チャプター 02:「ステロタイプ・ワールド」
「ううん…………」
知子の脳へと伝わるのは、自身の感じる綿生地の感触だった。頭と身体が目覚めて行く
につれ、知子の瞼がうっすらと開き、外の世界を見る。
「あれ? ここは…………」
頭が思考を始め、そこへ至るまでの経緯を思い出すと、知子は思わず息を呑む。
辺りを見回し、息を吸って匂いを確かめ、ベッドから足を下ろした床板から軋む音を聴
き、手をついたベッドのシーツの滑らかさを感じる。
そこはまるで、現実と見紛うばかりの別世界だった。
「な………………なななっ! 何これ、どうしよう?! えっと、どうすれば? あ、あ
ああ…………ひっ!」
ベッド横に置かれた小さなシェルフから、携帯電話の呼び出しのような
音が発せられた。混乱していた知子は、突然鳴り始めた音に身体をこわばらせるが、音源
が小さな本のような物体であると気づくと、おそるおそるそれに近づき、手に取る。
そして、ページを開く動作を行った瞬間、知子の視覚にいくつかのウインドウが映った。
突然表示され、宙に浮くそれらのウインドウに驚いた知子は尻餅をつくが、中心に表示
された、見知った顔に気持ちを落ち着かせる。
『おはよう、ちいちゃん。どうやら無事にダイブできたようね』
「あ、あの…………千歳?」
画面に映る千歳は静かに首肯した。
『他の二人も、既にダイブを確認している。ちいちゃんは、その部屋のクローゼットに入
った、好きな服を着て。まだ戦う事はないから、防具は身につけなくていい』
「う、うん」
応答しながら、知子は本を手に持ったままクローゼットへと近づいた。
「おお…………凄い」
両開きの扉を開けると、そこには様々なデザインの衣服が納められていた。下部に置か
れた小さなチェストの中には、帽子や装飾品が綺麗に並べられており、幾つかの靴も用意
されていた。
『ちいちゃんはいつも準備が早いから心配はしていないけれど、一応。支度が済み次第、
部屋を出て左手に進んだ先のエントランスに集合して欲しい。この世界の説明を行う。今、
手に持っている本も持ってきて』
「うん、わかった」
知子が応答し、それをきちんと聞き取ったという千歳の首肯を最後に、千歳の映ってい
た画面が消える。そして、片手で開いていた本を閉じると、すべてのコンソール、ウイン
ドウが本へ吸い込まれるように消えた。
「凄いな…………これ」
本に視線を落としながら、静けさを取り戻した室内で、知子は深いため息をつき、黙考
する。一先ずは酷い目に遭うことも無さそうだと安堵し、その不安感と反比例するように、
何も知らない場所へ行くような興奮を感じていた。
横のシェルフに本を戻し、半開きのクローゼットへ向き直る。
「よし! 先ずは――」
知子はクローゼットの扉をめいっぱい開くと、自身のコーディネートを開始した。先ず
選んだのは、カーキ色のショートパンツ。未知の世界で活動するに当たって、知子は動き
やすさを優先した身なりに整えようと考える。
身につけていた肌色のパジャマを静かに脱ぐと、部屋の空気が一層冷たく感じられた。
「ちょっと、寒いかも……」
そのまま履こうとしていたパンツを脇にどけ、チェストの中を探る知子。そして、幾つ
かの衣類を取り出した奥に、紺色のタイツを見つけ、それを履いた。続けてショートパン
ツを履くと、肌寒さも感じない、丁度良い具合になった。トップスは既に決まっており、
迷い無く、長袖の白いシャツに薄手のフード付きジャケットを羽織る。
そして、幾つか用意された中で、最も小さい革のシューズへ足を滑り込ませ、手早く紐
を結んだ。
つま先で二度地面を小突き、履き心地を確かめた知子は、それが思いの外快適な事に驚
いた。
「革靴なのに、柔らかくて気持ちいい…………凄いな」
感心しつつ、見回した部屋の中に化粧台が有る事に気づき、そこへ近づく。引き出しを
開け、取り出したブラシで髪をとき、同じ引き出しに納められていた赤いシュシュで二つ
に束ねる。
首を左右に振り、全身におかしな部分が無いか確かめた後、知子は鏡に向かって大きく
頷いた。
「オッケイ! あっ…………そうだった」
ふと、本を携行するように言われていた事を思い出し、その本が納められているシェル
フへ近づいた。
どのように持って行こうか考えていた知子だが、その棚の横に、丁度本が入りそうなポ
ケットがついたバックパックが納められており、それが色合い的にも合いそうであった為、
バックパックを手に取り、本を納めた。
そして、それを背負い部屋の扉へと向かい、ドアノブに手を掛けた瞬間、ふと、言い得
ぬ悪寒を感じる。
「どうして、全部私にぴったりなんだろう…………いや、よそう」
自分の為だけに型紙から起こされたかのような着心地に、千歳に何かされたのではない
かと思案した知子だが、それが精神衛生的に良くない思考だと直ぐに気づき、考えるのを
やめる。
「よし、行こう!」
気持ちを切り替え、ドアノブを捻って外へ出る。
そこは、ホテルやマンションに見られるような、扉の並ぶ広い通路だった。天井から壁、
床に至るまですべて木造で、壁にガラスと真鍮でできたランプが均等な間隔で取り付けら
れている。非常にシンプルな造り。右手の通路奥には、両開きの窓が取り付けられ、光を
取り込む光源となっており、知子は、指示された通りに、左手へ向かって歩き始める。
廊下を進み、L字に曲がる階段を降りると、天井の高い大きな空間へ出る。左手には両
開きの扉が設置され、室内には武具のラックらしきものや、怪しげな草や袋の納められた
シェルフ、暖炉、書棚などが並ぶ。
「あっ…………千歳!」
知子が気づいた時には、千歳は既に知子へ視線を向けていた。彼女は円形の大きなテー
ブルに備え付けられたハイバックチェアへ腰掛けており、ローブやマントに身を包み、と
んがり帽子を被っていた。
典型的な魔法使いの容姿である。
「へえ…………千歳は魔法使い?」
見知った顔と無事に合流できた事で、知子の緊張も大きくほぐれていた。そして、千歳
がイメージにぴったりの身なりで現れたことで、知子は苦笑しながらテーブルへ近づき、
千歳へ声を掛けた。
しかし、千歳は静かに首を振る。
「いいえ。私は魔法使いではない。この格好は、ただの趣味」
「えっ? それなら、どんな職業なの?」
知子が続けて訊いたのは、用意された衣類や雰囲気から、そこが中世ヨーロッパを土台
にした、ステロタイプのハイファンタジー世界であると予想した為である。こうしたゲー
ムや物語では、剣士や魔法使いといった職業は、物語序盤に決まる事が定番となっていた。
「それは、他の二人が来てから…………」
階段の上を見上げ、暫くじっとしていた千歳だが、まるで降りてくる気配のない茅沙と
ちづるに、静かに視線を知子へと戻す。
「二人が来る気配がないから、先にちいちゃんに説明する」
「うん」
千歳が何かを広げると、それを正確に読みとる為に、知子が椅子を持って千歳の側へと
近づいた。
知子が具合の良い場所に腰掛けた事を確認した千歳は、いつもの調子で口を開いた。
「先ず、この世界は中世を舞台にしたファンタジー世界。剣も魔法も存在する。私達の現
在位置は…………この、ポポコ王国の城下町」
「ほほう」
机の上に置かれた地図の上を、千歳の細い指が滑る。そして、動きを止めた手が指さす
のは、大きな大陸の中央に描かれた城のマークだった。地図には三つの大陸と島々、幾つ
かの町や城のマークが描かれており、そして、海の中央には大きく黒い島が浮かぶ。
知子の目の動きを観察していたらしい千歳は、指を黒い島へ移動させた。
「ちいちゃんが察するとおり、この島に住んでいる魔王が王国支配を企み、大陸へ多くの
怪物を放っている。魔王を倒し、世界を平和にするのが私達の役目。魔王が消滅すれば、
世界各地の怪物も消滅する」
「それはまた、えらくベタな話だな…………」
知子は少しだけ肩を竦め、あたかも常識的な反応を示すも、その実、これから何が起こ
るのか僅かに期待していた。それもその筈で、ただの女子高生として日本で生きていた知
子にとって、それはイヤになるほど聞いてきた設定であっても、自身が体感する事は初め
てだったからである。冒険する機会などある筈もない。
知子の心には、これから何が起きるのかわからない、不安と期待が入り交じっていた。
「そして、この世界には、厳密な職業分けが存在しない。レベルという概念もない」
「…………えっ? それって、どういう事?」
想像を膨らませていた知子は、千歳の説明に思考力を引き戻し、視線を上げる。
「今現在、私達は英雄の末裔という以外、何もできない一般人でしかない。そこで、武器
の扱いや魔法などをその道のチューターに習い、技術を修得する。そこからは実戦」
「なるほど」
「思考力や筋力、手先の器用さ、修得技術の熟練度などは、ちいちゃんが私と通信した本
で確認できる。右下のボタンでリストを表示してみて。気になる項目があれば、それをチ
ューターに教えて貰えばいい」
千歳の説明を聞いた知子は、背負うバックパックを下ろし、ポケットから本を取り出し
た。そして、それを開いてインターフェースを表示させると、剣技、魔法など、幾つもの
項目が表示された。
暫くリストを見ていた知子が、がっかりした様子で本を閉じ、千歳を見た。
「ねえ、千歳。料理の技能もゼロだったんだけど…………」
自分の家事スキルに自信を持っていた知子は、その内容に落胆していたが、千歳は事も
無げに応答する。
「熟練度は、あくまで計測結果に過ぎない。ちいちゃんが料理する機会があれば、あっと
いう間に実力通りの数値へ変化する」
「そ、そうなんだ。良かった――」
「おまたせえー」
「悪いわね」
知子がほっと胸をなで下ろした直後、二階から茅沙とちづるが降りてきた。おっとりし
た足取りで階段を下りる茅沙は、ダークブラウンのロングスカートに真っ白なブラウスを
身につけ、街娘然とした容貌だった。対してちづるは、知子と同じようにタイツとショー
トパンツを履いてはいるものの、皮製の胸当てやグローブを装備している事から、より戦
闘向きのスタイルだった。
二人は知子と千歳の就く丸テーブルへ近づくと、当たり前のように椅子へ腰掛ける。
千歳が二人へ目配せした。
「それでは、二人にも説明を」
千歳は、知子にしたのと同じように説明を行った。理解したのか怪しい様子の茅沙と、
腕を組んで話を聞くちづる。
「――という事。では、早速外へ」
千歳が立ち上がると、それに合わせた知子が立ち上がる。両開きの扉へ向かう千歳を、
三人が追従した。
「あっ…………?!」
千歳が開けた扉をくぐると、そこには活気溢れる町並みが広がっていた。あまりのリア
リティと、人々の息遣いに、知子は身震いした。
とても作り物とは思えない、映画の中へ迷い込んだかのような感覚。
千歳が踵を返し、三人を見回す。
「先ず、今日はチューターを探してスキルを修得する事が第一の目標。街の中央に案内所
があるから、そこから各自、必要と思われる場所へ」
知子と茅沙、ちづるは力強く頷き、歩き始めた千歳へ続いた。