知らぬが恐怖
彼はスケッチブックに鉛筆で絵を描いていた。
彼は今朝見た悪夢を絵にして誰かに伝えて共有して怖いのは自分だけじゃないと安心したかったのだ。
恐怖とは何か?
その答えを求めながら彼は絵を描く。
彼の見た夢は全ての意味が分からなくなる夢。記憶を少しずつ失って最後は全てを忘れてしまう夢だった。目覚めた時には彼は数秒呼吸さえ忘れていた。
彼が目覚めてから意識が完全に覚醒した時、自身の心音の大きさに恐れおののいた。
呼吸は鋭く震えていた。体中が震えた。震えをおさえようと上唇と下唇を合わせたら歯と歯が震えて触れ合った。
彼は高くなった体温と自身の汗の冷たさがミスマッチに感じた。
なんとか冷静さを取り戻し二本足で立ち上がると、彼の恐怖は薄らいだ。
彼自身それが怖かった。自分自身が何に怖がっていたのかという記憶が、薄れていくのが自身が崩れているような気がしたのだ。
恐怖の本質は知らないことだと彼は信じた。完全に予測できる不幸など怖くもないと彼は思った。
いつも通りの日課を過ごし学校へなんとか辿り着いた彼は恐怖を絵にして伝えようとした。
誰かに伝えたいという衝動はあったが、特定の誰かに伝えたいわけではなかった。
彼は描いたものをネットにアップするつもりでいた。不特定多数に物を伝えるのに最小限の労力で高い効果が見込めるからだ。
彼はネットのない時代はどんな風に誰かに伝えたいという衝動を満たしていたのか考え始めた。頭の中に駅前で弾き語りをしている人が頭に浮かんだ。
彼は新しく出来た道具だからといって根本的な人の欲求が変わるわけがないなどと納得すると絵を描くのを再開した。
彼は早く絵を完成させて誰かに見てほしかった。
彼は担任の教師が教室に入って来たのを声で確認したが絵を描くのを止める気はさらさらなかった。
絵を完成させないと彼は安心できないのだ。
学校で絵を描き出してから振動した空気が耳に入ったという情報は彼にとってこれまで邪魔なものだった。
突如としてその邪魔な振動がなくなったことに彼は恐怖を感じた。なにせ、自身が知らない理由で自身に影響を与えていたものが消えたのだ。
彼の机は教卓のすぐ前だった。顔を上げれば教卓の担任の先生は目と鼻の先だ。
顔を上げると担任の教師のおでこや頬が醜く膨れ上がっていた。それだけではない。担任の教師の見える素肌の部分から生気を感じなかった。
鬱血したような紫色や赤色になった皮膚は彼の目を釘付けにするのに十分なほど不気味だった。
「素敵だ」
彼は思わずそんな事を呟いてしまう。彼の頭の中で担任の教師が素敵だと感じたのは半分が真実であった。すごい、素晴らしい、素敵、美しい、不気味、気持ち悪い、彼の頭の中をそんな言葉が渦巻いているのだ。
隣の席の男が担任の教師を椅子で殴った。その男は怖かったのだ、自分の理解を超えた顔をした化け物が。
不安を払拭するために不気味な存在を壊したのだ。たとえ担任の教師が倒れてもその男はを椅子で殴るのを止めなかった。肩に力が入らなくなるまでその男は担任の先生を殴り続けた。
絵を描いていた彼はそれを見て、椅子で殴る男を分からない恐怖の犠牲者だと思い同情した。
彼は自身の目の上になにかが垂れてきたことに戸惑い自身の顔に触れた。
彼は自身の顔を触れてぶよぶよした感触を感じた。なぜそんな感触がするのか彼は分からず不安になり後ろを向いた。
そこにいる級友たちは彼を指さした。彼を見て悲鳴を上げるものもいた。
彼はなにが自身に起こったか理解した。そしてこのあとどうなるのかも理解して恐怖した。