1万日後に戦死するとある奴隷戦士の生前譚 ゾン天ZEROシリーズ
千日後に戦死する奴隷戦士、お嬢様の犬になる
ある日、俺は戦いに負けた。そんな敗北者の末路はありきたりだ。その場で死ぬか、生きているだけマシだと思うか、死んだ方がマシだと思うかは勝者のさじ加減一つで決まる。ただ一つ言える事は、俺は運が良かった。
敵将の情けで殺されはしなかったのだから。
捕虜収容所の独房の中で、投げ込まれたカビの生えたパンくずや石のタイルの隙間から生えた雑草を齧っていると、その場に不釣り合いに煌びやかな恰好をした女が現れた。
「その目、気に入ったわ。今日からお前は私の奴隷よ。誠心誠意を込めて尽くしなさい」
その日から、俺は"また"、飼われる事になった。何故、数ある候補の中から俺が選ばれたのかは知らない。
「無様に這いつくばって餌を食べなさい、駄犬」
"お嬢様"はそう言うと、いつものように食べかけの食器を払いのけ、嫌いな食べ物を床にぶちまけてみせた。だだっ広いテーブルの上座にお嬢様が一人だけが座り、その横には多数のメイドや執事達が案山子のように棒立ちで突っ立って見ているだけだ。
笑いを必死に堪えてる奴もいれば、哀れみに満ちた目で見てくる奴もいる。が、気にする必要はない。
「ワン、ワン!」
こうやって犬の鳴き真似をしながら床に這いつくばり、カーペットにしみ込んだソースに舌を這わせる。俺がこれまで食べてきたあらゆる食事の中でも一番美味かった。年代物の恥垢やら尻の穴の味と比べるまでもなく、平民には到底口にする事の出来ない技術の粋が詰まった一品なのだから。
不味いわけがない。
「そう、涙が出るほど美味しいのね?」
「ワン!」
「誰が喜んで良いと命令したのかしら!」
「キャウン」
お嬢様は歪な笑みを浮かべると、席から立ちあがって脇腹に蹴りを入れてくる。それに合わせて大げさに吹っ飛び転げ回って見せるとお嬢様の機嫌がよくなる。
「アハッ、もっと鳴いて喚きなさい! ほらッ、ほらッ」
「キャウン!、キャウン!」
メイドや執事達のヒソヒソ声など無視し、お嬢様は一心不乱に俺を蹴り続ける。拷問というのはされる側だけではなくする側も多くの体力や精神力を消耗してしまうように、ドレスは擦り切れ、すねからは血が滲みだしている。
それまで棒立ちしていた案山子達も、いつの間にか日々の業務に戻っていた。 だが、お嬢様は案山子達について全く興味を示さない。まるで、"最初からそこに居なかった"のかのように。その興味は俺を屈服させる事にのみ注がれていた。
「貴方もお嬢様の癇癪に付き合わされて大変ね」
たまたまお嬢様が近くに居ない時を見計らってか、着付け係のメイドが同情してきた。そして、日々の愚痴を私に聞かせてくるのだ。いかにお嬢様が粗暴で歪んでいるのかを私に同意を求めてくるのだが、いつもの通り適当に聞き流しながらやんわりと会話を打ち切ろうとしていると。
ふと、じとっとした熱の籠った視線を感じた。
「……駄犬の私と話している所を誰かに見つかれば貴女の立場も悪くなりましょう。私の事はどうかお気になさらず」
次の日、館から着付け係だったメイドの姿が消えた。そして、俺はお嬢様の前に呼び出されたのだ。薄暗い地下室の中で、二人きりで。
「どうして呼び出されたのかお分かり?」
その手には鉄棘の付いた鞭を持っていた。
「はい」
「這いつくばりなさい駄犬。躾けて差し上げますわ」
一度鞭が振るわれれば胸板の肉がかぎ爪で掻きむしられたかのように削ぎ落ちる。腕、腿、すね、身体中至る所に血の三本筋が刻み込まれていく。それでもなお、何度も、何度も鞭は休むことなく振るわれ続ける。
「はぁ……はぁ……。ここの古傷、いつ付けた傷だったかしら」
息を切らすまで鞭を振るい続けたお嬢様は、返り血で真っ赤に染まっていた。頬は紅潮し、妖しい熱を帯びた瞳は、真っ直ぐとこちらを捉えている。
「……ッ!」
「お前は私のモノ。この血も一滴残らず全てよ」
出来たばかりの胸板の生傷にお嬢様の舌が這う。それだけで閃光が走ったかのように視界が白くなった。
「……ッはい……」
情欲に任せて拘束を引きちぎり、目の前にある隙だらけで小さくて柔らかい身体を組み伏せるのは簡単だった。だが、そんな気は沸かない。
「お前は、まだ私をそんな目で見るのね。不愉快だわ」
お嬢様はあまりにも小さく、か細い。力を入れて抱きしめれば容易く壊れてしまう程に繊細で、可憐だった。そして、何も恐れていないようで、常に周囲を恐れている。孤独の中で虚勢を張り、試し、拒絶し、己を傷つけ続けている。
「この目を気に入って頂けたのではなかったのでしょうか?」
「その、私の事を何もかも見透かしたような目を、壊して差し上げるつもりでしたのに。もういいわ、今日はじっくり休みなさい」
「はい」
メイドや執事達が寝静まって屋敷からは灯が消える時間帯。躾けによってズタズタになった身体を起こし、庭園の外れにある資材置き場へと行き、手頃な大きさの丸太を一つを拝借し、裏庭へと向かう。
一日剣を振るわねば三日は鈍る。そして、己が苦しい時に振るう剣にこそ真価が問われる。ようするにこれはただの日課だ。奴隷という立場上、こういう時間帯でもなければ棒切れを振るう自由もない。
いつもの"視線"に気づいた時にはもう遅かった。
「……」
視線の主はとくに咎めるでもなく、物陰からじっとこちらを見ていた。何故、今夜になって急に付けられたのかは分からない。そして、翌朝。
「今日からお前が紅茶を入れなさい」
近くにいた給仕係の表情が蒼白になった。
「お待ちくださいお嬢様、何か私に不手際がございましたのでしょうか?」
「惰性で仕事する給仕はいらないわ」
慣れてくると効率化のために"手抜き"が生じ始める。とはいえ、同様に高い水準の理解がなければそれを見抜くことなどできはしないし、素人が入れる茶よりは数段美味い事には変わりない。
傍から見ればただの理不尽な難癖に思えるだろう。
「お嬢様、私は茶の良し悪しや作法を知りません。たとえ入れたとしても、お嬢様のお口に合わないのではないでしょうか」
「ならば必死に覚えなさい。他の事に脇目を逸らすこともないように」
お嬢様はこう言っている。満足がいく物を出せない間は"日課"を禁じると。
「はい」
給仕係から茶の入れ方を学んだ。無論、給仕係もそれだけ必死に茶の入れ方を教えてくれたのもあってか、なんとか形になる物を作り上げる事ができたので、お嬢様に差し出した。
「……全く褒められたものではないわね。飲むに値しないわ」
お嬢様は一度香りを嗅いだ後に、俺の顔面に熱い茶を浴びせかけた。
「申し訳ございません。作り直します」
そんなやり取りを幾度となく繰り返した後、結局給仕係が屋敷から消えた。頼りになるのは蔵書室に保管されている茶の作法が記された書物くらいだ。
尤も、文字などロクに読めはしない。そこからだった。茶葉や砂糖の選び方、適切な温度管理、茶の道一つ修めるために時間を使い続けた。
「不味いわね」
お嬢様は渾身の紅茶を一口含むと、そう言ってくれるようになった。ここにきてようやく気付いた事は、書物に記された作法に正解がなかったということだ。
世の中には二つの茶しかない。お嬢様の好む茶と、それ以外の茶だ。
「……んっ」
そして、お嬢様の好む茶は気まぐれだ。時には渋めなのを好むし、時には甘めなのも好む。惰性で仕事をしている限り、この境地にはたどり着けない。
常に、お嬢様を見続けていなければならないのだから。
「次は料理を覚えなさい。駄犬」
鈍った剣の腕をこれ以上衰えさせないために日課を再開した次の日にそう言われた。
「ふふ、少しは私好みの良い目をするようになったわね」
お嬢様の機嫌はすこぶるよかった。それもそのはず、茶の一件は私を心から屈服させるために用意した茶番なのだから。これで全ては振り出しに戻ってしまった。そして、お嬢様はこうも言っているのだ。
お前が頑張り続けても第二第三の茶を用意すると。
「……そうね。でもここまで頑張ったのだから駄犬にもご褒美を差し上げないといけないわね。そこに這いつくばりなさい」
お嬢様は椅子に座り、靴と靴下を脱ぐと、目の前におみ足を差し出す。
「私の足指を舌で舐りなさい。丁寧に、優しく、ね」
絹のようにきめこやかな肌に舌を這わせると、ピクりと動いた。
「っ!」
ふと、見上げると羞恥心からか行為に目を背けているお嬢様の顔が見えた。触れた時の反応からしても、"慣れていない"のは明白だった。一方で、俺はこんな行為には慣れきっていた。幼少のころから独房の中で何度でもやってきた事でしかないのだから。
言われた通り丁寧に、優しく、反応のある場所を舌先で探る。
「ん……、いい、わ。そのまま、続けなさい」
唾液で肌がふやけそうになるまで、お嬢様の足指をひたすらビチャビチャと舐め続けていた。
どれだけ上質な衣を身にまとい、品の良い食事をしていたとしても、内に秘めた渇望を我慢し続ける事など出来やしない。これに一度でも火が灯ろうものならば、もはや歯止めが効かなくなる。
「はぁ……はぁ……もういいわ。明日もまた、この時間にこの部屋に来なさい」
そして、新たな日課が始まり、奴隷としてやるべき仕事は増え続けた。一方で、お嬢様に関わる仕事をやっていた執事やメイド達は減っていき、もはや着付け係くらいしか残ってはいない。
「駄犬、お前は優秀ね」
そんな言葉を投げかけてくれる程度には、お嬢様は気を許してくれるようになった。本来は数人係で行うような屋敷の仕事を一人で賄うのは控えめにいっても激務ではあるが、そんな時だからこそ、深夜過ぎにかつての日課を再開していた。
棒きれが空気を切り裂く音が鳴りやまない夜。それこそが俺が俺で居られる唯一の時間だ。
「……」
ふと、視線を感じた。すぐにその気配は消えたが、物陰にはまだ新しい足跡が残っていた。案の定、翌日のお嬢様の機嫌はすこぶる悪かった。
「……」
お気に入りの紅茶を飲んでも一言も言葉を発してはくれなかった。茶の味はお叱りを受ける覚悟であえて渋めにしている。剣の達人同士は剣で会話する事があるように、その道を修めれば茶で会話する事も出来る。
先に沈黙を破ったのはお嬢様だった。
「剣を振るうのはおやめなさい」
回りくどい言い回しを好むお嬢様が、素直で単刀直入に要求を突き付けてきた。
「それは何故でしょうか?」
「ここで過ごしていればそんな危なくて野蛮な事をする必要はもうないわ。お前は、私だけを見ていればいいの」
「可能な限り、そう務めてはきたつもりです」
お嬢様の望む茶を出し、お嬢様の望む料理を作り、お嬢様の望む奉仕をし、今となっては公文書の代筆も任せられる事もある。剣を握っているだけでは決して得られないような知識と経験の数々を、屋敷の生活で培ってきた。
それを行う自由をお嬢様は与えてくれたのだ。
「だったら分かるでしょう? 私が望んでいない事くらい」
「はい。ですがこれは一介の奴隷には過ぎた自由です。それに、お嬢様も既にお分かりのはずです。このような生活をいつまでも続けてはいられない事を」
時折、手紙を改める事がある。私の裁量で重要な手紙とそうでない手紙を振り分ける程度の仕事をしていた際に偶然発見したものでもある。
「近日中に聖騎士ランゴベルト卿との縁談が行われるのではないですか?」
「知らないし、見てもいないわ」
近年軍閥が急速に拡大化してきている帝国において、貴族や爵位といった身分制度も形骸化しつつある。一方、大きな権力を持ち始めるようになっていったのが、数万の軍勢を指揮する立場にある聖騎士と呼ばれる官職だ。
「もしも今回の縁談も自分からご破談にするようでしたら、お父上はお許しにならないとのそうです」
「だったら、向こうから勝手に幻滅してもらえば済む話よ」
縁談の当日、私は侍従の一人として室内への入室を許された。聖騎士ランゴベルトは以前対峙した聖騎士とは違う人間だった。一目見た印象は若く紳士的で容姿端麗。見た目だけならば武具の扱いよりも吟遊詩人の方が似合いそうだと思える。だが、柔らかな物腰に反して纏っている気配やその佇まいには一片の隙もない。
お嬢様と聖騎士ランゴベルトが美麗賛美を並べ立てた挨拶を交換し合っている最中に目があった。
「ところで、そちらの使用人は?」
「ええ、ランゴベルト様が気に入ると思いまして余興を用意致しましたの。来なさい、駄犬」
「わん!」
勢いよく服を脱ぎ捨て、四つん這いの態勢になる。そのあまりの唐突さに聖騎士ランゴベルトは唖然としていたが、気にせず続ける。
「はっはっはっ」
舌を出して犬の息遣いを真似をしてみせた後に、お嬢様の靴をべちゃべちゃと下品に舐める。そして、上目遣いでお嬢様を見つめる。
「わん! わん! わん!」
「煩いわね、静かになさい」
「キャン、キャウウン!」
勢いよく蹴り上げられ、聖騎士ランゴベルトの近くにまで大げさにふっと飛んで見せる。そして、起き上がると、今度はランゴベルトの靴を舐める。無論、べちゃべちゃと下品にだ。
「……は、ははは。中々ユニークな余興だね……うん」
上目遣いで舌を出して見せると、引きつった表情で笑顔を浮かべていたが、ふっと笑いかけてくる。
「しかし、よく訓練された使用人ですね。僕の部隊に一人欲しいくらいですよ」
「ええ、私自慢の使用人ですから」
「貴女であれば良きパートナーとなれると思う。婚約の申し出を受けて頂けないでしょうか?」
「……わかりました。申し出を御受けいたします」
恐らく、このやりとりで一番驚いていたのはお嬢様だった。この茶番寸劇は聖騎士ランゴベルトを怒らせるためのものだ。にもかかわらず、ランゴベルトはお嬢様との婚約を望んだ。表向きは前向きな話として進めているのだから、お嬢様はここで断るわけにはいかなくなったのだ。
その晩、お嬢様は荒れるに荒れていた。普段全く口にしないワインを飲み、だらしのない薄着姿になっていた。
「駄犬。きたわね」
「はい。その、お召し物が着崩れておられるようですが」
「いいから舐めなさい。いつものように」
「はい」
おみ足の前に跪いて、足指を舐める。毎日のように繰り返してきた爛れた行為だが。それももうじき終わりがやってくる。正式に結婚してもこんな事を続ければ即刻不貞罪で断頭台送りにされてもおかしくはない。
「ふふっ熱心に舐めるわね。そんなに私の指が好きなのね」
「はい。好きです」
「駄犬?、こっちの指も舐めなさい。ほらほら」
お嬢様は一指し指でぷにぷにと頬を突いてきたり、口内に突っ込んで舌を撫で繰り回そうとする。
「お嬢様、酔ってりゃれるようでしゅ」
「だって、酔ってるもの。お前も飲みなさい。30年物のオールドビンテージワインよ。瓶を開けても、余らせては仕方ないもの」
お嬢様はテーブルに一つしかない飲みかけのグラスを押し付けてくる。それを受け取り、一口含む。ワインの良し悪しなどは分からないが、甘酸っぱい味がした。お嬢様から普段とは違う香りが漂ってきた。蠱惑的で、何故か引き寄せられてしまう。そんな香りだ。
紅潮したお嬢様の顔はこちらをじっと見つめている。何故か、それから目を逸らす事が出来ない。高鳴る胸を抑える事が出来ない。
俺は、興奮していた。
「駄犬、今日は貴方のやりたいようになさい。許します」
「おじょう……様……」
このまま、衝動に任せてしまいたい。お嬢様も恐らくそう思っている。そうでなければ、こんな、ことを……。
「舐める場所が分からないの? なら、ほら」
お嬢様はワイングラスを手に取ると、足の指先から徐々に上の方へと誘うようにワインを垂らしていく。導かれるままに、足の甲からすねへと舌を這わせ、指で触れた時にようやく気付いた。
お嬢様が震えていたことに。それで頭に上っていた血液が一気に冷えてきた。
「駄犬?」
「……止めましょう。お嬢様」
姦通罪というものがある。婚約や婚姻を取り決めた者同士以外でそういった行為に及んだ場合に問われる罪だ。奴隷如きとそういった行為に及んだと知られれば、当然婚約相手のメンツは潰れる。
無論、これをお嬢様が知らないわけがない。相手が聖騎士であれば死罪にされても文句は言えない。
「いやっ。続けなさい」
「出来ません」
「どうして……? 今朝会ったばかりの男となんかするよりなら、始めてはお前がいい」
「……どうしても、出来ません。お嬢様はランゴベルト卿の庇護下に入るべきです。そうすれば、最前線の土地から離れて安全な帝都で過ごす事も出来るでしょう。分かって下さい」
多少調べた限りでは、聖騎士ランゴベルトは聖騎士十席の中では珍しく浮ついた噂一つ出てこない誠実な男であるし、実際に相対してあれだけの事をやっておきながら悪意を見せる素振りはなかった。
この縁談自体、お嬢様にとって決して悪い話ではない。近頃の情勢を見てもそれは明らかだ。
「結局、お前は、私をおいて行くのね」
屋敷に古くからいる執事から聞いた話がある。お嬢様は元々は深窓の令嬢として大切に育てられてきたのもあってか、ひどく人見知りであった時期があるのだとか。そんなお嬢様が変わったきっかけが、古くから親交があった隣国へと外遊した際に出会った者と口約束の婚約を結んだ時だったとか。
尤も、今はその隣国とやらは地図には存在していない。なんせ、龍と魔族に滅ぼされてしまっているのだから。結局、口約束の婚約は相手の喪失という形で強制的に破棄され、お嬢様は歪んでいった。
「申し訳ございません」
お嬢様の管理する領地は滅ぼされた隣国の隣、つまり最前線だ。百人以上、時には千を超える領民の死亡報告書が日常的に送り込まれてくる。そんな場所だ。戦況は一向に好転せず、敵の大規模攻勢も近い。魔族に蹂躙された土地には何も残らない。
故に、お嬢様は執事やメイド達を遠回しな理由を付けて解雇していったのだ。自分だけは最後までこの土地に残るおつもりで。
「もう、私はお前を止めません。剣を振るなりお自由になさい」
「ありがとうございます。お嬢様」
後日、お嬢様に連れられて宝物庫まで案内された。そこには大した財宝は残っていなかった。なんせ、領民に配給するための食糧や資材を購入のために売却してしまっているのだから。
部屋の奥に飾られた一本の剣、と呼ぶにはあまりにも分厚く、長く、黒い鉄塊。それは並の戦士であれば振る事すらも難儀しそうな実用性に乏しいお飾りの武器だ。
それを指差してお嬢様はいった。
「ダインソラウス。お前なら、ソレを振れるのでしょう? 持っていきなさい」
「よろしいのですか?」
「その剣は元々私の家のモノではないもの、それにもう、待ち続けるのは疲れてしまっているの。その剣も、私も。だからいいの」
手に取ると、大地に縛り付けられそうになる程の重量感があった。……これ程の重武器を扱うには、この武器の為だけの専用の型と技が必要になる。鈍りきった身体と合わせ、またゼロから鍛え直さなければならないか。
だが、この剣ならば届くかもしれない。鱗一枚剥がすのに千の勇士の犠牲は下らないと言われる黒龍の喉元に。故郷を滅ぼした憎き敵を殺す為に。俺の人生はその為だけに捧げてきたのだから。
そう、お嬢様と出会うまでは。
「お嬢様、裾が汚れてしまっておりますが」
「いいから続けなさい。私のことなど構わずに」
それから、お嬢様は私の日課を頻繁に見に来るようになった。訓練の剣圧で吹きすさぶ土埃でお嬢様の髪や服はすっかりと汚れてしまっているというのに。
そんな日も、もうじき終わる。
「明日から私はランゴベルト卿の取り計らいで用意された帝都の別邸で暮らす事になりました。それに伴ってお前は本日付けで解雇します」
「今までありがとうございました。お嬢様」
「駄犬、お前はこれから帝国軍に編入されます。詳しい話は後日、ランゴベルト様が直接して下さるそうです」
それを言い終えると、お嬢様は私の手を取った。
「一つだけ、約束しなさい」
「はい」
「何があっても必ず、私の元まで帰って来なさい」
「はい、必ず」
約束、か。遠い昔にもそんな事があったような気がする。
「でも、どうせお前は剣ばかり振ってるうちに私のことなんて、また忘れてしまうんでしょうね。だから期待なんてしないわ。だって私はもう、待つのはウンザリだもの」
お嬢様の目尻には涙が滲んでいた。私がそれに気づくや否やすぐに顔をそらし、走って立ち去ってしまった。直ぐに後を追うと、お嬢様の嗚咽が聞こえてきたので足を止めた。
「……うそつき……うそつき!」
私からお嬢様にかけられる言葉はなかった。お嬢様の言う通り、わたしはただの大噓つきだ。
後日、何故か私はランゴベルト卿と二人きりで帝都へと向かう馬車に乗っていた。お嬢様と長い間接してきた甲斐もあってか、儀礼的な会話をするのも左程困らなかった。
しかし、ランゴベルト卿は話してみると案外気さくな人物だった。
「しかし、多くの帝国精鋭達を震え上がらせてきた救国の戦鬼殿が、まさか犬の真似事をされているとは思いもよりませんでしたよ。私もお嬢様と結婚した暁にはああやって尻に敷かれてしまうのかと思うと……」
「お嬢様はランゴベルト卿にそのような無礼は決してなさりませんよ」
「知っているさ。彼女は聡明な女性だからね。よっほど私と結婚したくないという鋼の意思だけはきっちりと叩きつけられてへこんでいる所だよ」
「では、どうしてお嬢様と婚約を結んだのでしょうか?」
「ふぅ、本来の目的は君だよ戦鬼殿。正直に言ってしまうとね、2年前に捕虜となった君は即戦力として帝国軍に編入される手筈だったのさ。騎士の身分も付け加えるという異例の人事でね」
「そうならなかった理由がお嬢様にあるということでしょうか?」
「戦鬼殿が収容所に入った次の日には公文書や記録が改ざんされ、収容所の看守に賄賂を渡して釈放してしまうのだから驚いたよ。はっきり言うけど、これは帝国に対する反乱と捉えられても全くおかしくはない。お嬢様の戦鬼殿に対する執着はもはや異常の域といっても過言ではないね」
……何が言いたいのかを察する。ようするにこれは、お嬢様を人質にした脅しだ。
「……そう怖い目をしないでもらいたいな。たった一人で帝国最精鋭の黒騎士100名余りを雑兵の如く蹴散らした貴方に睨まれると生きた心地がしない。私は叩き上げで聖騎士となった常勝将軍ワロイス閣下と違って、ただの繰り上がりのボンボン聖騎士でしかないからね」
「では、ランゴベルト卿はお嬢様をどうなさるおつもりですか?」
「婚約はそのまま続けさせてもらうよ。正式な結婚自体は魔族を滅ぼして"平和"になった時にでもするつもりだけどね。まぁ、このご時世さ、対魔族防衛戦線まで出てしまえば明日には死んでいてもおかしくはない」
お嬢様の仕事の手伝いで公文書を振り分けている際に、人間と魔族との戦闘記録を読んだことがある。魔族と直接相対した上で5分間生存できる割合はおよそ1割。そのうち、直接戦闘行動にこぎつける者がおよそ3割、そのうち勝利出来る割合が1割以下。尤も、この数値は部隊の練度を加味していない。
つまるところ、魔族との戦いの最前線に向かうというのは断頭台送りと同義語だ。
「……戦鬼殿は不思議に思っているね? 何故、私が反逆者のお嬢様と正式に結婚しようなどと考えてることに」
「ええ」
「理由は簡単さ、お嬢様の犯した罪を知っているのは、偶々お嬢様の事をずっと追い続けていた私ただ一人だけだからだよ。つまり、私が口外しなければお嬢様は何も罪を犯していないも同然。というわけさ」
「ランゴベルト卿、貴方はお嬢様を……」
「ああ、好きだ。いや、愛していると言ってもいい」
ランゴベルトは演者のように情熱的に、お嬢様への愛を叫んでいた。
「きっかけは、私がまだパーティの席を警備していた護衛騎士隊長であった時に、一人外れで佇んでいるお嬢様を見かけた時だった。憂いた表情を浮かべるお嬢様の可憐さに、私は目を奪われてしまったのさ。そして、こうも思った。いつかこの方を私の手で幸せにして差し上げたい、とね。ふっ、一目惚れなど馬鹿げてると思うかい?」
「いえ、そうは思いません」
俺もまた、その一人だった。
「今回、私が聖騎士に繰り上がれたのはまさに僥倖だったよ。これでようやくお嬢様に釣り合う地位を手に入れる事が出来たのだからね」
「ランゴベルト卿、後は――」
お嬢様をお願いします。と続けようとしたところで制止される。
「……ふぅ、戦鬼殿、腑抜けてもらっては困るな。貴方は少々人を信じすぎる。今の惚気は私が即席で作り出しただけのただの作り話さ。帝国貴族ならこの程度の腹芸などお手の物、精々食い物にされないようにしてくれよ」
「気を付けましょう。しかし、ランゴベルト卿は嘘がお下手ですね」
上手い嘘のつき方は、信憑性を持たせるために真実にほんの少しの嘘を混ぜる事。だが、本当に隠し通したい真実があるのならば一切口にしないことだ。
「……はぁ、慣れてないんだよ。私も少し前まではただのうだつの上がらない騎士隊長でしかなかったのだからね。それがいきなり数万人の命をまとめて背負えと命令されるのだから、たまったものではないよ。はははっ」
やはり、この方は噂通り相当なお人よしだったようだ。
「そうだ、今後戦鬼殿と私は直接会話する機会もなくなるだろう。そこで、これからの戦鬼殿が配属される予定の部隊について説明をしておこうか。部隊名は第四十二期帝国下民徴兵部隊。敗戦国の将兵や軍規違反を犯した者を始めに、犯罪者や奴隷で構成されているいわば懲罰部隊だ。戦場では真っ先に肉の盾にされてしまうだろうね」
「そうか」
「……救国の戦鬼殿はお嬢様の計らいで公式では既に死亡扱いになっている。つまり、今の貴方には名前がないし、騎士の身分も与えてはやれない、ただの名無しの奴隷という身分だ。こればかりは私の裁量でもどうにもならなかったんだ。どうか許してくれ」
死んでいるはずの俺が生存している事を知られてしまえば、お嬢様の記録改ざんが露呈してしまうことを意味する。つまり、ランゴベルト卿は守りたい者を守るために必要な判断を下しているにすぎない。
「いや、俺にはその方が合っている。気にしないでくれ。それに……」
番号で呼ばれることなど昔からあったことだ。名前や救国の戦鬼などという上等な呼び名も、後から勝手につけられたものばかり。
「最前線でなければ、お嬢様の帰る場所を守ることなど出来はしないだろう。むしろ、自分から志願する手間が省けた」
以前は黒龍に故郷を蹂躙される様を見ている事しかできなかった。何の力も持たないただのガキでしかなかった。だが、今の俺は違う。
「そうか。それでは戦鬼殿、お互い、お嬢様を泣かせない為に精々長生きしようじゃないか。まぁ、私の場合は戦死した方がお嬢様には泣いて喜ばれるのかな? はははっ」
「ご冗談が過ぎますよランゴベルト卿」
「冗談も弱音も言ってられる機会には中々恵まれないのでね。戦鬼殿、今日は気が済むまで私の話に付き合ってもらうよ」
「ええ、喜んで」
その後とかその前はどうなったかを書くと、男くさい話ばかりのハイファンタジーになってしまうので……というお話。