお天道様のもとに曝け出して差し上げましょう」
僕の物語は今まで始まってさえいなかった。今この瞬間動き出したのだ。
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朝起きても世界は終っていなかった。六畳一間のアパートの一室で僕はテレビをつけるが今日も世界は平常運転だ。芸能人が浮気をしただの、東京に美味しいグルメがあるだの。明るかったり暗かったりするニュースが織り交じり、僕に“日常”を噛みしめさせてくる。もう味わったよ。味が出なくなったガムのように噛みしめたよ。僕は溜息を吐き、スマホと財布をポケットに入れて朝食を取りに近場の店まで歩いていく。
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「いらっしゃっ、! せー……」
僕が牛丼屋に入ると店員は何かを察したかのように言葉尻が小さくなる。明らかにそれは嫌悪だった。食券制ではないこの店ではいやがおうにも僕に注文を聞きに来なくてはいけない。だからこそここは僕の“お気に入りの店”だった。
「ご注文は何になさいますか?」
「君さ……僕の顔覚えているよね?」
「え? いや、その」
「反応に困るってことはそういうわけだ。わざわざ知っているのに注文時にひと手間取らせるのやめてもらえないか?」
「あの、同じお客様が同じものを頼むとは限りませんので……」
至極まっとうな意見だ。ぐうの音も出ない。だって勝手に料理を運んで来たら、それはそれでクレームを入れようとしていたのだから。いや、まいった。先手を打たれたな。だったら王道のこれで行くしかないだろう。
「あ? なに? お客様は神様だろう? それとも僕が間違っているってそういいたいわけ?」
「いえ……そんなことは」
周りの客も心配そうにこちらを見ているのが半数ほど。時たま正義感に駆られる男が店員に助け舟を出してくれるのだが、運悪くもそういった人間はいなかったようだ。
「時間の無駄だね、牛丼並盛り。とっとと作って」
「……かしこまりました」
言葉の上では丁寧だが、目は口程に物を言う。その視線は心底汚物を見るようなものであった。数分後、流石牛丼屋。ほかほかの牛丼がカウンターの上に出される。このクオリティのものが数分で出せる企業努力には舌を巻く。
僕は無言で割り箸を割り、牛丼と口内の空気を混ぜ合わせるように、クッチャ、クッチャと大音量で響かせながら、咀嚼していく。食い終わると乱暴に丼を叩きつけレジへと向かった。
「お会計、390円になります」
僕は財布から百円玉四つを取りだしレジに放り投げる。そのうち一つがころころと転がり床へと落ちて金属音が鳴った。
「拾えよ、神様に拾わせるなんてことは無いよな?」
接客の人は大変だよな。心底そう思う。僕みたいな屑は他にも大量に来るのだから。同情するよ、心の底から。
「……ご来店ありがとうございましたー」
その挨拶も無視して、店を出ていく。そこでかすかに耳に入ってきたのは先ほどの女性店員の小声だった。
「…………死ねばいいのに」
慣れたものだ、こんな事。今まで何人の人間からそう思われてきただろう。数えるのすら嫌になる。こんな時は甘いものでも食べて気分をリフレッシュするのが良い。丁度好きなスイーツを出す店がこの近くにあるんだ。腹ごなしも兼ねて歩いていこう。うん、そうしよう。
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『店主急死につき閉店いたします。ご贔屓にしていただいた皆様ありがとうございました』
待ち受けていたのはそんな張り紙だった。立ち尽くしてしまった。世界から切り離されたように車の音も、道行く人の声も聞こえない。どれほどの時間がたっただろう。こんなに長い事この一文を見ていてどうなるんだ。目を瞑って開けてみたら今までと同じく客で賑わうパンケーキ屋に戻っているわけでもないのに。馬鹿か僕は。
そうか。やっぱりそうなるか。ここのパンケーキは絶品だった。それが世界から無くなるのは筆舌に尽くしがたい無力感だ。僕は目を伏せて無言で家へと帰っていった。
□□□ 阿礼の部屋
「どんどん人に嫌われるのが得意になっていくな」
心の中で思っただけの言葉は声となって誰もいない部屋の中に溶けていった。それに気が付いて僕は少しおかしくなって笑ってしまった。もう日も傾いてきている。バイトまで時間はまだあるから少しの間仮眠でも取ろうか。今日もまた一つ嫌われ者の王様に近づいたぞ。頑張れ僕。頑張れ阿礼傑。
□□□
誰も、居なかった。
僕の他には、誰も。
でもそれが、僕には好ましい。なくなってしまうくらいなら。僕が愛することで、消えてしまうくらいなら。
いつか分かたれる日が来る、その悲しみの大きさを考えれば。とか、そういう次元の話では、断じてない、僕に取り憑いているこの呪いは。
初めてそれに気が付いたのは5歳のころ愛犬が死んだときのことだ。ペットとの死別は飼い主ならば誰もが経験するだろう。でも僕の場合は少し違った。犬種の違った三匹の犬を実家では飼っていたが、どうにも懐かない。動物の本能で威嚇しているのだろうか。しかし一匹だけ、僕が幼稚園から帰るたびに尻尾を振って歓迎してくれるミニチュアダックスが心底好きだったし、愛していた。そのダックスが2歳の時だ。急に衰弱し、一日と持たずにこの世を去った。まだ幼い僕に死の重みは完全に理解できていなかった。それでも会えなくなってしまったとわかった僕はわんわんと泣いた。獣医の話では原因は全く不明だった。
次に小学生の時の話だ。よく遊ぶ友達は親の都合で転校したり、特に仲の良かった親友は車に轢かれて亡くなったりした。このころから僕の異常性に気付いたクラスメートは僕の事を疫病神だと恐れるようになった。最初は冗談で、「あいつと関わると不幸になる」とからかわれたが、その偶然が重なることで、それは必然のようだと子供心ながら感じたのだろう。虐められることもなく、ただただ空気として接されることとなった。
極めつけは祖母の死だった。学校でのけ者にされているんだと話しても両親も気味悪がって、僕と心なしか距離を取るようになっていった。そんな中優しくしてくれたのはおばあちゃんだった。一緒に自作のすごろくで遊んだり、おしゃべりをしたりした。酒も煙草もやらない健康的な祖母は何の前兆もなく亡くなった。これまた医者からしてみたら原因不明。心不全として診断されたが、実質死因不明。これにて僕は小学生ながら理解した。僕が好きになるものは消えてなくなっていくのだと。
他にも好きだったカレー屋、カードゲーム。アイス。玩具。枚挙にいとまがない。
そうして、僕は何かを好きだとは言わなくなった。好きなものほど、遠ざけておくようになった。
怖かった。
僕にとって愛したものとの別れは、いずれ来るかもしれない可能性ではない。無数にある分岐路の先に、あるかもしれない未来ではない。確定した事実なのだ。僕にとって好意や愛着を表に現わすことは、それと二度とは出会えないという厳然たる事実と抱き合わせだった。
同世代の皆が、お気に入りのアーティストの話で盛り上がっているとき、僕はどうしたら何かを好きにならずにいられるかを、懸命に学んでいた。
結論から言えば、徒労だった。
生きることと執着することとは密接にかかわりあっていて、分かち難いのだという当たり前の事実を、改めて突き付けられただけだった。それでも、仕方ないじゃないか、と僕は自分に言い訳をする。この恐怖は、誰にも分からない。つい、うっかり、好きと言おうものならば、それは消えてなくなるのだ。誰も僕に責任を問うことはできない。だけど僕だけは僕の犯した罪を認識するのだ。
この苦しみが、誰に分かるものか。その恐怖が、誰に分かるものか。そうまで苦しんで、得られるものは何一つない。ただ、愛したものが、永久に消え去った事実が残るだけだ。こんな地獄があるものか。それから逃れるために、如何に普遍的事実の再確認に終始した徒労であったとしても、何かせずには、我慢ならないじゃないか。
宗教の本もたくさん読んだ。しかしどれもこれも、特定の何かに執着しないだけで、愛そのものを捨て去る宗旨はなかった。一つを愛さぬ代わりに、すべてを愛する。それは自然だったり、神様だったりした。執着の行き先を置き換えるだけでは、僕の場合は、駄目だった。
そして何より、僕には「愛さない才能」がなかった。これは多くの時間を費やして分かったいくつかの事実の中で、とりわけ僕を絶望させた。僕は、憎めなかった。こんな目に遭っている自分に、如何に悲劇的に陶酔しようとも、僕にはこの世界は美しかった。
親切にされればお礼を言いたいし、誰かに親切にしてあげたかった。食べ物は美味しいし、海は美しいし、小説や漫画はいつも僕を素敵な世界へ連れて行ってくれた。勿論、醜いものだってある。しかしそれを差し引いても、少なくとも僕を取り巻くこの世界は、知れば知るほど知り尽くせぬほどの多様性と一方で相反してある法則性とに満ちていて、僕には輝かしいほどに美しかった。
憎むことが、できなかったのだ。
それが余計に、僕を際限なく苦しめていた。
愛さないことは、出来ない。
だから、愛は口にしないことにした。
愛はあらわさないことにした。
この愛は秘して語らず、心中で愛でるくらいで十分なのだ。そうして、誰に愛されることもなく、いつかひっそりと、この世界に別れを告げよう。
愛情が双方向でなくちゃいけないなんて決まりは、ないのだから。
愛されずとも、愛するくらい、自由じゃないか。
そうして僕はどんどん、部屋の外の世界と、内の世界とを隔てる壁を、高く高く積み上げていった。いや、つまり、引きこもった。それを引きこもるとは、言いたくなくて、格好をつけただけだ。僕は僕の意思でもって能動的に引きこもったのだから、そのくらいの虚飾は許されるだろう、と、そうした思考そのものが、もはや、引きこもりだな、と自嘲しながら、僕は今日も、自室に閉じこもる。
誰も、居なかった。
僕の他には、誰も。
でもそれが、僕には好ましい。
なくなってしまうくらいなら。
僕が愛することで、消えてしまうくらいなら。
────嘘だ。
そんなのは、嘘だ。
つらつらと僕の決意を述べた。それ自体は本心だ。
でも。
やっぱり、愛してばかりで愛されないのは、辛かった。愛を口にも出せず、行動にもあらわすことができない僕を、誰も愛さないことは自明だった。というより、自分から嫌われに行っている節も大いにある。一度愛されてしまえば、僕のことだ、愛さずにいられなくなる。
だから僕は、ものの好き嫌いの話になると決まって、本心とは逆を言うことにしていた。学校の皆には、肉と魚と野菜が嫌いで、戦争と渋滞をこよなく愛する、デリカシーのない人格破綻者として有名だ。
そう、学校にはしっかり通っているのだ。こういうところも、僕の世界を憎み切れない性格が出ているかな、と思う。いや、端的に言えば、ある意味では、僕は狂っているかもしれなかった。
誰にも愛されないという、欲求不満を、誰かあるいは何かを愛することで、どうにか補填しようとした結果、学校には通い、学びの楽しさや、学生たちの笑い声や部活動の音に癒されつつ、絶対にその渦中に参加することはない。
そして未だ僕の悪評を耳にしていない初心などちら様が、あまりに慈愛に満ちているらしい僕の顔を見て、どれそれが好きなのですか、と声をかけてくるなり、「いいえ嫌いです」とにっこり答えるのだ。
誰が、好きになる、そんなやつ。
狂っている。客観的事実としても、あるいはそうまでして、学校に通う僕も。だから僕は人を愛さないために、愛されないために最大限の努力をしているのだ。
お読みいただきありがとうございます。今日から二週間は毎日投稿、それ以降は週に一回か二回のペースで投稿する予定です。是非ともお付き合いいただけるとありがたいです。