宇宙飛行士
「どっ……どうして、僕が宇宙飛行士をめざしてるってこと、知っているんですか!?」
いっしゅん、早乙女の表情から笑みが消えた。
ぽりぽり、と頬をかいてみせる。
「ん──っと。まァ、今、君が自分で言ったから、わかったんだけどネ」
「…………は?」
「いや、そんなことより、ごめん。うっかり、ネガティブなこと言っちゃった。全力で打ち消すべくお祈りするから、許して」
手を合わせた早乙女に神様よろしく拝まれ、駿介はぽかん、と開けた口を閉じることができない。
彼があわてたのは、ネガティブなことを言ったから、ただそれだけのようだ。
勝手に勘違いをして、勝手におどろき、だれにも言ったことのない夢をおもわず口走ったことに、駿介は猛烈にはずかしくなった。
「……今の、嘘です、ちがいます。幼稚園児のころにそうおもっていたってだけで。僕の夢は、あくまで医者ですから」
「え。幼稚園児のころになりたかったなら、それもれっきとした君の夢だろ。医者になることもすばらしいけど、べつに宇宙飛行士にもなったっていいじゃん」
大きな双眸がたたえているのは、まぎれもない本気に見える。
彼ならば、どんなに高望みで叶う可能性の低い夢だろうと、堂々と語るにちがいない、そう駿介はおもった。
「──高校生にもなって、宇宙飛行士になりたいなんて、ふつうバカにするでしょう?」
「だけど、宇宙飛行士になれるひとだって、高校生になっても成人しても、なりたいって言ってるに決まってるよ。まァ、バカにされるのが嫌なら、黙っていればいいんじゃない。君がおもってさえいればなれるんだし」
「なれるって……僕、べつに学年トップじゃないですよ。英語もそこまで得意じゃないし。医学部に行ったらそっちの勉強で追われるに決まってるのに、両立なんて──」
「できるって!」
無理、と口にする前に、早乙女が言い切る。
おそらく遮ったのだと、駿介にはわかった。
「どうして?」
「だって君はなりたいんだろ?」
「…………」
──それだけ?
そうおもったけれど、駿介は口にはしなかった。
そのことばには、お祈りするだけで叶う、なんて夢想に取りつかれた気楽さはいっさいなかったからだ。
低い声にある重いひびきは、そのことばに込められた意思の重み、そのもののように聞こえた。
心の底から信じているのだろう。
彼の瞳がたたえたものは、確信、信念、本気、そういったものであって、語っているのはもしかしたら、真理──
そうおもわせるほどに一分の疑念も迷いもない。
おもわず、駿介はハハ、と笑った。
彼のことばは耳にとても心地よくて、いっそのこと信じてしまいたくなる。たしかに、新聞部員に好かれているのも納得だ。
彼のそばで、彼のポジティブな甘言ばかりを聞いているのは、雲間を漂うがごとくさぞかしいい気分だろう。
けれど、現実はそんなに甘いものではない。
舞い上がれば地上にたたきつけられる。
調子に乗るからだ、とそれを見てみんなで笑いものにするのが、世の常ではないのか。
そんなことがわからないほど、子どもでもバカでもない、と駿介は自分に言い聞かせる。
「今まで宇宙飛行士になった日本人がどのくらいいるか、知っているんですか?」
「十人くらい?」
彼はやはりバカなのではなく、単に楽観主義にすぎるだけらしい、と駿介は結論づけた。
「だったら、医者なんかとは比べものにならないほど狭き門だって、わかりますよね?」
「それは、君の思い込みじゃない?」
「……は?」
早乙女は自分の髪を指ですきながら、ふ、と空よりも遠くを見る目をした。
「君は、椅子取りゲームのようなものをイメージしてるんだろうけど。たった数個の席のまわりを、何百人、いや何千人もがぐるぐる回ってる、みたいなかんじかな。でも、望む人間の数だけ、席はあるからだいじょうぶ。自分の分の席はない、座るのは無理、そういう思い込みを捨ててただ座りに行くかどうか、それだけの差なんだよ」
「だけどっ──」
「まァ、聞けよ。ちょっと考えたら分かるはず。だれでも海外旅行ができるようになったのは、行きたい人間がそれだけ増えたからだ。アイドルだってマンガ家だって、あこがれる人間が増えた分だけ、なれる人間も昔よりずっと増えてる。どんな業界もエネルギーさえあれば拡大するんだ。だから、本気で宇宙に行きたい人間が多ければ、行ける人間だってこの先ちゃんと増えるよ。自分には無理だとおもえば、無理なまま終わる。それが宇宙の法則ってやつだから」
早乙女のほっそりとした指が、急に駿介の膝を指した。
「……というようなことが、その本に、ちゃんと書いてあるから。信じたいきもちがあるなら、とりあえず読んでみて」
と、言うだけ言って、早乙女はやんわりとほほえみをうかべたまままた瞑目する。
今度は、ふしぎと寝ているようには見えなかった。
膝の上の本を、駿介は手にとる。
読むポーズではなく、早乙女の言う『宇宙の法則』とやらがどういうものなのかを、知るために。
なぜかそのとき、新聞部員たちの方からおおっと歓声が湧いたけれど、駿介は聞こえないふりをした。
はじめに、と題された章を読み進めていくと、宇宙は素粒子とエネルギーの波からできている、とたしかに物理学っぽい記述が見てとれる。
人の思念もエネルギーである、と書いてあるところをみると、思考で生じるエネルギーによって物質、つまりはこの現実世界が作られるのだ、というのがこの本の言わんとすることなのだろうか。
早乙女がくり返していた『お祈り』というのは、どうやらこの思念を指していたらしい。
宗教ではなく科学だ、と言い張っていたのも今ならそれなりに納得できる気がする。
努力とは単に、可能だと信じるきもちへの御供えものだ、と言われてしまえば、努力せずして──というタイトルも、おもったほど馬鹿げたものではないように感じられるからふしぎだ。