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プロローグ

  目覚めたとき、目の前は真っ暗だった。それは人一人を狂わせるには十分すぎる狂気的の闇だった。私は焦燥感を覚え、走り出した。


 その走りっぷりといったらメロスも青ざめる程のものだった。無我夢中で走り続けた。胃液の酸の味が口いっぱいに広がり、足はまるで鉛でも入っているかのように重くなった。自分自身なぜここまで全力で走れているか分からなかった。しかし走った、走り続けた。


 しばらくすると一筋の光が混沌たる闇に射した。まるで仏様が天界から垂らした糸のようだった。わたしはその神々しい光に吸い込まれるように走った。




 私はごく普通の何の変哲もないただの男子高校生である。家族は、小さなことにいちいち煩い教師の父、口を開くと勉強のことしか話さない専業主婦の母、加齢のため糞尿を垂れ流すのでオムツを尻に当てた、ボチという名前の犬、この二人と一匹である。


 夢は給料の安定した職に就くことである。偏差値56、全校生徒512人の公立高校に通っている。徒歩30分で着くが、面倒くさいので電車で学校最寄りの駅まで行く。乗るのは決まって1号車でだ。改札口に一番近いからである。


 学校ではアイと呼ばれている。名字からとったのでこんなにも女々しいあだ名になってしまった。クラス内カーストはせいぜい真ん中である。懶惰に日々を費やしている一男子高校生だ。


 単調な日々に嫌気がさしたのか、あるとき突然、失踪衝動にかられた。放課後の帰り道のことであった。現実逃避のためか、はたまた発狂したのか、定かではない。それは私を家とは反対の方向に向って走らせた。


 良心が前へ前へといく脚を抑えつけようとするが、毎日毎日コツコツと、部屋の隅の塵のようにたまった鬱憤は、私の中にある猫の額ほどの良心とは比べ物にならないくらい強大で頑丈なものだった。


 そんな中、ふと、珍奇な看板が目に入った、なんとも奇妙なの見た目なのだが、艶美な女性の蠱惑的な眼差しのようなものさえ感じられた。それは病んだ私の心を虜にしてつかんで離さない。


 何の店かも分からないが、この腐りきった現実を淘汰してくれるのではないかという甘い願望に心をおどらせ、扉に向かった。扉には小さな小窓がついており、そこからは木漏れ日のようなあたたかい光が射していた。少しだけ錆びた、金属製のひんやりしたドアノブを掴み、ゆっくりと扉を開けた。


「いらっしゃい。」


 まるで冬の乾燥した落ち葉をふみ踏み潰した時のようなしわがれた声がした。声の主は大きすぎる黒いローブに身を包んだ怪しげな老婆であった。小汚い椅子に腰かけこちらをジッと見ている。なんと胡散臭い店に入ってしまったものか、先ほどまでの狂気に満ちた姿に羞恥心さえ憶えた。もう帰ろう、そう思い外へ出ようとした。


「ちょいと待ちな、そこの二枚目の坊や、あんたほど聡明な奴はみたことにゃないよ。」


 老婆のご慧眼に恐れ入った私はこの店にもう少し留まることにした。きっと客を帰さないための安いコピー用紙のように薄い上っ面だけの言葉であろう、しかしながら褒められて悪い気はしなかった。


「あんたは異世界を信じるかい? お前が望むなら道は開ける。」


 思わず吹き出しそうになった、棚から牡丹餅とはまさにこのことだろう。やはりこの老婆は胡散臭い、いや臭すぎる。おおかたあの看板で悩める子羊ならぬ悩める若者をおびき寄せ、それを今流行りの異世界なんぞというワードで惑わせ、いたいけな男子高校生を出汁にして金を儲けるとんでもない老婆なのだろう。いやそうに違いない。


 無駄な正義感など振りかざしこの腐りきった老婆を改心させる必要なぞ皆無である。ここから速やかに退出するのが最善手である。決意を固めドアノブを握った瞬間、意識が朦朧としてきた、薄れゆく意識の中で、時すでに遅しということを悟った。

 



 一心不乱に走り続け、ついに光源が手に届くところまできた。私は飢えた獣が肉に飛付く様にその光源に向かって飛び込んだ。

 

 「おお!待っておった、二枚目の坊や。」


 私はやっと暗闇からでた安堵感で満たされる前に、聞き覚えのある声に悪寒がした。ゆっくりと顔を上げるとそこには、先ほどの間取りと同じ部屋に、あの胡散臭い老婆がいた。

 

 背筋がゾォォとなった。恐怖に打ちひしがれている訳ではない。ただ、このただ事ではないような奇妙さに何とも形容し難い不気味さを感じたのだ。

 

 「おめでとう、よぉくやった。」


 言葉の意味が分からない、そもそも自分の置かれている状況が分からない。単調な毎日と懶惰に日々を費やす自分が嫌で半狂乱の陥った私が、胡散臭い老婆に暗闇に堕とされ、やっとのことで暗闇から抜け出すことができたと思うと、またあの老婆が目の前にいる。なんて味の悪い冗談なんだろう、私は心の底から思った。


 「お前は何なんだ。」


 率直にそれが聞きたかった。ついつい荒い言葉遣いになってしまったが致し方ない、こちらは切羽詰まった状況なのだ。一秒でも早く、この悪夢のような現実の真相が知りたかった。


 「おやおや、覚えていないのかい。」


 この老婆め、何を言いやがる。そう思ったのも束の間、あの言葉が私の胸中を駆け回った。「あんたは異世界を信じるかい?お前が望むなら道は開ける。」 私は困惑した。あのような根も葉もない戯言が、まさか本当だとは。


 私は、少しばかり冷静になった頭で考えた。どうやら私は紆余曲折を経て異世界へきてしまったらしい。ここまで来たらこの老婆を信じてみようという良心が勝った。あの猫の額ほどの私の良心が。決して、頭がおかしくなったわけではない。


 「では、お前は魔女なんだな?」


 至って簡単な発想である。異世界×老婆×黒い大きなローブ、間違えなく魔女である。この身なりで農民の老婆であるならば、いよいよ改心させる必要がある、私の鼠の糞ほどのちっぽけな正義感を振りかざしてでも。


 「ふぉふぉ、そうじゃ。私は魔女の端くれじゃ、お前をこの地へ呼び出したのじゃ。突然じゃがお前の使命は 生き延びる ことじゃ。くれぐれも忘れるなよぉ。」


 「何を言っている、おい!」

 

 「せいぜい頑張んなぁ。じゃあぁ。」


 なぜだか分からないが、魔女はだんだんと消えかかっていた、まるで深い霧に飲み込まれていくように。いくら声をかけても返事はなかった。ただ、その猛禽類のような目で、姿が完全に消えるまで私を見つめていた。


 魔女の眼の中の真っ暗な闇に一筋の光が射していた。まもなく、部屋には大きな黒いローブと小汚い椅子だけが残った。窓から射すあたたかい光が薄暗い室内を照らしている。




 

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