新聞部部室奥
地震で倒れてきそうなスチールラックの間に、長机が縦にふたつ並んでいる。
手前の長机についていた三人の顔がいっせいにこちらを向き、駿介はのどまで心臓が跳ね上がった心地がした。
「あ……」
「もしかして、E研に入会希望か?」
あの、と口にするより先に、黒ブチメガネの向こうかららんらんとかがやく目にずばり、用件を言い当てられてしまう。
なぜ、と問いたかったけれど、駿介はとっさにうなずくことしかできなかった。
新聞部見学のふり、など意識の果てに吹っ飛んでしまってあとかたもない。
「うおおおっ」
彼が叫んだと同時に、べつの女子がスゴぉイ、とはしゃいだ声を上げて手をたたいた。
その拍手はいったいなにを讃えているのかとも、駿介は問いたくなる。
が、疑問はすぐにオイッ、と部屋の奥へと呼びかける声にかき消されてしまった。
「早乙女、マジで来たぞ!」
奥の長机は無人だけれど、そのさらに奥の窓際に職員用とおぼしきグレーの机がある。
そして、キャスターつきの椅子には誰かが座っていた。
背中にとどく黒髪をひるがえし、サオトメ、と呼ばれた人物がふり返る。
まず、大きな双眸が目に飛び込んできた。
ふわり、と駿介に向かってほほえみかける。
かなりの美人だ。
──ただ、襟元にはリボンではなくネクタイが見えるのは、なぜだろう。
え……だ、男子?
駿介は、二度、まばたきをした。
医者になるのに美的感覚が必要とはおもっていないが、それでも美人をみればきれいだとおもうし、その美人が男子だったら、何てもったいない、とおもわずにはいられない。
感情よりも深い場所から、性同一性障害があること、セクシャルマイノリティももはやめずらしくないことなどが、知識として浮上してくる。
きっと、男装している女子かそれに類するなにかだろう、と冷静に結論づけた駿介を、にこにことうれしそうに美人が手招いた。
机まわりを見るかぎり、とくにあやしげな研究をしているようすはない。
駿介は軽く会釈をしてから近づいていく。
長机についていたのは、おそらくは新聞部員なのだろう。
グレーの机には、椅子がひとつきり。
ということは、『宇宙E研究会』とは、たったひとりきりで活動しているのだろうか。
いや、机の上にはとくに何の道具もなく、活動しているようすはみじんもないが。
しかも、呼ばれるまで無反応だったところをみると、うたた寝をしていたというのが正解な気がする。
「はじめまして」
──あ、なんだ、男だ。
その第一声で、駿介は確信した。
低めの美声は、十中八九、男子のそれにちがいない。
「宇宙エネルギー研究会へようこそ。会長の早乙女馨です。三年文系F組、志望大はスタンフォードで、夢は世界平和。あと、趣味は空を飛ぶこと、です」
きらりと、語尾に星マークが見えるようだ。
カオル……名前は男女、どちらともとれるな、と駿介はまずおもう。
つぎに、謎のEは、なるほどエネルギーの略だったのか、と納得させられた。
宇宙エネルギーとは何やら物理学的なひびきだが、会長本人は理系ではなく文系だというのだから、駿介にはわけがわからない。
志望大以下は、とりあえず聞かなかったことにしてしまう。
コメントしようにも、本気にすべきかジョークと受けとるべきかで、ゆうに三十分は悩むことになりそうな微妙さだったからだ。
そんなひまは、駿介にはあるはずがなかった。
なので、駿介はいっしゅんで下せる判断を選択する。
すなわち、ヘンなヤツだ、と。
「一年K組桂木駿介です……はじめまして」
「K組かぁ。志望大は、やっぱり国立?」
「──ええ。国立、医学部医学科」
へえ、と感心したように声を上げてから、それで、と早乙女は首をかしげた。
「きみの夢は?」
駿介は、呼吸もまばたきも忘れてしまう。
バカなのか。
それとも、深い意味があるのか。
「…………医者ですけど」
もっと細かな専門まで訊いているのかともおもうが、そんなことを知りたがる理由がない。
駿介のこたえに、そう、と早乙女はあっさりほほえんでみせると、机の上の本の背表紙を引いた。
「医者をめざす子が宇宙のエネルギーについて知ろうだなんて、いい心がけだな。ハイ」
と、手渡されたハードカバーの本に、駿介は無言で視線を落とす。
背表紙の端がほつれ、やや黄ばんだ古い本だ。
タイトルは、『努力せずして勝利を得る法』──
これも、彼のジョークなのだろうか、と駿介は早乙女の表情を窺ってみたが、にこにこと人のよさそうな笑みは、善意を垂れ流しているようにしか見えない。
が、心からの善意でこんな妙なタイトルの本を渡されても困る。
少なくとも、まともにつき合える人間だとは到底おもえなかった。
これは、来る場所をまちがえたかもしれない。
そう、駿介は早々に後悔に襲われる。