世界平和と消しゴム
「ちょっと古いけど、絶版になってる本だから仕方ないんだ。原書ならよく見かけるのに、日本語版はネットで中古本をいくら探してもまったく見つからないまぼろしの本なんだよ。まあ、遠慮せずにまずは読んでみて」
ほっそりしたあごと繊細な鼻梁の間から出てくる男っぽい声に、駿介はそのことばの内容以前に、無性に騙されている気がしてならなかった。
もういちど、本のタイトルに疑いのまなざしを向けている間に、壁際にたたんで置いてあったパイプ椅子を広げた早乙女が駿介に座るようすすめてくれる。
さんざん迷って座ってみれば、いつの間にか早乙女は椅子の背にもたれて目を閉じていた。
宇宙エネルギー、とかなんとかそれっぽい名前をつけてはいるが、けっきょくは『昼寝愛好会』ともいうべき実態を成果の出ない研究とやらでカモフラージュしているだけではないのか、と駿介は目を座らせる。
とはいえ、それは駿介にとって願ったりではあった。
なぜなら彼が──こんなヘンテコな女子がいるとはおもいたくない──寝ている間、渡された本のかわりに参考書を読もうがどうしようが、駿介を咎めるものは居そうもないからだ。
クラブ活動の時間中も好きに勉強をしていられるなら、クラブの実態など取るに足らない。
ヘンなヤツも、寝てさえいればただの残念な美人で片づけられる。
「そりゃ、初期費用もなにもいらないよな」
自分のカバンを開けながら駿介がポツリともらしたとたん、キイ、とキャスターが木の床を空滑りした。
「言っとくけどさァ」
出しかけた参考書を、あわててカバンに押し込む。
「べつに、寝てるわけじゃないよ、誤解しないで。ただ、お祈りしてるだけだから」
寝てるだけのほうが百倍マシだ、と駿介はとっさに叫びたかった。
どんなにヘンな研究をしていようが、アヤシイ宗教よりはまだ許せる。
ふり返った早乙女は、駿介の言いたいことを見てとったのか、パタパタと手を振ってみせた。
「ちがうちがう、お祈りって言っても、れっきとした科学だから。そこのところは、その本を読めば分かるよ」
と指さされた本のタイトルは、しつこいようだが、『努力せずして勝利を得る法』──
百歩譲ったって、れっきとした科学どころか、科学の名を借りた詐欺にしかおもえない。
「ちなみに、今祈っていたのはね、世界平和と、実力考査での英語満点と、あと、消えた消しゴムが戻ってくること」
世界平和と消しゴム……
やはり無害そうに見える笑顔は単に地顔で、質の悪いジョークなんだろうかと、駿介は疑いをいだく。
ともかく、ひとつ理解できた。
すなわち、努力なんてせずにお祈りをするだけで願いが叶えられる、というのが渡された本の趣旨にちがいない。
──だれが読むか、そんな、ありもしないおとぎばなしを説くような本!
すぐにでも椅子を立って出て行きたかったが、駿介は新入生らしく穏便にクラブ見学をすませ、けっきょく別のクラブに入ることにしましたのでー、というポーズを取ることに決めた。
他に入るクラブのあてはないけれど、ここの後なら、どこでもすばらしく有意義におもえることだろう。
初期費用二万の天文クラブだって、こんな『お祈り愛好会』にうっかり籍を置いたがためにそそのかされて努力を怠ったあげくまんまと現役受験に失敗して予備校生活を送るはめになることを考えたら、はるかに安上がりではないか。
駿介は、ひざの上に置いた本を、ぱらりぱらりとめくってみせた。
「へーえ。祈るだけでテストで満点とれるんだったらいいですねー」
まともな神経を持っていれば、バカにしていることがまるわかりなはずだ。
それでも、早乙女の美貌から笑みがはがれ落ちることはなかった。
「オイ、一年。そう言ってやるな、早乙女の成績は三年文系でトップなんだぞ」
長机のほうから飛んできた声は、おそらくいちばん最初に声をかけてきた黒ブチメガネのものだ。
駿介は視線とちがって心は動かすことなく、事実を簡潔に口にした。
「一年のK組は、八割が理系希望ですが」
入試の成績上位三十人はK組にいる、とは入学式からあちこちでささやかれていた宝ヶ原高校伝統の公然の秘密らしい。
ようするに、理系と文系のレベルの差は推して知るべしだ。
「馨ちゃんって入学式で新入生代表だったけど。あれって、入試のトップがやるんでしょ。つまり、県でも一、二を争う成績だったってことじゃない。平伏したら、一年?」
「実際、ウソのようだが……昨日から、E研に新入生が入ってきますようにって祈ってたところに、おまえがやって来たんだしな」
「早乙女せんぱーい、新聞部にも後輩が入るよう祈ってくださーい」
いつの間にか新聞部員が四人に増えていた。
彼らの言い分から、駿介にも分かったことが、ひとつある。
それは、この早乙女という見かけも中身もおかしな男が、意外にも彼らから好かれているということだ。
「入試なんて、どこが出題されるかは運次第で、マグレでいい点が取れることだってあるでしょう。僕がここに来たのも偶然で、まだ入ると決めたわけじゃありませんけど」
「……運と、マグレと、偶然かァ。これは、宇宙への道は遠いだろうなー」
ギクン、と駿介の心臓が跳ねた。
ばっ、と駿介がふり返ると、早乙女はあわてたように口を押さえた。
まるで、ヤバイ、口がすべった、とでも言いたげに。