婚姻への下準備④
「……ソラ王子。ジェルードでは……婚姻の話は出なかったのですか?」
昨日まではリラがいた王子の部屋に入り、ダッシュボードの上に置いていた黒い鏡を手にしたアマティが話しかけた。
「あぁ、母が僕の身を案じて、ルチェーレの王子という身分は隠しておいたんだ。数人のメイドがいたけど、誰も事情を知らないはずだよ。ただの貴族の子が病気療養してると思われたんじゃないかな」
懐かしそうに部屋を見回したソラが、微笑みながら部屋の中央に置かれたソファにゆっくりと腰掛ける。
……なるほど。対外的に影がいることを隠していた……にも関わらず混乱が無かったのは……
「そうですか……。あぁ、何かあれば外の護衛騎士かメイドに扉を開けず命じてください。食事は後でメイドが持って来ます。……退屈でしょうが、数日はこの部屋で我慢ください」
「とりあえず、ここにある古書を読んでおくよ。……何かあればアマティに声をかけるから」
先ほどの様子を思い出しながら顎に手を当てながら歩くアマティは、立ち止まってから少しだけ振り返り、王子の部屋の前に立つ騎士とメイドに目を向けた。
……こちらの様子はマンナリ王妃に知らされてきたはず。だが、ソラ王子を含め他国の動きは全く知らされないまま……
あの者たちに事情を話すわけにはいかない。アマティは困っていた。聖炎式を控え王や王妃、全てを統括するセガノトとも話ができなかったからだ。
諜報官や内務官から漏れる情報に整合は取れない。今日もソラが帰国し、王子たちと合わせる場を設けることができたのは、メイドたちの噂話で聞いていたから。
婚姻の話など予定外のこともあったにせよ、これからの進捗に不安を感じながら 再び前を向いたアマティは、食堂へ向かって歩いて行った。
誰もいない補佐室の本棚を漁り、ひとり古書を読むリヴェール。先ほど話をしながら、幼少の頃では読めなかった文字、手が届かなかった古書が多く残っていることを思い出した。
……古くからクリアミニはイセタリブ大陸に属したという記録は無い。それどころか、ここ二十年くらいだろうか? イセタリブ大陸の地図が変わっている?
ボロボロになった紙、ところどころ薄くなり消えかかった文字の古書から、二国だったルチェーレ、スタナ、セルモドから分立した国が存在しているような地図を見つけたリヴェール。自身の記憶を思い出しながら、別の古書を読み始める。
――ガチャ
ノックも無く扉が開いた。その音に気づかないまま読みふけるリヴェール。
「ん? ……これは……」
古書や伝記などが乱雑に積み上げられている様を見て、部屋に入った男が声を上げた。部屋の入り口からは、右側にある本棚は少し死角になる。
リヴェールの読んでいた古書から黒い板が落ちた。手のひらよりかは大きい四角い板。それを拾い、彫られている文字のような窪みを見つめている。
……これは文字……に似ているが、少し違う様な……
音に気づいた男が本棚の方へ歩くと、しゃがんでいた人影に気づき声をかけた。
「……リヴェール、まだ食事に行ってなかったのか?」
突然、声をかけられて焦ったリヴェールが、黒い板をズボンのポケットに入れながら立ち上がった。
「っ! ……はい。この本を片付けてから行こうと」
リヴェールは平静を装いセガノトに答える。
「またアイツ等は片付けもせずに……。すまんな、それが終わったらゆっくり食事をして来なさい。お前の仕事は他の者にやらせておく」
「……はい、分かりました。ありがとうございます……」
窓際の豪華な椅子に座ったセガノトは、大きな机の上に置かれた書簡に目を通しながらワインを一口飲んだ。
その姿を見てから小さく息を吐いたリヴェールは、片づけ始めた。
同時に五百人は入れそうな広い食堂の中央に並ぶ料理。
それを取り、席について談笑する王宮使いの者たちが徐々に持ち場へと戻って行くなか、部屋の隅のテーブルに肘をついて考えているフィオーレ。
食堂の入り口から顔を覗かせたアマティが、遠くのフィオーレを見ながら側に立っているメイドに声をかけた。
「あぁ、すまない。ソラ王子の食事を頼む。あと、三階の離れにも二人分の食事を。あとステーロを呼んでくれ」
「はい、分かりました。少々お待ちください」
頭を下げてからその場を離れるメイドの横を、銀色のカートに食事を乗せたメイドが通り過ぎる。
忙しそうなメイド同様、疲れた様子で歩いてきたステーロがアマティに声をかけた。
「さっきの話の続きですか?」
「あぁ、いや。食事を頼もうと思ってな。ステーロが作るまかないも二人分。あと黄葡萄のワインも樽で欲しいんだ」
「……それは構いませんが……」
「手間をかけるが、離れまでステーロが持ってきてくれ。できれば、フィオーレと相談する前に、な」
そう言って笑顔を向けるアマティに、大きく息を吐いて笑うステーロ。
「分かりました。でも、食事を持って行ったらすぐに帰りますよ」
「あぁ、それでいい。オレらも打ち合わせをするかもしれないからな」
ステーロはアマティの言葉に笑みを向けると、厨房に戻って行った。
料理を小皿に取るリヴェールに気づき、無表情のまま軽く手を上げるフィオーレ。
「…………」
リヴェールもそれに気づいたが、無言のまま背中を向けフィオーレとは反対側の隅のテーブルに座る。
「……ったく、まずは話し合いだろうが……」
「……リヴェールはもう何か考えてるんでしょう」
ぶつぶつと言うフィオーレの横から話しかけたステーロは、テーブルの上に小さな樽とコップを乗せた。
「アマティに食事を頼まれたので持って行きます。これでも飲んで、待っていてください」
「あぁ。飲まなきゃ、やってられねぇな」
樽からワインを注ぐフィオーレを見て微笑んだステーロは、銀色のカートを押して行った。
……何百年も間、毒の森と呼ばれ、人々から忌み嫌われていた山。その近づきもしなかった森は黄葡萄の木々だった。クリアミニ遠征が無ければ知らなかったこと。そこにいたはずのオレは、戦いのこともリラと会ったことも憶えていない……
コップに注いだワインを一気に飲み干すフィオーレ。すぐにワインを注ぎ、また飲み干すと、ゆっくりとテーブルに置いたコップをぼんやりと見つめた。