長い二分間
人生で二度目くらいの三人称です。
成層圏への境目であり、もはや雲さえも全て下に見えるほどの高度。
薄い空気。低い気温。空を自由に飛び回る鳥でさえも倦厭し、生き物などは滅多に見られることがない遥か上空。
男は息を切らしていた。
呼吸を整え、落ち着きを取り戻していく。
この高度の気圧、気温。おおよそ人間に耐えられるものではない。それは魔族とて同様。
この男は魔法を行使することにより、自身の周囲のみを快適な空間に変えていた。
「ハァ……、さすがに舐めすぎたかもねぇ。全く、嬢ちゃんを迎えに来ただけってのに、どうしてこうなったんやらぁ?」
嘆息を吐きながらも、言葉とは反面、嬉々の混じった声色で独り言を呟く男。
無論、聴いている者などどこにも存在しない。
男の目的はただ一つ。ある少女を連れ帰ること。
気まぐれで引き受けたものだった。
――しかし、人間の街にまで来ることになるとは……。
男は始め、困惑した。
少女はよく出奔する。よって密かに、追跡のための魔法道具が取り付けられている。
だが今回は程度が違う。その先は彼山脈を越え、さらに東の果て。
魔族ではなく人間の住む大地であった。
かくして男は辿り着く。
指し示されたのはこの街であるが、どうにも魔法道具の調子が悪い。大まかにしかわからない。
――この人の量を一から探すのは面倒だ。
そして、男は考えついた。
この街を消し飛ばすほど大規模な魔法を放つ。
さすれば、捜索の障害たる有象無象を消し去ることができるであろうと。
探し人たる少女はそれほど弱くない。
その程度の魔法であるのなら、切り抜けてくれるだろうと男は確信していた。
元来、街を破壊するだけならば、この全容を見渡し切れる空の上。ここから相応の火力を持った魔法を放てば終わり。
そしてそれは、男には容易なことであった。あまりに容易すぎた。
ゆえに男は享楽を求める。
人間に気づかれるほどの、男は攻撃を受けないだろうと予測した限界の、その高度まで近づいていった。
結果としては失敗だった。
魔法陣を展開し、魔法を放ち、街を破壊し尽くそうとした瞬間――なにかが頭を目掛けて飛んで来たから。
男は完全に油断をしていた。
辛うじて咄嗟に左腕で庇うことに成功したが、おかしい。
そのなにかの攻撃を受けたはずだが、その腕には外傷がなかったのだ。
さらにそのなにかは男に向かい襲い続ける。二度目以降は油断はしない。
魔法を取りやめ、回避に専念し始めた。
けれども男に異変は起こる。
その攻撃を受けた部位。左腕が動き出した。
自身の脳の命令を無視し、勝手に筋肉が伸縮する。
皮膚感覚、深部感覚、運動感覚はそのままに、ただ運動神経から伝わる電気信号に従わず、自由奔放に動いている。
そうして腕は、男自身の首を絞め始めた。
そこで男は理解する。あの攻撃の効力を。
まさか自分で自分の首を絞めようことになるとは、その状況に男は愉楽を覚えた。
――さあ、どうやって切り抜けようか?
このままでは朦朧とする意識の中、次の、また次の攻撃を受け、最終的には全身がそのなにかにより支配されてしまう。
もはや躊躇いはなかった。既にこれは自身の腕ではない。
残った自由に動く腕を使い、自分の首を絞めているそれを捻じ切る。
軽い魔法による身体強化をかけてしまえば簡単なことであった。
そのまま首から引き剥がし、放り投げる。
治癒の魔法を使用して、流れ出した血を止める。応急的なものではあるが、男にはこれで十分であった。
飛行し、攻撃から逃れながら、辿り、そのなにかを放つ人物を見つけ出した。
露出の少ない服を着た、それは飾り気がなく型からも男ものだと予想できるが、女性がいたのだ。
確かに男性と見紛うほどだが女性である。男にはそう確信できた。
その後は単調な戦い。
男は隙を見つけて大規模な魔法を放とうとするが、女性はそれを防いでいく。
不意さえ突かれなければ、さしたる問題はない。
男より女性の消耗は早く、そのまま行けば男の勝ちは揺るがなかった。
そのはずなのに、こうなった。
途中でどこからか現れたもう一人。その連携により、慢心し切っていたその男は、こうして遁走するにまで、無惨にもやられてしまったのである。
「ま、これを撃てば、終わりだろうけどねっ?」
男の使用した魔法。それは光の魔法であった。
魔法とは本来、詠唱を行うか、魔法陣を描く。そのどちらかを行い、魔力を注ぎ込む。そうしてようやく発動する。
だが、男は違う。魔族の中でも魔法に対する適性が高く、ある程度の単純な魔法であれば詠唱も、魔法陣もなく使用できる。
それでもあの街を破壊し尽くすような大規模魔法。男ではそれを、それらなしには発動できない。
それゆえに、光の魔法を男は使う。即興で魔法陣を描くため。
地面に向かい、手を伸ばし、その精密な式を全て、今思いついているのかのように、一切の、一瞬の迷いなく、光が動き書き上げる。
「秘技《累連魔法陣》! なんつってぇ……!」
男の描いた魔法陣。
それは掌と比べてしまえば、等しいかやや劣るほどの直径であった。
男の魔力が注ぎ込まれる。
魔法陣は輝きを増す。ついに魔法が発動した。
その程度の大きさではあるのだが、果たしてこれで、街を滅ぼすほどの魔法が放てるであろうか。
その答えは否である。
なぜならばこの魔法陣。魔法陣を作るため、その魔法を放つためだけのものあだったから。
新たに光が現れて、何倍もの大きさの魔法陣が形成された。
内部には、膨大な量で、複雑な模様で、精緻な魔法式が描かれている。
男は冷ややかに笑みを深めた。
――まだ足りない……。
さらに魔力は注ぎ込まれる。
新たに作られた魔法陣。それはまた、光を放ち起動する。
しかしこれも、本命ではない。
新たな光が現れて、より巨大な魔法陣が創り出される。
先ほどの数十倍。最初のものと比べるならば数百倍。
もはや、この規模のものから放たれる魔法は、想像を絶するものであろう。
だというのに、男はまだ止まらない。
もう一度、繰り返す。
累乗的に、新しく創られる度に、直径を膨れ上がらせていく魔法陣。
数度の生成が反復され、ようやく至った。
地上の街と同等の大きさを、面積を誇るまで。
そこでついに、男は満足感を得る。
「左腕ぇ! そしてこの胴の傷っ! 君たちに敬意を表して、過去最高の一撃を、神をも恐れぬ一撃を、お見舞いしてやる――ぅ!」
男の額。そこに一本の角が生える。
魔族の角は、魔力を貯蔵するための器官。同じ魔族であろうとも角のあるなしで、魔力量に大きな違いができてしまう。
男の魔力が解き放たれる。
凄まじく、特異な量に空気が震える。振動はなにもない空を伝わり、轟音を響き立てる。
その全てを、男は一つの魔法のために使おうというのだ。
「――魔法! 《ライトニング・トリーズ――」
自身の目的さえも忘れ、ただ狂喜と悦楽、憤怒の感情に身を任せる男。
迸る雷光。魔法が今にも放たれんとする。
その時だった――男が異変に気がついたのは。
平衡感覚を失う。
自身の眼下に展開された魔法陣が、真上にある。
それどころか、見る見るに離れていく。
――落ちている……?
流れる風を受け、男はそう理解する。
理解はしたが、納得はできない。
「羽が――死んでいるのかっ!」
自身を空に飛ばしえた魔族の羽。それがなぜ今、機能を停止させたのか。
遠くに離れた魔法陣が消えていく。
一向に起動しない羽。男の焦りは一層に深まっていく。
今までにない経験。
対策を考えなければいけない。
魔法陣は――駄目だ。あれは止まってなければ使えない。
なら、簡単な魔法だけで――
「やっぱり。貴方の近くは寒くないんですね」
目の前から、真上から、凛とした声が聞こえる。
気がつけばそこには、銀髪の美しい人間がいた。
他でもない、男の胴体に袈裟懸けの傷をいれた張本人だ。
「貴様ぁ! いつの間にっ!?」
――わけがわからない。
目の前の人間に羽はない。人間なのだから、それは当然あるわけがない。
しかしそれだけではなく、男にはこの人間が、突然現れたように見えた。
さっきまで、本当に直前まで、誰の存在も気取る事が出来なかった。
「自分はそう簡単に教えませんよ? それこそ、たとえ冥土の土産でしょうとね」
自信ありげに人間は言う。
それは言外に、魔族の男を殺すつもりだと告げている。
人間は男の額に目線を送ると、億劫そうに言葉を続けた。
「それより、煩わしそうなその角。それも切り落としちゃいましょうか……」
そう言って人間は笑う。
浴びた返り血も相まって、男にはその笑みが凄惨なものと眼に映る。
自身の角へと人間の手が伸ばされた。
そこで男は、この人間が、羽の機能が奪われた原因であろうと理解する。
このままではいけない。しかしだというのに、身体は思うように動いてくれない。
人間は手刀を作り、ゆっくりと、誤ることのないように、丁寧に触れていく。
それで本当に斬れるとも思わない。
一連の動作を見れば、誰しもがそう感じるはずだ。そこまでに人間は緩やかな動きのまま、手近づけていったのだ。
そのはずであるが――
角は、飛んだ。
その光景は、痛みは、魔族の男の自尊心を傷つけるには十分であった。
自身を格別たらしめているうちの一つ。その角の消失に、矜持は消え、余裕は失せる。
――ここまで追い詰められるのは、久方ぶりか……。
「フフッ、ク、ハハハッ!」
魔族の男は狂気に呑まれたように笑い出した。
人間は僅かな驚愕とともに動揺する。
この魔族が笑う理由など、人間には到底、及びもつかなかったからだ。
「どうしましたか? 気でも狂いましたか?」
ゆえに人間は問う。単純な疑問。
そうであったが、男はまるで見当違いの答えを返した。
「ハハ、君、スカートでしょう? いやぁ、さぁ。中身、丸見えになっちゃうんじゃないかと思って……」
この場に至って、追い詰められているというのに、冷ややかな笑みを浮かべて軽薄にそう宣う男。
予想外。人間はしばし惚けてしまう。
男はしてやったりの表情を浮かべる。
そんな男に人間は、呆れたように言葉を返した。
「そんな冗談を言っている余裕はあるんですか?」
「――ないねっ!!」
そう堂々と、飾る様子もなく答える男に、人間は言葉を失う。
もう既に地面は近い。
人間は体勢を変えると、男を足蹴に、踏み台にして距離を取る。
そうすることで、自身の落ちる勢いは弱まり、反対に男は加速していくからだ。
「では、ご達者で……」
男の目には、瞬く間に離れていく人間の姿が映っていた。
――本格的にどうしようか……これ。
変わらない青い空が目には見えるが、後ろを向けば凄まじい勢いで地面は近づいてきていた。
考える猶予はない。
風による速度の減衰を試みる。
――駄目だ。
身体強化を行い落下の衝撃に備える。
――まだ、駄目だ……。
治癒魔法により事前に回復を約束する。
――まだ、まだだ……ッ!
風に緩和された勢いで、微々たるものだが猶予が生まれる。
その間にも、魔族は自身のできる最大限の方法を考えぬく。
男の使える魔力は残り僅か。
残った角の折れ目からは、残り火とも呼べる残滓が漏れ出している。
そうして男はふと気がついた。
地面に向けて手を伸ばし、そこから魔力を噴出する。
反作用を得て勢いが緩む。
散った魔力。今度はそれを利用して、魔力障壁を作成。砕けやすく。何枚も何枚も、できる限り。
男ははそれにぶつかることで衝撃を受けながらも、速さの緩和に成功した。
事前の治癒魔法の効果により、そこでの負傷もその程度なら、見る間に回復していった。
その魔力障壁にぶつかることと、比較にならない衝撃が、男を襲う。
ついに、地面に届いたからだ。
言葉にならないほどの痛み。自分の行った悪あがきに果たして、意味があったのか疑問が持てる。
「グ、ハハ! 耐ぁえた……。耐えてみせたぁ……!」
息も絶え絶え、魔力も尽きているというのに、男は笑い、立ち上がった。
周囲を見渡す。
地面は自分が落ちてきた衝撃のせいか、他と比べれば凹凸ができていた。
家屋の一つ、屋根の上からはあの最初に攻撃を仕掛けてきた女性が、こちらの様子を伺っている。
鮮血の飛び散った地面。
――丁度いい。
男は足を使って紋様を描く。
大した精密さはいらない。
魔力も必要ない。
代償は自身の命を削ること。男はそれも厭わない。
不穏を感じた女性が結晶を投じた。
それが結晶だということは、逃げる直前に魔力障壁に刺さったときにようやくわかった。
男に避ける術はない。
男に防ぐ術もない。
頭だけは右腕で守るが、全身に結晶が埋め込まれていく。
後ろから、着地をするような音が聞こえてくる。
そうして声が聞こえてくる。
「うわ、生きてるんですか。魔族ってやつは、桁外れな生命力ですね」
「リンっち! やったよ! 多分これで良い子になった〜!」
その人間に、目の前の女性は機嫌良く声を発した。
――惜しかった。本当に……。
最後に描いた魔法陣。それは既に発動していた。
結晶の支配が上書かれる。
「――ヒユアさん! まだですっ!」
「えっ?」
その言葉に疑問の声を挟みながらも、女性は身構える。
男の身体を支配せんと、禍々しい魔力が宿ってくる。
精神力を持ってして、それに対抗をなす。
気を抜いてしまえば、意識を持っていかれそうな、その中で男は持ち堪える。ひたすらに持ち堪えてみせる。
その男にまた、結晶が飛んでくる。
今度こそ、地面を蹴り、身体を動かし、一つ残らず避けきった。
意識が明瞭とし、感覚が冴え渡る。
後ろ。羽を奪い、角を折った人間の方に振り向く。
男はそのまま冷ややかに笑う。
「さぁ、最終ラウンドを始めようじゃあ、ないか……!」
なぜ魔族の人が生きているのか不思議だった。
いや、書いてたら生きるビジョンが浮かんだからなんだ……。