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激怒しながら笑う

 翌週の月曜日。出社すると秋原君はすでに書類の束をめくりながら資料作成をしていた。近いうちにクライアントの大きな発表会があると言っていたっけ。

 気まずい気持ちは押し隠して、他の同僚を含めて「おはよう」と声をかけながら通り過ぎて自席に着いた。


 パソコンが立ち上がると、すぐにチャットアプリも起動して、秋原君からランチのお礼メッセージを受信。秋原君の真意をちゃんと問いただしたい衝動にかられる。告白する気なの、どうなの、はっきりしてよ!と思いっきり言葉にできればすっきりするけれども、ここはオフィスだし私はクールな先輩だし、控えるほか選択肢はないのは分かっている。結局、またご飯行こうね、なんて返信をしてしまう。私にもそれなりに女子っぽい所がある事を改めて自覚した。


「佐山さーん、ちょっといいかな?」

 さてメールチェックと思った矢先、私の上司である加山部長に呼ばれた。もちろん女性。部長がいるガラス張りの個室と私の席はジャンプ一回で到達できる距離。

 嫌な予感。朝一番の呼出しは面倒が舞い込むサイン。

「おはようございます。何でしょう?」部屋に入るなり用件を尋ねた。

「ニューヨーク支社長のリチャードが来週の顧客訪問で来日する事になってね。悪いんだけどさ、観光に付き合ってくれない? 浅草行きたいんだって。娘も連れてくるそうよ」

「リチャードの奥さんって日本人ですよね? 横浜出身の。日本にも何度も来たことがあるし、日本語も話せると聞いた事がありますよ」

「うん、そうだけど、どの程度日本語が話せるかは知らないのよね。いつも英語で会話しちゃうし」

 ええ、ええ、そうでしょうね、ユーはバイリンガルですもんね。

「分かりましたけど、いつですか?」

 部長は視線を目の前のノートパソコンに移して早口で言った。「日曜日。お昼前から」

 うわーー。面倒なやつや...

 そこから、私が本来行くべきだけど子どもの習い事の発表があるとか言い訳を聞かされる。ノーチョイス。

「分かりました。浅草ですね。行きます」ーーー会社員は辛いよ。


 その週は、クライアントの新製品発表会が一件あり、イベント自体は無事に成功させる事ができた。達成感で体力的疲労感も心地よかった。金曜日の夜、こんな気分でパソコンの電源を落とす事ができるのは一年の間でもそれほど多くない。自宅で「お疲れ」と一人祝杯をあげる。

 でも、仕事で一つだけ嫌な事があった。発表会でブランドアンバサダーである人気モデルが、カメラの無いところだと横柄な態度でスタッフを顎で使う様に辟易した。実際、こういう光景は何度も見てきたし、自身も体験しては来たが決して慣れる事はない。世の中は反面教師が多すぎて、反面し過ぎるあまりに、どっちが裏と表か判別がつかなくなる人もいるようだ。

 せっかくの充実感が損なわれるのはもったいないので楽しい事を考えるように努めてみれば、自然と秋原君へと思考が向かう。いかんいかんと頭を振って、体を動かす事で雑念を払うべく部屋の掃除に精を出したせいか、自宅が大掃除後並みに綺麗になった。時刻は深夜二時。明日は昼からの予定だしいっか。



「じゃあさ、玲奈。雷門に行ってから、抹茶スイーツを食べて。いや、もんじゃが良いかな。せっかくならランチにウナギでも食べてもらって人力車で浅草を疾走して最後はスカイツリーの展望台。どう?」

「うーん。大体そんな感じにしようと思うけど。ベタだよね」

「じゃあさ、行列のメロンパン屋さんに行ったら良いじゃん」

「いや、なんか、そういう事でもないのよね」

 土曜日のお昼、聖子と梨花さんのお店に来ていた。明日のリチャードさん親子との浅草観光の件を話していた。お店は常連で満席。先週と同じメニューをオーダーし、聖子も終始絶賛していた。

「ベタが良いのよ。観光なんだしさ。特に初来日の娘さんはさ。スカイツリーはマストだよ。あそこなら東京を丸ごと体感できるし」

「はいはい、丸ごとね。ある意味ね。分かった。ベタベタコースで行くよ」

 デザートに出された杏仁豆腐に夢中になっている聖子は、「それが良い」と呟いて再びスプーンを口に運んでいる。前回のクリームブリュレも絶品だったが、杏仁豆腐も最高だった。もっちりとした食感がたまらない。

 お店が落ち着いて、梨花さんがテーブルにやって来ると、聖子はここぞとばかりに会話を始めた。

 聖子が料理を褒めちぎった後、なぜか会話の途中から中目黒で今度飲もうねという話になっていた。何はともあれ、聖子も常連の一員になるだろう。

「平日にも来ちゃいますね。予約しておいた方が良いですよね?」聖子は私よりも常連になりそうだ...

「ごめんね、玲奈、大事なデートスポットなのに。私も通っちゃうからね」ニヤニヤ顏でわざと意地悪な事を言って、私と梨花さん両方のリアクションを待っている。悪い奴だ。

「直樹君が気になる人を連れて来てくれる事は嬉しいですけどね」

 おっと、いきなり強烈なストレートパンチ...

「いや、なんの話だか...」

「何よ、とぼけちゃって。気になってるくせに」審判も試合に加わる気だ。ルール無用って事ね。

「へえー。直樹君は良い子ですよ。彼は純粋で優しくて」

「でも、梨花さんの事が好きだったはずですよ」秋原君、ごめんね、言っちゃった...

 梨花さんは寂しげな顔で「ええ、そうだったと思います」とポツリと答えた。

「私は良い女じゃないですし、直樹君には相応しくない過去もあります。でも、直樹君の中では良い女でいたくて、嫌いになって欲しくなくて、彼の気持ちには応えるつもりはなかったです」

「アルコールがいる話のようですね」と訳知り顔の聖子。

「アルコール入れちゃったら明日までしゃべり通しますよ。でも約束してください。一緒に飲みに行ってくれたら話しますので聞いてください」

 すると、聖子はおかしなイントネーションの関西弁で「よしゃ、私に任しとき。おもろい事言わんとちゃんと聞いたるで」と場を和ました。聞き上手は確かだし、聖子に飲みの件は委ねる。


 お腹が満たされて、お互い眠くなってしまった私たちは、早々に帰宅することにした。「何かあったら任しとき」と言ってタクシーに乗り込んだ聖子を見送った後、摂取カロリーが気になった私は、徒歩で自宅への帰路に着いた。家に帰って昼寝をしてしまえば、効果は薄れることも理解はしているつもりだ。

 少し遠回りで、三十分ほどで自宅に戻るなり部屋着に着替えてベットに寝転がった。スマホでメールをチェックしていると、リチャードさんからメッセージが一件。

「Hi Reina, I have just arrived at the Narita Airport. See you at the Kaminari-mon gate at 11:30pm, tommorow!」


 英語で来た。英語でメール来たんですけど... 日本語ペラペラっていう話は? 明日は英会話?

 大学時代にアメリカへ1年留学していた経験もあるし、日常業務でも外資系クライアントでは英語は必須。そのため、英語は決して苦手ではないが、観光となるとハードルが高い。

 取り急ぎ、「分かりました。楽しみにしています」的な返信をしてふと思った。雷門に自力でいけるんじゃんと考えているうちに眠ってしまった。夜中に一度目覚めた後、お茶漬けをさらさらとかきこんだらすぐにまた睡魔が襲ってきた。



 翌日、約束の時間より早めに雷門に到着した。さすが東京の観光名所だけあり観光客でごった返している。数分間立っているだけで、すでに10名ほどの記念写真に私が登場してしまっている。

 梅雨も終わって本格的な夏が到来し、照りつける太陽と蒸し暑さに辟易する。おまけに私以外の観光客の笑顔も眩しい。日傘は自粛して持参しなかったが、その分丁寧に塗った日焼け止めの効果が心配になってくる。今日はたくさん歩くことを想定して、白のTシャツ、ジーンズ、スニーカー、ベージュレザーのリュックのルックスで来たが、ジーンズが暑い。蒸れる。

 外国人観光客が多く、様々な国の言語での会話が聞こえてくる。見つけやすいように、リチャードさんの写真は予めSNSで確認済みだが、五十歳前後の体の大きめのおじさんだった。ちょび髭が印象的で、人懐っこそうな笑顔の写真だった。なんとなく大手フライドチキンチェーン創業者に似ている。


 集合時間の五分前になった頃、一際大きな声で「This is the Kaminari-mon!」と聞こえてきたので何気なく見やると、リチャードさんがいた。横顔しか見えないが写真の人物だとすぐ分かった。門の方に向かいながら指を指している。隣には美人の二十歳ぐらいの女の子。

 あれが娘? ライトブラウンの長い髪、ジーンズのホットパンツからすらりと伸びた白い足、大きな瞳。背は百七十センチほど。私と同じくスニーカーなのにヒールを履いているかのようなスタイル。昔よく遊んだ人形の実写版だ。


「ミスター リチャード!」

 追いかけながら声をかけると、リチャードさんと女の子が私の方へ振り返った。そして私は仰天した。

 二人とも白地のTシャツを着ているのだが、胸のあたりにでかでかと筆文字で「激怒」の二文字。

 単にクールな漢字のTシャツだからという理由で着用しているにせよ、言葉の意味が分かる方としては気になって仕方がない。

 戸惑っている間に、リチャードさん達は「ハーイ」とハイテンションでこちらへやってきた。


「玲奈さん、はじめまして。リチャードです!。今日はお休みのところありがとうございますっ!」テンションが妙に高い。コメディ映画に必ず出てくる脇役のようだ。

 自分の名前を言う時だけ、英語ネイティブの発音だったが、日本語の部分は綺麗な標準語。

「あっ、ハロー、あ、いや、初めまして、玲奈です。ナイス・トゥー・ミーチュー」思考が定まらず言語がごちゃまぜになった。

 すっと差し出されたリチャードさんの右手と握手をしている恰好ではあるが、次に発する言葉が見つからない。

「こちら、娘のエレナです。この度は卒業旅行で来日しました」

「はじめまして。エレナです。今日はよろしくお願いします」ペコリと笑顔で頭を下げる。可愛い。リチャードさんと比べると多少の訛りはあるものの、流暢な日本語だった。

「リチャードさんとエレナさん、お二人とも日本語上手ですね」

「リチャードとエレナと呼んでくださーい!」

「あっ、はい。えっと、じゃあ、私もレイナと呼んでください。リチャードとエレナは日本語がパーフェクトですね」

「センキュー! 私は日本のアニメが大好きで、高校生の時から辞書がなくても読めるように一生懸命勉強しました。大学生になってからは、何度も日本に旅行して、たくさんコミュニケーションをして会話の勉強もしました。妻が日本人ですから、娘には日本語の勉強も小さい頃からさせてきました。漢字は苦手ですけど会話はパーフェクトですっ!」当たり前だが、英単語の発音が完璧。英語の方が得意なバイリンガルとの会話のようだ。


 雷門を抜けた私達は、日本でもっとも古くからある商店街という仲見世商店街を歩いていた。活気溢れる通りには、様々なお土産や軽食が販売されており、呼び込みの声があちこちから聞こえてくる。

「それほど日本語がお上手で、何度も来日されているなら私の観光ガイドは不要でしたね」

「もともと、観光はエレナと二人でする予定でした。何度か断ってもヒトミがスタッフを行かせると言うので最後は甘えました」

 ヒトミ... 加山部長め。端から自分が同行するつもりがなかったのかよ。

「レイナさん、ありがとうございます。大切なウィークエンドに来て頂きとても幸せです」妙に堅い言葉使いのエレナをじっと見ていると、女ながらに見惚れてしまう。ハーフタレント・モデルブームのご時世にあって、エレナがメディアに出れば瞬く間に人気に火が付きそうだ。

「妻の分もお祈りするために、ごえーんがある五円玉いっぱい持ってきましたよ。ほら」とリチャードがポケットから取り出した五円玉の量は、大きな手でも溢れそうなぐらいで、恐らく百円分はある。

「Hey, daddy. Look at that! it looks so yummy! レイナ、これ美味しそうですね」

 エレナが人形焼店で立ち止まり、はと、五重塔や提灯など、様々に模られた人形焼が並んだショーケースを楽しげに眺めている。

「じゃあ、ここは私が買いますね」素直に買ってあげたいと思った。

「ありがとうございます。感謝致します」と礼を言って深くお辞儀をするエレナが可愛くて、でもなぜだか笑ってしまう。


 大きな声で「おいしい!」と親子で仲良く人形焼を口に運ぶ姿は、微笑ましくもあり、見ている私まで楽しい気分にさせる。

 出会った時から気にしないように努めてきた例のTシャツ。激怒の文字とこれほどギャップのある人はなかなか見かけられるものではない。後でどこで買ったのか尋ねてみたい。

「レイナも食べるー?」リチャードさんから手渡された人形焼が入った紙袋の中身を確認すると、なんと残り一個。底にポツンとハト型の人形焼。二十個購入したはずが...

「レイナ、誠に申し訳ございません。美味しいのでたくさん食べてしまいました」申し訳なさそうなエレナの顔。相反するよう満面の笑みで「さあ食え」と言うように親指を突き上げるリチャード。我慢できずに大爆笑してしまった。


 頻繁に足を止めては歓喜する親子に付き合っていると、浅草寺に着いたのはそれから四十分後。観光が始まって一時間、終始笑っていたからお腹がすでに筋肉痛気味。

 いざ、お賽銭の場面で、意外にもリチャードさんは五円玉を三枚だけ賽銭箱に投げ入れた。エレナは一枚。長い列で待つ間に他の参拝客を見習っていたから作法は様になっている。

「あんなにいっぱい五円玉を用意していたのに、三枚だけで良いんですか?」

「本当はたくさんお願いしたい事があったけれども、三つだけにしました。妻とエレナと、そしてレイナの幸せをお祈りしました」

「私も、ですか。ありがとうございます」早く昇給しますようにと祈った自分を少し恥じた。自分本位な神頼みは間違ってはいない。間違ってはいないが...

「美味しいもの、たくさん食べたいというお祈りを我慢しただけです」リチャードはおどけた顔で、ポンッとお腹を叩いた。「肥満はいけません」と横からエレナもなじるようにツッコミを入れた。

 リチャードはそっと私の肩に手を置いて言った。

「レイナ。人生は長い。とても長い。辛い事しかないと思う日々もある。泣いてばかりの毎日もある。私はレイナが一日でも多くの日々を笑顔で入られますようにと神様にお祈りしました」

 ふと、先日の父の日にポロシャツを実家に送っただけで済ましてしまった事を思い出した。母とは時々電話で話すが、最後に父と五分以上会話したのはいつの事だったろうか。来年で父が定年を迎える。それをきっかけに温泉旅行をプレゼントしようと思った。

「レイナは、笑顔が素敵です。綺麗だと思います。もっと笑ってください」

 エレナの言葉も嬉しかった。表面的な部分を褒めたお世辞ではなく、心の内側にすっと響く、そんな風に思えた。


 正午も過ぎて、お腹も空いただろうと思い、予約していた和食料理屋へと移動した。実は、聖子にあれこれと観光プランの相談をしておきながら、ちゃっかり準備は進めていた。方針は変えるつもりはないけれども第三者に一応聞いてみるだけ聞いてみたい時ってあるものだ。

 選んだお店は、浅草と鰻で検索すればトップにヒットするお店。入店待ちの列は外まで続き、汗を拭いながら待つ人々の長蛇の列。予約しておいて本当に良かった。タレが焦げる匂いが店先に漂い食欲をそそる。この美味しそうな香りが、炎天下にあって気持ちがめげそうな客を繋ぎとめているのだろう。それほど良いです香り。

 クーラーで涼しい店内。驚いたことに個室に案内された。畳張りの掘りごたつ式の室内が珍しかったらしく、エレナがスマートフォンで撮影をしている。リチャードは横から英語で何やら畳の説明をしている。店員さんが冷たいおしぼりを運んで来た時も「こんなサービスはアメリカにございません」と言ってエレナはおしぼりの写真も撮っていた。

 せっかくだからと私はうな重の特上を注文した。経費で落ちない可能性が高いが、この親子が喜んでくれるならそれでいい。


 料理が運ばれてくるまでの間、いつの間にか和風建築様式にまで話が飛躍したリチャードの説明をエレナは真剣に耳を傾けていた。聞けばリチャードは大学で建築学を専攻し、特に和風建築に造詣が深いそうだ。アニメ目的で来日したついでに訪問した日本各地で目にした日本家屋に感銘を受けたことがきっかけだという。

 しばらくしてうな重が配膳されると、エレナはその漆塗りの重箱にも歓喜していた。「アクセサリーを入れる箱に良いですね」という感想に、なるほど確かにと思った。

「頂きます」と声を合わせて食べ始めると、エレナは一口目から眉間に皺を寄せて何かを思案している様子。口に合わなかったのかなと思っていると、「レイナ、鰻は輸入できますか?」と聞いてきた。

「えっと、どうだろう。分からないな」

「鰻を今まで食べなかった事を後悔しています。私は感動しています。アメリカでも鰻を食べたいです」

「アメリカでも鰻は食べられるけども、やっぱり日本で食べるのが美味しいよ」と日本通のリチャードが応じる。

「それでは私は日本に留学します。鰻や鰻のようにとても美味しい食べ物をたくさん食べます」

「うん。いいよ。お父さんは応援するよ。アメリカに帰ったら留学の準備をしよう」

「えっ、あのそんな簡単に決めても良いのですか?」

「ノー・プロブレム。なぜなら、日本にはレイナもいるからね」

「レイナ、ご支援よろしくお願いします」ペコリとエレナは頭を下げる。

 あのー、私への期待値の高さにすでに挫けそうなんですが...


 一時間ほど愉快な昼食の時間を過ごした。色々な話を聞いた。リチャードファミリーの思い出からエレナの学校生活、ニューヨークで流行っているスイーツ店の事まで。エレナはこう見えて十年間、街の空手教室に通っているそうだ。男子諸君は迂闊にちょっかいは出せまい。

 そして、昼食後、いよいよ人力車の時間と相成りました... 観光とはいえど、大衆の面前で疾走する様を想像するだけで恥ずかしい。自意識過剰と言えばそれまでだが、どうも注目されるのは居心地が悪い。

 リチャード親子に提案する前から、人力車が通りを走る姿を見たエレナが「絶対に乗車したいです」とキラキラ光る瞳で私を見つめてきた。この場面で誰がノーと言えましょうか。私が男なら誤ってプロポーズしてしまっているほどの威力だ。ここは覚悟を決めるしかない。

 実は、二人に出会ってからこの時間までの間に、周りから幾度となく「激怒」という呟きが聞こえてきた。アロハシャツとウクレレ姿が似合うに違いない、見るからに陽気なリチャードと昨今メディアに登場するハーフモデルよりも美形のエレナ。二人が御揃いの激怒Tシャツを着ていれば、そりゃ誰だって気になる。私は気になり過ぎて未だに聞けずじまいだ。

 さて、浅草の街がこれからきっと「激怒」の呟きで満たされることとなる。


 体の大きなリチャードが一人で乗車。私とエレナは別の人力車に乗り、浅草の街を走り抜けていく。猥雑な下町の光景も、遠くに見えるビル群も全て新鮮に感じられる。生ぬるい夏の風も汗ばむ肌に吹けば気持ちが良い。乗ってしまえば何てことはなかった。人々の目線は気にならない。

 前を行くリチャードは、しきりに俥夫しゃふのお兄さんにあれこれ聞いている。そのうち浅草うんちくも尽きてしまうだろう。可哀そうに。エレナはというと、まるで多感な子どものように「あの建物何ですか?」「あのお店は何を売っていますか?」と尋ねてくる。私が答えられたのは某ビール会社本社の隣にある金色の雲の形をしたオブジェについてぐらい。単に「炎をイメージしたデザインよ」とだけ。だって、グーグル先生にこっそり聞いている間に通り過ぎてしまうから...

「レイナ! 人力車、楽しいですね!」

「うん、楽しいね!初めて乗ったけど、もっと早く乗れば良かったなあ」

「レイナはもったいないです。東京には美味しい食べ物もあります。面白い場所もたくさんあります。楽しむことが必要不可欠です」

「必要不可欠ね。ふふっ。分かった! じゃあ、たくさん楽しむよ」

「来年には私が日本に来ますから、一緒に楽しめることを期待しております」

「ずっと思ってたんだけど、エレナの日本語堅いよー。もっとカジュアルに話しても良いよ」

「カジュアルとは。例えば、ナンデヤネン、とかでしょうか?」

「あはははっ。ごめん。ちょっと待って。ふふっ」堪らずここで深呼吸。

「いや、なんでやねんでも間違ってないけど、それは関西弁よ」

「カンサイベン?」

「Kansai Dialectよ」

「おー方言ですね。知りませんでした。ナンデヤネンは関西弁。勉強になります。ありがとうございます」

「だから、もっとカジュアルにだってー」

「オオキニ。ナンデヤネン。ヤメサセテモラウワは知っています」指折り数えながら自慢げに知っている関西弁を挙げていくエレナがおかしくて仕方ない。

「ちょっと待って」笑いがこみあげてお腹が痛い。

 エレナは日本人である母親から日本語を教わったそうで、どうやら敬語表現のみで教え込んだようだ。敬語を話すエレナは正直かわいいのだが。


 人力車を存分に堪能した後は、東京スカイツリー。快晴だったことが幸いし、地上四五〇メートルの空中回廊からは富士山を拝むことができた。リチャードはエレナに「富士山は日本の心だ!」と力説していた。するとエレナが「富士山は日本の真ん中にあるのですね」と感心した様子。間違ってはないけど、意味が違う...

 日頃、見上げるばかりのビルに埋もれて生きているせいか、妙に優越感がこみ上げてくる。時に世の中を見下ろすことも息抜きになるのか。

 無意識にスマホを取り出しネットで「山ガール 初心者」と検索しようとする直前に我に返って、一人声を押し殺して笑った。今日の私はいつもと違う。少し変だけどいい意味で、だ。

 眼下に広がる都会を睥睨(へいげい)して、「やったるで!」なんていきがっちゃいそう。


 リチャードとエレナの二人はすでに空中回廊を三周目。二周目までは付き合ったが、後は自由行動としていた。

 隣にいるカップルが、過去にデートで巡った街々の思い出話をしていた。おかげで告白から初デート、初キスをした公園の場所の事まで耳に入ってくる。

 気付けば、まだ私に彼氏がいた頃を思い出していた。口下手で大人しくて優しくて。その全てが大好きだったはずなのに、慣れてしまうことでその想いも次第に薄れては色褪せて、最後には私から別れの言葉を口にした。冷めたからだったのか、飽きたからだったのか。今では思い出せない。

 別れた事を後悔したことはない。でも、別れた時の私から何が変わったのだろうか。あれからずっと恋愛から疎遠になっている。

「レイナー、どうして難しい顔をしているのですか? ナンデヤネン?」エレナが心配げに私の手を取って両手で包み込んだ。もう一周してきたのか。

「東京中眺めている間に、昔行った場所やそこでの思い出をね、ちょっとだけ振り返ってたのよ」

「ボーイフレンドの事ですね。そして悲しい思い出でしたね」そしてエレナは、私と肩を並べるように立つと、ガラス越しに広がる青々とした都会の空を見上げた。

「どうして分かったの?」

「悲しいのに少しだけ笑ってました。女性がそんな顔をする時は...」そう、失恋の思い出に浸っている時。楽しかった出来事だけが切り出された日々を振り返っていた時。そして、もう戻らない過去の出来事だと再認識する時。

「私が留学している間は、一緒に住んであげてもいいですよ。掃除も料理も得意です」

「えー。嬉しいー。エレナみたいな妹だったら嬉しいなー」なぜだか涙が出そうになる。

 エレナを妹ですと紹介する姿を想像してみたら、無理があり過ぎて笑える。聖子は絶対に馬鹿にする。自意識過剰だよって。

 エレナは実年齢よりもずっと大人だ。さり気なく私を気遣ってくれている。一緒に住む事はないと思うが、留学中は本当の姉のように頼れる存在であろうと誓った。数時間の付き合いだけで人生の出会いをしたようなきがする。

 容姿も、スタイルも、立ち姿も、そしてその内面も美しい。すぐ誰かと競い合い、嫉妬するような口さがない女ですら無条件降伏するだろう。唯一突っ込むべきは例の激怒Tシャツぐらいか。

「どうしましたか?」

 まずい、ファッションチェック中の胡散臭いファッション評論家みたいな顔になってたはず。顎に手をあてながらしげしげとエレナを眺めてしまった。フィクションのような人が現実にはいると知った。

「エレナ、ところでそのTシャツはどこで買ったの?」遂に尋ねる時が来た。

「これですか?」とエレナは胸元をつまむ。

「日本に来る前にインターネットで色々と調べていたら、話題になっているTシャツだと紹介されていました。リチャードに画像を見せたら欲しいと言ったので通信販売しました」

 流行っている? そんなアホな...てっきり竹刀やら変なキーホルダーを売る土産物屋で買ったものと思っていた。

「激怒って書いてるよ?」

「はい。存じてます」

「でも、二人は激怒とは縁遠いと思うけど...」

「仕事をしている時は分かりませんが、リチャードはいつも誰かを笑わせる事が大好きですし、私も激怒の経験はないです。マミーは時々リチャードに怒りますけれど」

「だからすごくそのTシャツを来ている二人が違和感あったのよ」

「漢字は恰好いいですよ。書道のようです」やはりそこか、着用ポイントは。

「リチャードがTシャツが届いてから言いました。これで日本で会う人々をハッピーにすると」

 魔法のTシャツ... エレナにまさに今が"なんでやねん"の使い時と教えてあげたい。しかし、着ている本人に言えやしない。

「見てください」エレナが指さす方を見やると、二十メートルほど先にいるリチャードが、小さな男の子を肩車して写真撮影に興じている。私よりも若そうな両親も嬉々としてシャッターを切る様が遠くからでも見て取れる。

 まるでピエロのようにおどけて見せるリチャード。その周りの笑顔の人々。Tシャツの魔法とは関係ないようにしか見えないが...

「レイナにも分かります。今日でなくても。ハッピーの意味が」そう言ってウインクしたエレナが可愛くて、もう一度ウインクを注文して私も写真を撮った。


「ヘーイ、体重が二キロは減ってしまったよ」リチャードの額には汗が浮かび、顔も少し火照ったように赤い。

「良いダイエットでしたね」

「おじさん、ありがとうー」「ありがとうございました」先ほどの親子が手を振りながら通り過ぎて行った。リチャードも「バイバーイ」手を振り返した。

 見送りを済ますなり「レイナ、素晴らしいエクササイズをしたから、スイーツが食べたいです」とリチャード。

「私も食べたいです!特にグリーンティーのスイーツです」ナイスアイデアと表情で表現するエレナ。

 という事で、抹茶スイーツを求めて下界へと下ることにした。

 浅草への道のりを再び辿る間、笑い合いながら私の前を行く親子の背中を見つめていた。リチャードは英語で話していても相変わらずテンションは高い。日本語を話す時はおしとやかなエレナも、手を振り回しながら体全体で会話する姿にティーンエイジャーらしさを見つけたような気がして、微笑ましい気持ちになった。

 いつか、アメリカでこうして三人で歩いてみたい。


 抹茶スイーツの有名店に着く前に、テレビでも度々取り上げられるメロンパンとたい焼きも三つずつ買い、抹茶スイーツ店前の行列に並ぶ間に完食してしまった。リチャードが「太っちゃう」と女子のような事を言ってエレナと私を笑わせた。内心、本日の摂取カロリーが気になって仕方がないのだが...


 三十分ほど待って入店することができた。満腹気味だった私は小ぶりなあんみつを頼んだが、向かいに座る二人は抹茶パフェを迷わず注文した。他のお客の多くがこのパフェを食べているが、結構サイズ大き目。中には二人で一つをシャアしている人々もいるぐらいだ。

 運ばれてきたパフェを一通り写真に収めるのはもはやお約束。リチャードとエレナは食べ始めると、アップテンポで黙々とスプーンを運び続けた。「これで計画していた行程も終了だ」なんて考えながら、じーっと二人を眺めていた。

 二人は同時に食べるのを止めたかと思うと、これまた同じタイミングで熱々の緑茶を啜る。片手を湯呑みに添える姿まで同じ。親子だなーと感心していると、二人は再びパフェを無言で食べ始めた。

 五分後、二人が一緒に手を合わせて「ごちそうさまでした」と食べ終えるまで、結局ほとんど会話のないままだった。

「抹茶は最高ですね。とても美味しいのでアメリカでも食べたいです」そして鰻を食べた時と同じく輸入したいという会話をリチャードと始めた。さすがのリチャードもニューヨークで抹茶を食べさせる店は知らないらしい。


「エレナは明日、原宿に一人で行けそう?」来日したばかりと言うのに、エレナは明後日には帰国する。明日は若年層の聖地である原宿界隈を散策するそうだ。

「大丈夫です。迷った場合、スマートフォンの地図で対処致します」言葉だけ聞いていると万全に思えてしまうので、「そうね、大丈夫ね」と応じてしまいそうになる。しかし、日本語が達者とはいえ初めて国。心配だ。姉としては心配だ。でも、エレナの姉としてって聞こえが良い。いや、違う、本題からずれた...

「日本のポップカルチャーに触れてみたいですし、クレープも食べます。その前に明治神宮に参拝に行きます。ちゃんと留学できるようにお祈りします」参拝は今日覚えたての日本語だ。

「エレナならどんな大学にだって入れるよ。日本に来たら人気者になっちゃうからお姉ちゃんは心配だよ」我慢できなかった。姉と言った時のエレナのリアクションが見たい衝動に抗うことができなかった。

「レイナお姉さんとたくさんの思い出作ることが楽しみです」

「うふふ。レイナお姉さんだなんて」欲しい言葉を欲しい表情でくれるエレナ。"空気を読む"は決して日本人だけのお作法ではない。今日は学びが多い。

「エレナとレイナが一緒に暮らすなら、お父さんも安心だっ!」突然割って入るリチャード。共同生活は、現実的には色々とクリアすべき課題もあるけれど、気持ちは一緒に住む気になりつつある。

「そうですよ、心配しなくても大丈夫です。変な人がいたら空手です」そう言ってシュッと正拳突きを繰り出した。構えが様になっている。そのままファイティングポーズ姿を撮影。姉とは言いながら、アイドルオタクのようになりつつある私。

「じゃあさ、エレナが受験を無事に終えて、入学が決まったら一緒に部屋を探そうね」

「そうしましょうね、レイナ」


 さすがのリチャード親子も満腹な様子で、この店を出た後は六本木のホテルに帰って過ごすことになっている。小腹が空いたらそこは週末の六本木。どうにかなる。

 分かれてしまう前にリチャードが来ている"魔法のTシャツ"については尋ねておかなくてはならない。

「リチャード、その激怒って書いているTシャツで皆をハッピーにするっておっしゃっていたそうですが、どういう事ですか?」

「おー、このおしゃれなTシャツが気になりますかー?」

「んっ、ええ、そうですね... 気になりますね」

「気になりますかーっ?」

「―――はい、気になります」あああああああっ!

「残念ですが、今日は教えません」なんでやねんっ!!

 胸のあたりが熱くなってきた。決してイライラはしていない。

「今日は私達二人と過ごしてどうでしたか?」

「えっ?」

 唐突な会話の流れを無視した質問に、素直に「楽しかったです」と応じた。即答できたのは本心からそう思っているから。

 リチャード親子との出会いの機会をくれた事については、入社以来、初めてと言っていいぐらい加山部長に感謝した。最初で最後かも。

「なら大丈夫です。きっと魔法にかかっていますから」ううっ...気になる。

 実はサブリミナル効果を狙った仕様になっているのかも、と疑っては角度を変えて激怒の二文字を眺めてみるものの変化なし。

「さてと、では帰ることにします」

「じゃ、じゃあ会計先にしてくるのでゆっくり準備しててください」

 気になって仕方がない自分の思念を席に置き去りにするように、そそくさと会計へと向かった。


 一足先に店を出て待っていると、二人がディズニー映画「魔法にかけられて」の曲「Ever Ever After」を口ずさみながら外に出てくるなり、軽いステップでダンスをし始めた。私をからかっているのは分かっているが、二人とも歌がうまいのがまた悔しい。

 陽気な二人に感化されてか、店先で並ぶ大勢が笑顔で手をたたき出した。さらにつられて海外からの旅行者と思しきカップルまでも踊りだした。これはフラッシュモブでも始まるのか。

 他人のふりをしようとしている私をリチャードが目ざとく見つけるなり、手を掴んで社交ダンス風のステップに誘い込んだ。周りの空気的に固辞できず、ぎこちなくステップを合わせた。社交ダンスなんて中学校の体育祭以来だ。


 時間にしては数分程度。浅草の街中で突如始まったパフォーマンスは、観客の拍手の中、成功裏に終了した...な訳あるかっと突っ込むところかもしれないけども、意外と周りの人は皆一様に笑顔で楽しそうな表情をしていたのだ。私も、例外ではない。


「レイナ、今日はありがとう」

「こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました」

「また三人で、こうやってお会いましょう。レイナお姉さん、時々連絡しますので待っててください」

「うん、待ってる。待ってるからね」

 空車のタクシーを止め、二人が乗り込む前に別れの挨拶をした。

 走り去るタクシーの後部座席から手を振る二人。半日程度、一緒の時間を過ごしただけなのに泣きそう。正確にはちょっとだけ泣いてしまった。

 帰りの電車で、今日撮ったばかりの写真を見てはニヤニヤしていたからか、近くにいた男性が怪訝そうな眼差しを向けてきた。私にはとても良い事があったのだ、表情に出てしまうのは仕方がないのだ。

























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