事件は煙草を吸うことで解かれたとみなされる
彼女はそっとテニスバッグを置いて、僕たちを少し離れたベンチへと案内してくれた。
「あの、それで何でしょうか」
彼女は伏し目がちにこちらを見る。
「マネキンを最後に見たのは、ここを去る時で間違いないか」
「ひぅ」
「だからどうしてそう脅すように話すんだい。君は」
どうどう、と天狗をなだめ、まあまあと彼女を落ち着かせてから、話は僕が聞いた方がいいのではないかと思った。このままではきっと先に進まない。その旨を伝えると、「ふん、では任せるぞ」と言って天狗は立ち上がってマフラーをはためかせながらその場を離れ、再びテニスコートの方に歩いていった。
「コートの鍵を持っているのは?」
「あ、私と代表です」
彼女は僕と目を合わせようとしない。ちなみに、天狗はフェンスの周りをぐるりと見て回っている。天狗が近くにいない今、何も怖くないと思うんだけれど。
「あの、その……」
何かを言い淀んでいる。と、いうか隠している。それくらいは僕にだって分かる。そうだなあ、この場合、最もよくあるパターンとしては、だ。
「部外者にも、鍵を持ってる人がいるの?」
彼女がこちらを見て一瞬目を丸くして、その後でしまったというような顔をした。うん、僕だってこれくらいはね。
しかしそうなると犯行可能だった人物の絞り込みが難しいな。
「どうして部外者がテニスサークルのコートの鍵を?」
「それは、ですね。必要だからというか、何というか……」
どうも話がよく見えてこない。分かりやすくまとめてくれないかなあ。
○ ○ ○
僕は根気強く話を聞いて、テニスサークル『エキセントリックラリー』の全貌を明らかにしようとした。しかし、彼女は未だ警戒を解いてくれず、どうにも歯切れの悪い答えが返ってくる。天狗は天狗でフェンスを触ったり、コートに入る扉の鍵をじっと眺めたりしている。
そんな時、コートの周りを嗅ぎまわる不審者そのものである天狗に向かって近寄っていく人影が見えた。かなり大柄な人物だ。
「え、代表……ッ!?」
大男を目で追う僕の横で、彼女がぽつりとそう漏らした。いやに驚いているように見える。しかしなるほど、あれがサークル代表か。彼は体格に似合わぬ優雅な足取りで天狗に近づき、一言二言、言葉を交わしたようだった。そして大男はコートの鍵を開け、さきほど僕たちが見つけたキーホルダーのようなものを天狗に手渡した。
そんな物的証拠よりも、あの大男の風貌が気になる。なぜ彼は頭頂部をつるつるに剃っているのだろうか。うちの大学に、あんな変人いたのか。あ、いや、同じ講義に出てるな。あの眩しい頭皮には見覚えがある。あんなに大男だったのか。
「あれが君のところのサークル代表なんだね」
「は、はい。四年のアレンさんです」
「どう見ても平八とか熊五郎の方が似合うんだけれど」
アレンなどと小洒落た名前と裏腹に、彼の風貌は素手で熊でも倒しそうなほど屈強に見える。頭頂部が何よりも鮮烈だ。鮮明といってもいい。事実、頭頂部は明るい。
「アレンはサークルでの名前で、本名は後藤鉄雄さんです」
「それなら納得だ。いや疑問は残るけれども。
容姿と名前のミスマッチについては納得した」
大学でのサークルと言うものは、一つの小さな社会である。その中でルールが決まっているのならば、部外者が口を出す事でもないだろう。
彼はこの事件で関わっている限り、アレンなのだから、そこはそれでいい。
そのアレンが、突如として天狗に頭を下げた。見事なまでに直角。いったい、あの現場で何が起こっていると言うのだろう。その後、天狗と大男は並んでこちらへとやってきた。かたや膝下マフラー。かたやジャイアントザビエル。その見た目のインパクトに思わず数歩後ずさったのも、仕方のないことだと思う。
歩いてきたアレンは慈愛に満ちた表情で僕に握手を求めてきた。うわあ、なんか怖い。
「我はエキセントリックラリー代表、名をばアレンと申す」
「ど、どうも。僕は――」
「そこのヤツは貯金箱とでも呼んでやれ。
俺の事は天狗と呼ぶがいい」
「財布よりひどいな、扱いが」
そしてアレンは行方不明になったマネキンを、一刻も早く見つけてくれと僕たちに懇願した。別に無くて困るものでもないだろうと思ったのだが、アレンによるとそうもいかないらしい。
「我は聖ウァレンティヌスとフランシスコ=ザビエルの生まれ変わり。
迷える子らに真の愛を伝える伝道師」
やめてよ。これ以上キャラクターを複雑にするのは。
返答に困っていると、横で変わらず少し気弱そうにしている彼女が翻訳してくれた。
「あの、ですね。マネキンには役目があるんです」
役目? いったいどういうことなのだろう。アレンが彼女の言葉を続けるようにずいっと一歩前に出る。そして揚々と腕を広げた。
「真の愛。それは想いのラリー。
真の愛。それはたゆまぬ継続」
話が見えない。こいつは一体何が言いたいんだ。怪訝な顔をしていたのが分かったのだろう。天狗が僕を見てため息をついた。
「簡単な話だ。テニスで何かしらの条件を満たせと言っているのだ」
「はい、その通りです。まず、ペアでコートに入ってもらってですね。
そして二人で交互に玉を返し、102回ラリーが続けば成功です」
「なるほどな。これはその小道具という事か」
天狗が先ほどアレンに手渡されたキーホルダーを持ち上げて眺めている。見せてもらうと、ドッグタグのような1枚のプレートにチェーンが通されており、一、0、2と縦に並べて書かれていた。落ちていたのはそれか。
天狗にそれをもう一度渡せば、彼はそのままアレンに返した。
「おお、愛の試練よ。これはその徴なり」
分かった。どうやら僕にはよく分からない世界だということが分かった。僕がテニスサークルだと思っていたものは、どうやらテニスをするサークルではなくて、テニスのようなものを行うエキセントリックな団体だったのだ。
「えっと、それで、そのチャレンジに成功するとどうなるの?」
「我が名の下に、愛の祝福を授けん」
「具体的には?」
「はい、挑戦費用に2万円かかりますが、成功賞金として30万円。
あと、三ヶ月間毎日、アレンさんの手作りお弁当がもらえます」
彼女が翻訳してくれる。天狗がさらに質問を重ねた。
「ちなみに、失敗すればどうなる。
金をとられて終わるだけか」
「追加で、アレンさんが夜道で後ろから右フックを進呈します」
「踏んだり蹴ったりじゃないか!
それに、前半はともかく後半は嬉しいものなのかな」
大男、それも輝く頭頂部を持ったヤツが作ったお弁当など、もらって嬉しいものだろうか。アレンはその言葉を聞くや否や、懐に手を入れて何かを取り出し、僕の目の前に突き出してみせた。
目の前にあるのは、包みに入ったクッキーだった。ラッピングがいやに可愛い。
「食え、ってことかい?」
「これが我の愛の形」
「あ、あのっ! アレンさん!
私も一枚もらっていいでしょうか!」
「愛は平等に与えられる」
「ありがとうございますッ!」
それまでの気弱な雰囲気はどこ吹く風で、彼女が猛烈な勢いでクッキーを所望している。僕は包みを開けて、彼女に一枚差し出した。手に持ったそれを見つめて、彼女は恍惚とした表情を浮かべている。怪しいものでも仕込んでいるんじゃあないだろうな。
天狗にも一枚渡して、僕たちはそれを口へと運んだ。
天狗が膝をついている。僕も、かなりの衝撃を受けて意識が少し飛んでいたようだ。彼女はと言えば、締まりのない顔でとろんとした目をしている。
これは、怖ろしいものだ。たかがクッキーで大げさなと言う人もいるかも知れないが、そいつはこの極上のクッキーを食っていないからそう言えるのだ。これは容易く人を争いに導く。愛は戦争を引き起こすと、僕はこの時確信した。
危うく僕自身も愛の使徒になってしまうところだったが、なんとか当初の目的を思い出すことに成功した。今の所、マネキンが必要である要素がないのだ。ただ単にテニスのラリーをすれば事は済んでしまう。
「それで、マネキンは一体何に使うというのだ」
天狗もどうやら僕と同じ意見らしい。かろうじて立ち上がってはいるものの、クッキーのダメージで膝がぷるぷると震えている。まるで生まれたての子鹿のようだ。
「我の名の下に――
天の啓示はメアリより、愛の導きはジョンより得られる」
「えと、ラリーを成功させたカップルがマネキンに近づくとですね。
祝福のメッセージと音楽を流す仕組みになっているんです」
僕と天狗は顔を見合わせた。そして頷き合った。ファンファーレ代わりにする程度ならば、やはりマネキンはいらないではないか。そう、心の中で通じた気がした。それにマネキンの名前なんてすっかり忘れていた。
僕と天狗の意思疎通が成されることは、とても珍しいことである。
「その仕組みはアレか。録音テープを仕込んでおくようなものか」
「あ、はい。演劇サークルの小道具をお借りしてます」
「まあ、演出は必要だよね」
「詳しい仕組みは知らないんですけどね。
アレンさんの身振りに連動するんです」
「うわあ、技術の無駄遣いも甚だしいね」
とにかく、そのマネキンがないと愛の試練 (これはアレンの言だ)が再開できない為、早急に見つけてほしいと二人から頼まれた。
「そういえば、他のサークル員に話を聞いても構わないかな?」
「え?」
僕の発言は、彼女の間抜けな声にかき消された。
「あの、私たち二人だけしかいないんです」
「ならば、朝にマネキンの不在を確認したと言うのはアレンか」
「いかにも。朝の愛の確認は不断の日課」
「愛の確認ってなんだい」
「アレンさんの自主練のことです。
毎朝、マネキンの前で筋トレするんです」
「家でやりなよ……」
二人でサークルが成立するものなのか。しかしここにきて意外な情報だな。てっきり、それなりの人数でわいわいテニスをやっているような普通のサークルだと思っていたのに。
ここで、天狗が険しい顔つきになった。これは何か発見したらしい。しかし、僕の予想に反して何も聞くことなく、彼はマフラーを翻して立ち去ろうとした。
「いくぞ、小銭入れ」
「せめて紙幣が入る呼び名にしてくれよ。
どんどんランクが落ちているじゃないか」
ずんずん歩いていこうとする天狗。僕はコート前に残された二人を見て、とりあえず手を振って挨拶しておいた。
○ ○ ○
学生食堂の外。建物の片隅には喫煙者用の灰皿が置かれている。いくらか天狗に質問をされ、僕は大きなテニスバッグを抱えていた彼女と話した内容を天狗に伝えた。そういえば、彼女のサークルでの名前はなんだろう。
得心したように頷いて、天狗はジャージのポケットから煙草を取り出し一本吸った。そして盛大にむせた。
「吸えないならどうしていつも吸おうとするんだい、君は」
「一仕事終えたらこの煙草を吸う。それが天狗だ」
彼はマフラーと同じく真っ赤なパッケージのそれを僕に見せつけながら、涙目になっている。そして彼が煙草を吸うということは、事件が解決したということだ。
「マネキンの行方が分かったのかい?」
「ああ、分かった」
一口だけ吸った煙草を灰皿に押し付けて消し、天狗は大きく息を吐いた。本当に、吸わなければいいのに。そして口の端を上げながら言った。
「日が暮れたら現場に行く。
そこにマネキンも現れる」
僕は頭の中で情報を整理しようとした。しかし考えを巡らせようとしても、アレンの差し出した極上のクッキーの美味しさを思い出してしまい、概要をまとめることは適わなかった。
マネキンが消えた夜に、いったい何があったのか。
「夜の出来事の謎を解く鍵は、すでにお前も聞いている」と、天狗は激しく咳き込みながら僕に言うのだった。