日常 夏のある日
夏も盛り。蝉もひっきりなしに鳴き夜も眠るに寝むれないような季節。広大な青空に、燦然と存在感を放ち白く輝く太陽。風鈴を窓辺にかけてみてはいるけども、涼を感じられるほど余裕はないし、仮にあったとして音だけでこの暑さを和らげろというのは不可能に近いだろう。日光は当たっていないが、室内も十分暑い。
その暑さに耐えかねて、ほとんど意地で向かい合っていた数学の課題をやる気がなくなってしまった。手にしていたシャーペンを机の上に投げ出す。
「あ〜、やる気が出ない〜…………」
「レイ、次にその言葉をもう一回言ったら、あなたのかっこいい立派な顔をこの辞典で殴打してあげようかしら。そうすれば作業効率も少しは上がるのかしら?」
机に気だるげに突っ伏している少年——レイは少しだけ頭を上げ、質問をした少女——伊奈のことを見た。
病的なまでに白い肌とは対照に、腰ほどまでの美しく艶やかな黒髪を耳にかけながら伊奈は、すらすらと宿題を終わらせていた手を止めた。机に突っ伏している僕に向かってにっこりと笑いかけて来た。
その顔は、いつも笑っているようでどこか深くに憂いを隠しているようだった。
「——ねえねえ、伊奈。そういって何で手にはわざわざ持ち替えたシャーペンが握られているのか僕は不思議でならないんだけどなぁ〜」伊奈が持ち替えた芯の太さは、先ほどよりも細くなっていた。それは簡単に僕の肌を貫いてしまいそうだ。
ふと、怖いことを想像してしまう ————伊奈なら、やりかねないなぁ…………。
伊奈はシャーペンを机に置いた。少しの間迷ってから、立ち上がって部屋の端にある棚から、ピンク色の豚の形をしている貯金箱を手に取った。それは僕が毎日百円ずつコツコツと貯めているものだから、今はもう随分と重くなっているはずだ。
僕がその行動の意味が分からず首を傾げていると伊奈は、くるり、と見せつけるよう僕に向き直った。髪が流れるように回転した軌跡をたどる。
「貯金箱を何に使おうとしているのかな?」
素直な疑問の投げかけたレイ。
「ん、簡単よ。貯金箱の目的というのはお金を貯めるためにあるわけじゃない? そしてそのお金を取り出すためにもあるわけなの。つまりは、貯まったお金を取り出す必要がある時には、それを壊すことは必要でしょ。そう、そうね。壊すためには何か固い物にあてなければいけないわね」
さも当然というように肩をすくめながら言った、僕の頭に視線を向けて。ぞわりと悪寒が体を走り抜けていくのを感じた。その視線が示すのは想像に難くないだろう。
「……どうしてだろうな。僕の位置からは豚さんの下に黒い栓があるように見えるんだ。その栓が付けられている理由って、貯金箱本体を壊さずに中に貯めたお金を取り出すために作られてものだと思うんだけど」
「破壊は芸術よ」
「僕の今までの努力をすべて無に帰すつもりか」
怒鳴ってやりたいにも、うるさい程に蝉が忙しく鳴いている、夏真っ盛りの今では怒ろうにもまったく気力が起きない。
「とりあえず、豚さんを置かない? 豚さんもいきなり高い高いされてびっくりして何も言えなくなっているじゃないか」
「無機物に感情を求めいているなんて、レイはついに頭がおかしくなったかしら。でも安心して。私は完璧に防音された部屋でレイに襲われても、悲鳴一つ上げずに堪えてみせるわ。レイの親もいないことだし、チャンスよ」
「はっはー! さては君まで夏の暑さに脳味噌が腐ってしまったんだね!」
堂々と、胸を張る伊奈。口調の快活さとは似つかないあきれ顔で答えるレイ。いったい、何がチャンスだ。そしてなぜ僕が伊奈を襲うことになっている。
最初とは話が全く違うところにずれていた。
亀を思わせる動作でのそりと起き上ったレイは立ち上がり、伊奈から貯金箱を奪い取ると、元の位置に座りなおした。それに合わせて伊奈もレイの正面に座る。
「なになに? 私の手では豚さんを殺させたくないから自分の手で殺すと」
「壊すから殺すになっているよ」
さりげなく違う言葉にすり替わったことに内心苦笑した。
「ほら、レイ。豚さんを大事そうに抱えていないで目の前の宿題を片付けてしまいましょう。私はまじめにやっていたから進んでいるけど、レイは全く進んでいないでしょ。豚さんに構っていないで机に真剣にむかわないと」
豚さんに構わせるようにした原因は誰にあるのかは言わないでおいた。
とりあえずまあ、伊奈がいうことは反論の余地もない正論なので、そそくさと豚さんを元のあった棚に戻す。元の場所へ戻ろうとしたとき、ふとして外を見た。
そこからはいたって普通の住宅街が見える。家が立ち並んだ住宅街に自分の家があるのだから当然だ。青い空には、もうもうと立ち込めた煙のように入道雲が見える。青い空に浮かぶ雲は、海を航海する船のようだった。遠くにあるが、こちらに向かってきている。
「レイ、あなたには空を見て物思いに耽っている暇はないのよ」
「まあ、そういわないで」
とはいいつつも腰を下して机に向かう。そこからは二人とも無言で目の前の宿題を終わらせることに取り組んだ。何分、夏休みだ。出る宿題は計画的に終わらせないと夏休みの最終日に泣きながら終わらせなければいけない。それが嫌な二人は、夏休みの初日にも関わらずこうして宿題を黙々とやっている。夏休みが始まる前の日——つまり昨日、二人は宿題を最初の一週間で終わらせることを約束した。
ずいぶんと時間が経ったころ。外から聞こえてきた小さい子供の声を理由に集中が切れたレイは、休憩と思いペンを置いた。力を抜くように後ろに手をついて休んでいたが、何気なしに伊奈の方を見た。
途切れることなくペンが進んでいる。集中力を切らさずに淡々と宿題をこなしていく。この世ではないもののようだ。実際、伊奈の姿はとても美しかった。
病的なまでに白い肌とは対照的に黒い、腰まで流れる髪は、艶やかな輝きを放っている。問題を追って左右に動く瞳は漆黒の底を映したように黒く、美しい。どこか、浮世離れした姿に少なからず皆見とれることだろう。
黒い瞳が僕のことを捉えた。上目づかい気味に僕のことを見る姿は、とても妖艶で万人の人を引き付ける魅力があった。
「どうかした?」
「——ううん。特になにもないよ」
そう、と素気なく返事をした伊奈は宿題に取り組もうとしたが、一瞬迷った後にペンを置いて伸びをした。さすがの彼女でも疲れたのだろう。
「お疲れ。何か飲みものでも持ってこようか?」
「特に気を使わなくてもいいわ。それよりもレイ、あなたはきちんと宿題をやっていたのかしら。私はそれが気になるの」
そう言うと立ち上がると、僕の左隣までわざわざやってきて腰をおろした。僕がやったプリントの束をひとずつ確認していく。
「——ねえ伊奈。わざわざこんなくっつく必要はあるのかなぁ。こんなだれもが夏を恨むような暑さの中で、密着してもいいことはあるのかなぁ?」
心底疑問のように問いかけるレイに、「黙って」と言った。どの一言でレイは口を閉じる。こういう時の伊奈に何か言っても無駄だ。それにしても、どうしてだ。こんな肌と肌が触れそうになる近さで座らなくてもいいのに。扇風機が目当てなら僕の右側に座るはずだからな。いったい何がめあてなんだろう。さっぱりわからない。
考えてみたが何が目的か分からないレイは、考えることをやめた。伊奈がすべてのプリントを確認し終わり、机の上に整えて置いた。
「その右側のプリントは?」
「ああ、こっちもやったやつ。見る?」
取って渡そうと手を伸ばしたレイだったが、それよりも早く伊奈が手を伸ばした。
「…………ッ!」
「……? どうかしたのかしら?」
レイよりも先にプリントを奪い取った伊奈が尋ねた。それにレイは「いいや、なんでも」と答えると、伊奈はプリントに目を落とした。
一瞬。けれども短くない時間。伊奈がプリントへと手を伸ばしたとき、レイの左肩になにか柔らかいものが押し当てられた。それが何か理解したレイは思わず体を硬直させてしまった。同年代でもかなり大きい彼女の胸が当たったのだ。レイが横目で伊奈のことを盗み見るが、特に気にしている様子ではない。これは気にした方が負けなのか。
わざとではないのかよく分からないが、レイは気が気でなかった。
「ふ〜ん…………全問正解。しかも私と同じぐらいまで終わっている」
少しの間こちらに視線を向けて「なんだか癪ね」とこぼした。
「どうしてレイはやればできるのに、いつも怠けるような言動をするのかしら。能ある鷹は爪を隠す、とはいうけど能力を生かす時が来ているのにやらないのは愚者のやることよ」
「ああ、わかっているよ。でもね、能がある人は働くときは働いて、休む時はしっかりと休んでいると思うんだ。働き過ぎはよくないし、精神的にいやでしょ。それに、僕が何か失敗したことはあるかい?」
レイは何もなかったかのように、冷静にふるまう。ここは紳士といこう。伊奈が気にしていないのならこちらからも言わない方が得策だ。
「そうね、癪だわ。色々と。そう、色々と…………」
ぶつくさと何かをつぶやく伊奈。何を言っているかは聞こえない。
先ほどのこと。この少女は意図してやっているのだろうか? それとも、そうではないか? 判断が時たま付けづらいのだ。まったく、手を焼かされる限りだ。気づかぬうちに、レイは大きなため息を漏らしていた。
「レイ、どうしたの? さっきからなんだかそわそわしているというか、落ち着かない様子だわ。レイ、どこか調子でも悪いの?」
僕の心情の機微を読んだのか、伊奈が心配するように訪ねてきた。
「うん、そうだね。強いて言うなら、『良心が痛い』とでも言うべきかな」
いったいなにかしら、と首をかしげる伊奈。レイは彼女から視線を外して、窓の外を見やった。先ほどは遠くにあった入道雲だったが、気付けばすぐ近くまで近づいていた。これはひと雨降りそうだな。そう思った直後、空が灰色になり、狂ったかのように雨が降り出した。地面に雨が降り注ぐ音が、痛々しい。
「伊奈、君はいつ帰るの?」
「そうね、人間いつ還るのかわからないけど、その時はあなたと一緒がいいわね」
「——多分ね、僕と君との『かえる』の認識が違うような気がするんだ」
『帰る』と『還る』という違い。いやいやいや。土に返ってどうする。彼女もそれを理解してやっているのだろうか。それもまた、判断が付けられない。
左からこちらを見つめる伊奈の姿は、僕が近くにいていいようなものではないと思わせるくらいに幻想的だった。不意に、そんなことを思ってしまった。
「君ってなんだか人間に見えないくらいに綺麗だね————」
何気なしにレイが放った言葉に、伊奈は虚を突かれたように驚いた。
「…………ありがとう。私は素直に喜んでおくわ。でも、それをいったらあなただって同じよ」
すっと立ち上がると、僕の後ろに立った。僕が何かと振り向くより前に、そのままもたれかかる様にして、後ろから僕に抱きついてきた。先ほどは一瞬だけあたったものが、今度は惜しげもなく押し当てられた。途端、花のような芳しい匂いが僕を包む。視界の端に伊奈の黒い髪がちらつく。
「…………なぁに、レイ。あなた緊張しているの? 私みたいなかわいい女の子に抱き着かれるなんて……って、いままでの人生生きていてよかったと思っているのかしら。ふふふ、あなたの考えていることが手に取るようにわかるわ」
僕のことをからかうように、試しているように囁いた。彼女の吐息が僕の左頬にかかる。凛として、流れる水のような声が僕の耳のもとから聞こえる。
伊奈が考えていることは全然見当違い——少なからず当たっている。僕には彼女の考えていることが分からない。この行動の意味も。彼女が僕と一緒にいる事も。彼女が僕に構うメリットも何もないのに。むしろ、逆だ。彼女に被害が多いはずなのに、なぜ? しかし、今起こっている事態とは何ら関係ないことだ。
「……からかうのも大概にしておいた方がいいよ。僕がいくら強固な心を持ていたとしても、前提として僕は男だ。理性のタガが外れない確証もないわけだから。僕は君自身の貞操の心配をしている。それに、君が考えていることは九割方外れていると言っていいほど見当違いだよ」
「その九割は、『なぜ僕に構うのか』でしょ。私に尋ねること自体、見え透いているわ」
「………………………」
「あなたのことなんて、私にかかれば造作もなくわかってしまうのよ。喩えるならば、雨に濡れて思わず目をそらしてしまう、濡れ濡れのすけすけ状態のシャツみたいなものよ」
やけに生々しいというか、扇情的というか。咄嗟に思いつくものとしてはいささか過激だ。
「……君はエスパーかなにかなの?」
その答えに、伊奈はクスリと笑った。
「どうして君は、そうやって僕を困らせるんだい?」
「あなたのことを好きだからよ」
「どうして君は、僕のことを好きって言うんだい?」
「あなたのことが好きだからよ」
恥ずかしげもなく、それが当り前のように答えた伊奈。耳元でささやくその声が、蜜となって僕の頭の中を満たしていった。彼女の何もかもが、僕の心を魅了する。
「どうして君は————僕に構うの?」
そっと、首に腕をまわし後ろから強く抱きしめられた。僕は、どうしようもなく泣きたくなってしまった。悲しみでも、嬉しさでもない。この感じは、なんだろう。
「きれいな髪ね。金色にも、銀色にも見えるような白髪ね」
所詮は、アルビノだよ。僕は答えた。
「大好きよ、レイ」
「僕は、君のことが嫌いだ」
そうして、彼女と僕は黙っていた。空気に沈黙が流れるが、決して居心地は悪くはならない。それは彼女の信頼でもあるし、僕の信頼でもあった。
僕はその時、美しいまでの異形に抱きつかれながら。
密かに、この関係が続くことを願っていた。願ってしまっていた————。
これは、異形に魅せられた僕の話。
どうしようもないほどの、僕の————色褪せ朽ちた話だ。
更新は不定期ですが、1週間毎を目指して頑張ります。継続して、どうぞよろしくお願いします。