1-3 浅草の裏路地で絡まれた少女
奏太は街の裏通りを歩いている。風呂敷を敷いて商売する露天商や、丸椅子を出して営業している酒場などが並んでおり、それらは非常に怪しい雰囲気を醸し出している。
此処は東都三番街東部、つい最近まで浅草という名で通っていた地区である。
500年にわたって栄えたこの街だが、シンボルである寺院を焼失し、今は川の向こうの無骨な鉄塔を望むことしか叶わない。奏太が通りを歩いていると、口論する声と騒がしい野次馬に遭遇した。
「貴方が私にぶつかってきて、勝手にお酒を零したんでしょう?」
10代半ばであろうか、綺麗な白のワンピースにグレーのカーディガンを着た黒髪の少女が、右手を胸に、左手を腰に当て、はきはきした声で話している。
「嬢ちゃんが俺にぶつかってきて、酒がこぼれちまったんだろ? 服もスゲー汚れちまったんだけど。これ、どうしてくれるつもりなの?」
どうやら酒をこぼしたオヤジが通りすがりの少女に絡んでいる所らしい。オヤジの年齢は40そこそこ、中肉中背で汚い服を着ている。風貌から、この街の住人で間違いないと奏太は判断する。反対に少女がこの街の人間ではないということは、誰の目から見ても明らかだった。奏太がぼんやりと考えている内に、口論の雲行きが怪しくなってくる。
「嬢ちゃんの所為で服が駄目になっちまったんだぞ。この服はもう売ってなくてよ、弁償してもらって丸く収めたい所なんだが、どうやらそうもいかねえみたいなんだ。代わりと言っちゃ何だが、嬢ちゃんのワンピースとカーディガンで勘弁してやってもいいぜ」
オヤジが言い終わった直後、周囲で歓声が沸き起こる。
――この程度で済んだなら儲けものだな。
ほんの些細な事ではあるが、因縁を付けられた以上、何を要求されてもおかしくない。
三番街は東都で一番下町色が強い街だ。言ってしまえば、品が無いのである。ここは大人しくワンピースを脱いで、羞恥の刑に服すべきだろう。奏太は不運な少女の脇を通り過ぎようとした。
しかし、この少女はオヤジの決定に不服だったようである。
「貴方がどんな人間であるか、よく分かりました。それでは勝負しましょう。一対一で正々堂々勝負して、負けたほうが勝った方の言うことを一つ聞く、という条件でどうでしょうか。この街では勝負が一般的な解決策なのでしょう? 女の勝負が受けられませんか?」
少女の凛とした声が響き渡る。
――なんて馬鹿なことを。
奏太の口が開いたまま塞がらない。野次馬の沸き具合が、少女の発言が意味する所を示している。
オヤジの口も空いたままふさがらない。しかし馬鹿な子供を教育するのも、この街の大人の役目である。流石に持ち直して、即座に切り返す。
「悪いが嬢ちゃん、今俺は調子が悪いんだ。助っ人勝負ってことなら、受けてやれないこともないんだが……」
少女が首を傾げる。
「助っ人勝負?」
「おうよ、一対一の助っ人勝負ってことなら、俺のタマにかけて勝負を受けるぜ。ただし勝負はこの街のルールで行わせてもらう」
裏路地が静まり返る。ここに居る誰もが少女の返答に耳を澄ませている。
すると少女は両手を腰に当て、オヤジの方へ前傾した。
「自分で戦わないなんて腐りきってますね! いいでしょう、助っ人を認めます。ですが、勝負のルールは厳格に決めましょう。相手が気絶、もしくは参ったと言ったら勝ち、ということでよろしいでしょうか。また、勝負に際して、心装の契約書を発行していただきます。私の条件は以上です。よろしいですか?」
少女は助っ人勝負を受けてしまった……。しかし、心装の契約書を用いるという点は素晴らしい。
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人類は科学技術を失ったが、この半世紀の内にそれの代わりと成り得る二つの力を手に入れた。
則、『魔法、呪術』そして『概念』の力である。
『魔法、呪術』は超自然的な力であり、個々人が魔力というエネルギーを用いて、発動することができる。
魔力は3種類存在する。則、
神々に源を置く『天力』
魔族に源を置く『地力』
人間に源を置く『人力』である。
『概念』の力は人類全体の『言葉』に対するイメージの力である。個々人は『源泉』と呼ばれる力の源から、特定の概念を取り出して利用することができる。概念の力を発現させるとき、それは使い手の思念を反映し、道具の形をとる。
例えば、ある人が『切断』の概念を用いるとする。その概念は個人の思念に応じて、刀やワイヤー、あるいは鋸などの形をとり、一般にそれらは心装と呼ばれる。扱える概念は原則として、一人一つである。そして、その性能は、人類全体の概念に対する思念の強さと、本人の意思の力の強さに比例する。
ここで用いる契約書というものは、ただの契約書ではなく、心装である。人類の、契約は絶対順守という強い思念に支えられる心装なので、使い手に関係なく、非常に強い契約を守らせる力を発現する。
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渦中の少女は、心装で契約書を発行すると言ったので、逃げも隠れもしないらしい。彼女は腕まくりをして不敵に笑っている。
それを見て、奏太の思考も『通り抜け』から『観戦』にシフトした。路地裏喧嘩を素通りするようでは、三番街に来た意味が無い。
野次馬から、少女とオヤジそれぞれに契約書が手渡される。双方が契約書を交換し、互いの契約書を確認する。
「じゃ、勝負のルールを確認するぜ」
路上にチョークでオヤジの汚い字が描かれていく。やがて、オヤジと少女が勝負のキメを読み合わせ、読み合わせの済んだ部分が、契約書に刻まれていく。
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以下の内容に基づき、勝負を実行することを誓う
一、勝負は三番街のルールに基づき行われる。
一、勝負は一対一で行う。指定された場所内での部外者の手出しは許されない。
一、勝負は助っ人勝負で行う。
一、相手を気絶、もしくは参ったと言わせた方の勝利。
一、負けたほうが勝った方の言うことを一つ聞く。
一、勝負は西暦2115年8月8日22時に始まる。
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勝負の準備が整った。奏太含め、野次馬のボルテージは最高に上がっている。
会場が盛り上がりきった瞬間、オヤジの静かな一言が通りを凪いだ。
「それじゃ、嬢ちゃん、助っ人を決めてくれや」
「分かりました……えっ?」
何やら様子がおかしい。オヤジは助っ人を頼むのだろうが、少女は自分で戦う筈だ。それに見た所、この界隈に助っ人を頼める少女の知り合いは居ない。
「私は自分で堂々と戦うと言ったはずです。貴方は助っ人を早く連れてきてください」
少女はもの言いたげに、にやけ顔のオヤジを見る。それもその筈、オヤジの言葉が意味する所は、奏太にも理解できないのだ。
この場を囲んでいる汚らしい男達が色めき立つ。
少女が重大なミスを犯したという事は、奏太にも察しがついた。
「嬢ちゃん、この街の助っ人勝負ってのはなぁ、助っ人だけしか戦えないんだよ。だから、早く嬢ちゃんの助っ人を決めてくれや」
オヤジが言った瞬間、野次馬が沸き、口笛が辺りを凪ぐ。
オヤジの取り巻きにも、酒の一杯すら賭ける気配がなかった。つまりはそういう事なのだろうと、奏太は結論付ける。
間違いなく、オヤジの連れてくる助っ人は一対一で負けるような人間ではないのだ。魔力量の多い奴や、初見では決して捌き切れない心装を現出させることのできる者なのだろう。
それに対して、少女に助っ人を頼めるような知り合いは居ないようである。頼み方によっては引き受ける輩もいるだろうが、その助っ人の実力が、オヤジのそれに比肩しうる確率は極めて低いと言わざるを得ない。
少女は、メダルの入っていないスロットマシンのように立ち尽くしている。無理もない、この条件で助っ人勝負に勝つなど、魚が人間を釣り上げるようなものだ。
勝負の開始時刻は22時、道路脇の月時計は21時40分を指している。しかし絶望的な状況に在って、少女は動き始めた。もっとオヤジに食って掛かりそうなものだが、時間の無駄だと悟ったのだろう。
――へぇ、意外と冷静なんだな。
少女は野次馬を一人一人品定めしている。2分程の後、奏太の番が回ってきた。少女に見つめられ、奏太は居た堪れなくなってきた。無意識の内に口が開く。
「俺に任せても勝てないぞ」
しかし少女は観察をやめない。一通り見終わったのち、今度は目線を合わせてきた。少女が半歩、奏太の方に詰める。少女の整った顔が奏太の目の前に現れた。
――可愛い……。
目はくっきりとした二重で、瞳は大きく黒水晶を連想させる。しっとりとした黒髪は背中に掛かるぐらいまで伸ばされており、雪のように白い肌と妖艶なコントラストを醸し出している。
奏太は少女に見つめられ、呆然としていたが、顔を赤らめ、呆け顔を晒している自分が嫌になってきた。奏太が少女の目をしっかりと見つめ返す。
そして数分にも感じられる沈黙の後、少女は奏太から半歩離れ、一呼吸置いた後、口を開いた。
「決めました。貴方に助っ人を依頼します。引き受けていただけますか?」
少女は奏太を助っ人に選んだ。奏太は当然ながら断ろうとする。
――助けてあげたいのは山々だが、俺が引き受けても勝てないからなぁ。
しかし奏太が口を開こうとすると、少女に気勢を制される。
「何でって顔されてますけど、理由は単純で、貴方が一番強いと私が判断したからです。私を助けていただけませんか?」
奏太は少女の言葉に衝撃を受けた。そして同時に、この少女の見る目の無さに呆れ果てた。しかし一番強いと言われる気分は悪くない。
奏太が依頼を受けなければ、少女は助っ人を見つけられずに負けるだろう。或いは助っ人を見つけられたとしても、その助っ人は少女にそれなりの対価を要求するに違いない。奏太は自分が依頼を受けた場合のことを想定した。
――負けるだろうな。まぁでも酷い目には……。
この街の人間は屑だが、負けた人間に追い打ちを掛ける様な者達でない事を奏太は知っている。彼は受ける事に特段忌避感を抱いていなかった。
幼馴染が活躍したニュースを見て、自分の不甲斐なさにうんざりしていた所である上に、この街は彼が家族と暮らした地である。尊敬する両親や兄の前で情けないことは出来ないという思いが彼の胸中に沸き起こっていたのである。
――負けてもいいから、久々に暴れるのも悪くない、か。
奏太が考え込んでいると、少女が耳打ちしてきた。
「貴方が2度とこの街に来なければ、あの方々と再び会い見えることは無いでしょう。私の使用する概念は『飛行』です。心装を現出させれば、即座に離脱することが可能です。私の策に乗っていただけませんか?」
なるほど、少女は戦闘を放棄して、決着を付けない腹らしい。そこまで考えて、奏太は引っ掛かりを覚える。
「おい、お前が俺を選んだのって、俺が強いと思った訳じゃなくて、俺がこの街の人間じゃないと思ったからか?」
少女が即座に返答する。
「えぇ、そうですね。それが理由の一つで、もう一つの理由は体が軽そうだったからです」
「…………」
口調が丁寧なことと、礼儀正しいことに必ずしも相関関係は無いようだ。奏太は頼られたと勝手に勘違いして舞い上がった自分を恥じた。
「助けてあげたいのは山々だけど、俺にとってリスクしかないよな?」
「えぇ~、山々も有るのに助けてくれないんですか?」
少女はわざとらしく言った後に、再び口を奏太の耳に寄せる。
「大丈夫ですよ。大船に乗ったつもりでいてくだされば、私が何とかしますからっ!」
奏太の目には、ウインクする少女の姿が途轍もなく胡散臭く見えた。
「そもそも乗る必要が無いんだよなぁ」
後さ、と繋げて奏太は少女を見遣る。
「軽いとか、余所者っぽいって流石に失礼じゃないか?」
それを聞くと、少女は首を傾げて、顎に手を当てた。
「そうですかね? 軽いは誉め言葉だと思うんですけど、う~んこれがジェンダーですか……」
「軽い女」
「うっ、確かにっ」
この反応を見て、少女の頭が弱いと奏太は判断する。
「申し訳ないが、やっぱり協力できないかな。アンタ馬鹿そうだし」
瞬間、少女が割と傷付いた目をする。
ちょっと言い過ぎたかな、と奏太は思った。これでは、少女をいじめているオヤジと大差ない。案の定、少女は俯いて黙り込んでしまった。
奏太はフォローしようとするが、少女に先を越されてしまう。
「ごめんなさい……、頼み方が失礼でした。お願いします、私を助けていただけませんか?」
少女は言い終わった後、深々と頭を下げた。顔を上げた後、不安げに、チラチラと奏太の様子を伺がってくる。奏太が時計を見ると、分針が11の位置を指していた。少女が奏太以外の助っ人を頼める時間は残っていない。
――仕方ない。
奏太は覚悟を決めて、泥船に体を預ける事にした。
「……しょうがないな。助っ人の依頼、受けてやるよ。俺の名前は松永奏太。アンタの名前は?」
「私は神代黒羽です。奏太さん、本当にありがとうございます」
黒羽と名乗った少女は、明るさが零れる様な笑みを浮かべた。