チャプター 05:「晩餐会」
「ううん…………」
徐々に頭が冴えて行き、まどろみの中から抜け出すような感覚で、知子は静かに目を開
いた。目に映ったのは、二日ぶりに見る千歳のラボの天井だった。
眩暈が起こらないよう静かに上体を起こすと、同じように身体を起こした茅沙達と目が
合う。
そして知子は、自分の身体に違和感を感じないことに(・・・・・・・・・・・)疑問を
持った。
「あれ? 何だか、思ったより身体が重くないねー……」
知子の違和感を代弁するかのように、茅沙が呟いた。そしてちづるも、同じような感想
を持っているのか、小さく、何度も首肯する。丸二日間も眠っていたなら、身体の各部が
凝り固まっていても不思議ではなく、その感覚はまるで、ダイブを開始した時から時間が
止まっていたかのように感じられた。
しかしその中で、開発者である千歳だけは、特に疑問も感じていないのか何事も無かっ
たかのようにカプセルから出ていた。説明が無い事に知子は眉をひそめるも、今のところ
身体的な異常を感じていない事から、食事や入浴を優先させようと頭を切り替える。
「まあ、いいわ。とにかく、お風呂と食事にしましょうか。女子が何日もお風呂に入って
ないなんてありえないわ…………ちづると千歳は、うちで食べるわよね?」
千歳とちづるの両親から食費を貰っている知子は、当たり前のように夕食へ誘う。
そして、茅沙はその様に頬を膨らませてた。
「ねえねえちいちゃん。私も、今日は夜ご飯食べてくるって言っちゃったのに」
ふと、拗ねている茅沙の顔を見た知子は、苦笑しながら後頭部を撫でた。茅沙は箱入り
娘で外食すらしないような家庭に育っていたが、茅沙がなついている知子だけは信頼され
ていた。知子は、そこまで自分を好いてくれる茅沙やちづる、千歳を無下にできなかっ
た。知子が黙考している間に、知子を待たずちづると千歳は先に部屋から退出して行く。
「ああ、わかった。今晩は茅沙も一緒にご飯食べよっか。でも、二日も連絡してないとま
ずいから、ちゃんと家に連絡しておきなさいよ?」
「うんっ、わかった!」
何の濁りも無い、満面の笑みで頷く茅沙に、知子は僅かに顔を赤らめた。そして、それ
に気づかれないよう、慌てて移動を始める。
「はあ…………この空気、久しぶりだな」
千歳の超がつく程巨大な家から出た知子は、ねっとりとした夏の空気に頬を緩めた。
仮想世界へダイブしていたのはたった二日だが、夏独特の土臭さや湿り気、そして、ダ
イブするまで気にも留めなかった、現代社会ならではの香料の匂いが妙に懐かしく感じら
れた。
「ああ、もう。千歳とちづるったら……」
知子の住む家のドアを開けると、既に二人の靴が玄関に並べられていた。しかし、二人
も知子が怖いのか、きちんと踵を揃えて並べられており、知子もそれ以上怒ることも無く、
自宅へ上がった。無論、自分の靴もきちんと揃えて。
「やっぱり…………駄目とは言わないけど、いくら何でもくつろぎ過ぎじゃないの?」
二人が居るであろうと知子があたりを付けた居間には、案の定、既に千歳とちづるが居
た。ちづるはちゃぶ台に頬杖をついてテレビを見ており、千歳に至っては、まるで中年オ
ヤジのように横たわり、肘をついてテレビを見ていた。二人が見ていたのは、今では珍し
い、宇宙人やUFOと言ったものを取り上げた、オカルト番組である。
そして、知子がキッチンへ向かっても動こうとしない二人に、知子が苦言を呈する。
「ねえ、二人とも。働かざるもの食うべからず、なんだからね! 千歳はお風呂の掃除し
て沸かしておいて。ちづるは、私と一緒に夕食の支度!」
「はい! やります!」
飛び上がるように立ったちづるは、右手を大げさに上げて知子の指示に従う意志を示し
た。そして千歳は、自身をじっと見ていた知子を見つめ返すと、一拍置いて無言で首肯し、
浴室へと移動を始めた。
研究者肌の千歳は、自身の専門分野以外はずぼらであり、基本的に面倒くさがり屋であ
る事から、指示を素直に聞いた事に知子は感心する。
「…………さて、やりますか」
「はい!」
キッチンへ向かう知子と、それを追いかけるちづる。
二日ぶりに立った自宅のキッチンで一番最初に確認する場所は、勿論冷蔵庫だった。
冷房の電源は入っているものの、室内は日本の夏らしい、生暖かい空気が未だに残って
いる。冷蔵庫を開けると、庫内からは白い冷気が垂れ落ちた。
食材を幾つか確認した知子は、眉根を寄せて唸る。
「ううん…………結構期限がギリギリのばっかりね。勿体ないし、全部食べちゃおっか」
知子の意見に、ちづるは満面の笑みで何度も頷く。そして知子は、自分を見て何がそこ
まで楽しいのか、目を細めて訝しげにちづるを見た。
「今日は、オムレツとシーザーサラダ、豚の角煮、シーフードピラフを作るわ。ちづるは、
サラダの盛りつけと豚肉の切り分け、お願いできる?」
「了解よ、ちいちゃん」
食材を手渡したちづるは、慣れた手つきで野菜を洗い始めた。四人の中で最も料理が得
意なのは知子だが、次点はちづるだった。日本、ひいては、現代社会であまり馴染みの無
い傭兵家業。戦ってばかりのイメージとは裏腹に、ちづるはサバイバル術や調理のノウハ
ウが非常に重要な仕事であると話していた。そして知子も、ちづるが調理に対して充分な
知識と技術を備えている事を知っているだけに、四人揃った晩餐会では、決まってちづる
を料理の相棒として指名していたのである。
「ええっと。卵は全部同じ期限かな…………」
その時だった。
卵のパックに印刷された消費期限と、デジタルカレンダーを見比べた知子は、その表示
が自身の認識と全く違っている事に凍り付く。
終業式から日付が変わっていない(・・・・・・・・・・・・・・・)。
知子は暫く固まっていたが、風呂掃除から戻ってきた千歳が目に映るや、未だ混乱する
頭で状況を問いただす。
「ね、ねえ千歳! 私達、確かに仮想世界に二日間居たのよね?! だったら、どうして
家のカレンダーが進んでないの?」
錯乱気味に、まくし立てるような口調で問う知子だが、千歳は相変わらず鉄仮面のよう
に表情を変えず、淡々と説明を始める。
「確かに、私達は仮想世界内で約二日間…………時間にして、四二時間の時を過ごした。
しかし、現実世界では、四十二分しか経過していない」
「な、何よそれ……どういう事なの?」
「脳の送受信速度は、我々が体感する時間より遙かに高速。今の設定では最低速度でも通
常体感時間の六十倍の速度で通信が行われている。次回からは通常設定の百二十倍に移行
し、仮想世界の一時間が、現実世界の三十秒に相当するようになる」
「な、なるほど…………」
要点が伝わったと判断したのか、千歳は説明の締めに入る。
「研究して行く課程で、この仕様は仕方の無いものだった。しかし、現実世界に身体を持
つ私達にとっては好都合。寝たきりで運転する性質上、現実時間で三時間に一回は、スト
レッチ休憩を入れる計画。ちいちゃんに指摘されないよう、健康管理も折り込み済み」
「三時間………………百二十倍になっているなら…………半月分、よね? 相変わらず、
非常識な事を平然とやってくれるわね、千歳は。本当に、そんなスピードで身体に害があ
ったりしないんでしょうね?」
「大丈夫。元々備わっている能力を使っているだけだから」
知子は呆れ半分に答えたが、千歳は説明責任を果たしたと判断したのか、居間へ戻ると、
横たわってテレビを見始める。
「あのー………………ちいちゃん。あとは、どうすればいい?」
様子をうかがっていたのか、話を聞いていたのか、ちづるが知子へ声を掛けてきた。寝
転がる千歳に、本当に安全なのか細に入り聞きたい所の知子も、調理中にキッチンを離れ
るわけには行かず、直ぐにちづるの立つ場所へ戻った。
「ちづる、ありがとう。あとはこっちで味付けしておくから、ちづるはダイニングテーブ
ルへお皿を用意して」
「はい! 了解!」
元気良く手を上げたちづるは、食器棚から白磁の皿を取りだし、ダイニングテーブルへ
配膳し始める。
それを横目に見ながら、知子は頭を切り替え、調理へと意識を集中させる。
「今はそれどころじゃない…………私の主戦場はここなんだから!」
エプロンの紐を締め直した知子は、手早く手を洗い直すと、調理台へ向き直る。
そして、ちづるの切り分けた豚肉のブロックを圧力鍋に放り込み、予め用意しておいた
タレを入れ火に掛ける。同時フライパンの加熱も開始。直後、冷蔵庫から取り出したイカ
やエビ、野菜を目にも留まらぬ早業で切り分けたかと思うと、それを味付け用の小鉢へ放
り込み、用意した卵を手にした。そして、知子の両腕は独立したマニピュレータのように、
大胆かつ繊細に卵を割り始めた。当然のように片手で卵を割る知子は、両手を駆使し、秒
速四個という超高速の卵割りを見せる。
あっという間に卵で満たされたボウルへ攪拌器を入れた知子は、塩胡椒や醤油で味付け
しながら、卵へ空気を入れて行く。立て終わると、それを予め暖めておいたフライパンへ
卵を流すと、均等に火が通るよう菜箸でコントロールしながら丸めて行った。
まるで無駄のない職人芸のような調理である。
一つ目のオムレツが完成してから瞬く間に四つのオムレツが出来上がり、知子は即座に
ピラフの調理へと移行した。
バターをたっぷりと引いたフライパンへ、海鮮食品や刻み野菜、を順次投入し、炊飯器
からダイレクトに白米を投入。通常よりも多くバターを入れたのは、粘り気が強い日本米
を使う為だった。
二品目が完成すると、それを大きな皿へ纏めて盛りつける。ちづるが取り皿を用意して
くれている事を確認した知子は、食べる量の違う四人へ盛り分ける必要は無いと判断した。
そして最後に、蒸気を噴く圧力鍋を止め、鍋の圧力が落ちるのを待つ知子。通常ならば
圧力鍋の方が早く調理できる筈だが、知子の調理速度は熟練主婦も真っ青の手際であり、
豚角煮よりも他の調理が早く終わるという珍事を発生させてしまっていたのである。
「…………よし!」
圧力が落ちた鍋のロックが外れると、蓋を開けて中身を確認する。菜箸で触れただけで
崩れそうな程柔らかく炊き上がった角煮を優しく皿へ移すと、ちづるを呼んでダイニング
テーブルへ料理を運んだ。
キッチンの後処理を手早く済ませた知子は、ダイニングテーブルへ移動する。そこへ、
丁度入ってきた茅沙を誘導し、起きあがった千歳や、ちづるが合わさり、四人が集合する。
「ねえねえちいちゃん。今日って、終業式の日なんだって、何でだろうねー」
疑問を感じているのにも関わらず、相変わらず綿菓子のような声を出す茅沙に苦笑しな
がら、知子は集合した三人へ目配せした。
「まあ、その話は後にしよっか。先ずは…………ご飯にしよう」
全員が手を合わせ、当たり前のように、その言葉はシンクロした。
「では…………いただきます!」