第二話 大切な記憶
家に着くと、顔面蒼白のソフィアが出迎えてくれた。
彼女は事情を深く聞く前に、急いで半死状態の人物の手当てに取り掛かる。
「一体どこから飛び降りれば、こんな怪我すんのよ!」
傷口を塞ぎ、血を拭う。
とても美しい青年だった。
あまりのおびただしい血の量に気を取られ、よく認識出来ていなかったが、その青年は無造作に伸びた綺麗な金の髪をしており、目鼻立ちも驚く程整っている。
「とりあえずは、これで様子見ましょう、って、ルーチェ?」
一通りの手当てを終えたソフィアがルーチェを呼び掛ける。が、彼女はぼんやりと青年を見つめるばかりで、全く反応を示さない。
「金色の...髪...蒼色の瞳...」
それどころか、瞳は急速に虚ろになっていき、ぶつぶつと何かを呟き始める。
「好きな色だったのに...私のせいで...正反対の」
ー赤い、血の色、私の大嫌いな、色
「ルーチェ!」
ソフィアは、彼女の普段は朗らかな優しい表情が、急に人形めいた無機質なものに変わっていくのに恐怖を感じ、一際大きな声で呼び掛ける。
「...あ、れ?」
不意に視界が点滅する。
ーああ、これじゃあ...
ー「今回」も、駄目なのかな...
「っ!...ソフィア?」
突然頭痛に襲われ、ふらついた所をソフィアに支えられる。
「ルーチェ、アンタ顔真っ青よ?急に何か呟き始めるし...」
心配そうにソフィアが尋ねてくる。
呟き始めた、という所に疑問を覚える。全く記憶になかった。
つい先程のことだというのに、何故忘れてしまったのか。
ルーチェは、何かとても懐かしいこと、大事なことを思い出しそうになると激しい頭痛に襲われ、そのことを跡形もなく忘れてしまうのだ。
特にこの青年を見つけた湖では、その症状が頻繁に現れる。
だから何度も何度も訪れ、思い出しては忘れる、という事を繰り返していた。
いつか忘れずに、最後まで思い出すことが出来るのではないかと、僅かな希望を賭けて。
たが、それは一度も叶う事はなく、そして現在。
(湖に居るわけでもないのに、こんなにはっきり症状が出たのは初めてだ...)
原因は、きっとこの青年だ。
何の確証もない。ただ、この青年の金色の髪を、顔を見た途端何故か、「懐かしい」と感じた。
そして、次に感じたのは、
(罪悪、感...?)
懐かしく感じた時などと比ではない程、感情が酷く高ぶった。
それからは、覚えていない。
(もどかしい)
思い出さなければいけない、わかっているのに、
「ごめんソフィア、この人の事任せてもいいかな?少し休みたい」
「ええ、もちろん構わないわよ、...本当に大丈夫?薬とか必要?」
ゆるゆると首を振る。
「ううん、平気。ごめんね、私が責任持って看病しなきゃいけないのに...」
「顔面蒼白の人間に、怪我人を任せとくのも心配だし、気にしなくていいわよ...アンタ、血が苦手だから気分悪くしちゃったんだろうし、尚更ね」
それからはよく覚えていない。
意識を保っているのが限界だったルーチェは、すぐさまベッドに身を投げ、泥のように眠りに落ちた。
その寸前、聞き慣れた声が聞こえた気がした。
ーまた、繰り返しちゃうんだね
***
深い眠りから現実へと引き戻されていく。
(この声は...)
一人はいつも聞いている、彼女の声。そしてもう一人は聞き慣れていない、と思う男性の声だ。
(ソフィアと...)
ーああ、彼かな
起きたんだ、と何故か妙に嬉しい気分になり、ソフィアの激しい恫喝ですら、ビンタされるまで眉一つ動かさずにいたルーチェが、驚く程あっさりと起き上がる。
酷い怪我を負っていた人物が目を覚ました、喜ばしいことだ。
だが、ルーチェが浮き足立つ理由は、それだけではないのだと、彼女はとうとう思い出せなかった。
「だーかーらー!!、まだ安静にしてなさいって言ってんのよ!」
扉を開けた瞬間飛び込んできたのは、ソフィアの怒声だった。
般若の形相で手元のクッションを怪我人の青年に投げつけている。
いきなりの状況を上手く飲み込めていないルーチェは、呆然と一人扉の前で立ち尽くし、言い争う男女を見つめていた。
ソフィアの馬鹿力で投げられた超高速のクッションを寸での所でかわし、物凄い不機嫌そうな顔で彼女にい抜かんばかりの眼光を飛ばす金髪の青年。
閉じられていた瞳は開かれ、蒼い色をしている事がわかった。
凄まじく目つきが悪い。
「あんた、かなり頭が悪いらしいね?僕の話をろくに聞きもしないで、ただわめき散らし、あまつさえ怪我人に攻撃を仕掛けてくるなんて」
彼は綺麗な男性らしいテノールの声で、辛辣に言い放った。
「あなたねぇえ...!!助けてもらった相手に言う台詞!?」
「僕は一言でも、助けて、なんて口にした?そっちが勝手に余計な事して、恩着せがましいこと言わないでくれる?」
「だったら死んでも良かったっての!?」
「うん、そうだよ」
予想外の返しに、ソフィアがピタリと停止する。
そんなソフィアに、青年は嘲笑を浮かべて、
「なに?その間抜け面、予想外だった?」
ソフィアは先程とは違って、少し冷静になる。
「当たり前じゃない、死んでも良いなんて、アンタ根暗ね」
「...とにかく、僕が気に入らないなら殺せば良いよ、別に生に執着はない。どうせいつかは死ぬんだ、それが今日だったってだけの...」
「でも貴方、死にたくないって言ってたよね?」
静かな声、だが有無を言わせないその声が、青年の言葉を阻んだ。
「なに、あんた」
彼は、不機嫌そうにこちらを見る。
「貴方をここまで運んだ人」
「ああ、このお節介女のお仲間か」
お節介女、とはソフィアのことだろう。
「お節介、か...。ねぇ、貴方は本当に、
死んでも良かったの?」
「何回も同じ事を言わせないでくれる?」
ため息と共に、少年は肯定的な言葉を口にする。
「そっか」
ルーチェは悲しげに目を伏せる、そして顔を上げ、
「嘘つき」
表情を変えずに言い放った。
一瞬呆けた青年、だが、我に帰ったようにすぐに嘲笑を浮かべ、
「だから、なにを根拠にそんなこと言って...」
「私が貴方を運んでる途中、貴方はこう言ったんだよ」
「死にたくない、助けてって」
青年の笑みがわかりやすくひきつった。
「信じて貰えないかな?泣いてもいたんだけど...、あと、私が大丈夫だよって語りかけたら、とても安心そうな顔で笑い返してくれて、可愛かったなぁ...今の笑い方よりずっと素敵だったよ?それに...」
「わぁああああああ!!」
ペラペラと体験した出来事を淀みない口調で語っていくルーチェを、青年は大声を上げて彼女の口を塞ぎ、黙らせる。
「あ、ああんた、ちょっと黙れ!」
青年は顔を真っ赤にさせて怒っている。
少女は容易く青年の手をどけると、少し怒ったような、悲しんでいるような表情で、
「じゃあ、もう死んでもいいだなんて言わないで」
「…別に、僕が死のうが生きようが、あんたに関係ないだろ」
突き放すような青年の言葉。しかしルーチェは淡く微笑んで、
「確かに関係ないかもしれないけど、それでも簡単に死んでもいいだなんて言う人を放っておけないよ…お節介かな?」
そんな事を平然と口にする少女が、思っていたよりかなり近くにいた事に今更気付き、青年は顔を背けて、
「変な奴」
と、呟いた。
***
「さっきは悪かったよ」
あの後も、ルーチェの説教染みた言葉が続き完全に疲れきった青年は、小さな声で謝罪した。
「いきなり知らない場所で目が覚めて、気が動転してたみたいだ、失礼な事を言ってしまって、本当に悪かった。...あと...助けてくれた事は、まぁ、感謝して、る」
先程とは打って変わって素直に感謝の言葉を述べる青年。少し声が上擦っている所を見ると、他人に感謝することがあまりなかったのだろう。頬も一段と赤くなっていた。
「妙に素直になったわね...」
ソフィアは逆に警戒心を高めてしまったようだ。
「どういたしまして。でも、さっきみたいな事は、あまり言わない方が良いと思うな、相手をとても不快にさせちゃうから」
笑顔で少し厳しい発言をするルーチェ。もっともな事なので、青年は気まずそうに「うん」と返事をする。
ルーチェ自身も、彼の言葉にはとても腹が立ったのだ。自暴自棄の様に死んでもいいと言う彼を見たら、怒りや悲しみ...罪悪感などの感情が混濁して、とても苦しくなった。
「えっと、じゃあ聞かせて欲しいんだけど」
気を取り直して、ルーチェは目の前の青年に問いかける。
「貴方って、何者?」
青年は、暫し沈黙し、
「僕は、...天使だよ」
そう、答えたのだった。
これはまだ始まりに過ぎない。
「貴方達」は、また同じことを繰り返すんだ。
そして、「私」を同じ数だけ、苦しめる。
不公平だよ。
―「貴方達」は、忘れられるのに...。