チャプター 12:「躍進」
知子達が仮想世界の冒険を始めてから四日が経過した。百二十倍に伸張された時間によ
り、仮想世界内では、既に三ヶ月近く活動している事となる。
知子達は、仮想世界の生活にすっかり慣れてしまっており、感覚的には、現実世界の生
活が半月に一度のイベントになってしまうような状態だった。
そして今、四日目が始まって最初の朝。
朝日が出る前の薄暗い時間に、知子はライフワークとも言える食事作りの真っ最中だっ
た。四人の誰よりも先に起床し、朝食の支度をする事で、知子は現実世界の生活を忘れな
いよう努めていた。
「ああ、ベガ。そのお鍋が焦げないように少し混ぜてて。逆に火力が足りなかったら、足
下のふいごで風を送ってくれればいいから」
「承知しました。主様」
知子の僕として使えるベガの態度に、知子はどうにも説明し難い居心地の悪さを感じ、
顔をしかめる。ちづるに促されて僕としたものの、目上の人間にへりくだった態度をとら
れる事には慣れておらず、知子は遂にそれを切り出した。
「あのさ、ベガ。私は確かに貴女を僕とする契約を結んだんだけど、そんなに畏まられる
と私も困っちゃうから。もっと普通にして欲しいな」
鍋をかき混ぜていたベガは、知子の提案に首を傾げた。
「普通、と仰いますと……私の主様への態度に、何か問題がございましたでしょうか」
「ああ、いや。そうじゃなくてね?」
明らかに動揺している様子のベガに、自分は危害を加えるつもりはないと両手を上げて
アピールする知子。元々服従の魔法は、主に危害を加えられないようになり、また命令に
絶対服従する、という曖昧な効果しか持っていない。実害を被る、殺意や害意に対しては
正解に働くものの、それだけではベガが畏まった態度を取る事に説明がつかなかった。
「例えば、私がちづるや茅沙に話すみたいに、私と接して欲しいんだ」
ベガの瞳には、先程とは違った動揺が映った。
「そ、そのような! 滅相もございません」
萎縮して見せるベガに、知子はそれ以上言えずに居た。ここで、知子がそう命令する事
は容易いものの、それは知子が求めたものではないと考え、口にしかけた言葉を飲み込む。
「そっか。それなら仕方ないけど…………なるべく、お願いね?」
お願い、という形で妥協した知子だが、ベガは姿勢をただし、知子をまっすぐ見る。
「はい! 畏まりました」
「あ、ああ、うん」
暗殺者でありながら、その実誠実な性格なのではないかと、ベガの身の振りに苦笑する。
そして、自分の目の前に用意した生地を千手観音をも凌駕する超人的な速度でこねると、
それを石窯へ入れ焼成する。知子の技術を目にしたベガは呆気にとられていたが、命じら
れた仕事を思い出し、あわててかき混ぜていた。
一方知子は、石窯の大火力に心底感動していた。知子の依頼通りに千歳が作った石窯は、
現代に存在するものと遜色の無いクオリティのものである。その上、非常に手間の掛かる
火入れは魔法で済んでしまう為、手間もガスコンロと殆ど換わり無い。それでいながら、
薪ならではの非常に熱量の大きな焼成ができ、外をこんがり焼きながら、内部は柔らかな
生地にする事が可能となっていた。
「よし…………そろそろね」
頃合いを見て、知子は窯の中へ木製ピールを入れ、熱気を帯びたフランスパンを取り出
した。そしてそれをバスケットへ入れると、ベガへ目配せする。
「そっちのシチューも頃合いね。お鍋は私が引き継ぐから、このパンをロビーのテーブル
へ持っていってくれる?」
「畏まりました」
深く頭を下げ、バスケットを受け取ったベガは、扉を潜って隣のロビーへ出てゆく。一
方知子は、かき混ぜていた木製のお玉杓子で小皿にシチューを掬い、最後の味
付けを確認する。
「…………うん。まあまあね!」
特にダマもなく、焦げ付きも無いシチューは仮想世界で初めて調理した割に良くできて
いた。市販のルーなどあるはずもなく、粉から手作りしたそれは、知子が仮想世界に新し
く持ち込もうとしているオーバーテクノロジ。
知子はこうして、料理研究協会で教える料理を選定しているのである。
「お鍋ごとでいいかな」
木製の深皿を五つ(・・)用意した知子は、戻ってきたベガを見た。
「次は、お鍋用のコースターとカトラリーをお願い」
「はい」
差し出されたそれを受け取ったベガは、同じように配膳を行いにロビーへ戻る。
ベガがロビーへ入った事を確認した知子は、ミトンを嵌め、シチューの入った鍋を調理
台へ移動させ、コンソールブックからキャストした魔法によって火の始末を行った。そし
て、完全に鎮火した事を確認すると、もう一度ミトンへ手を入れ鍋を持ち上げる。
「ちいちゃんおはよお」
ロビーへ進むと、既に起床して来ていた三人が、椅子に掛け朝食を待っていた。真っ先
に声を上げた茅沙へ頷いて返事をすると、きちんと中央に置かれたコースターへ鍋を置き、
直ぐに調理場へ戻る。そこで用意していた取り皿を五枚持つと、ロビーへ戻りそれらを配
った。
しかしふと、部屋の隅に立って動かないベガを不審に思い、知子が手招きする。
「どうしたの? ご飯、一緒にたべよう?」
ベガの青い瞳が驚愕で見開かれる。
「よろしいのですか?」
「もちろん。嫌だなんて、言わないよね?」
知子は少しだけ意地悪く言った。そしてベガは、それに感謝するように深く頭を垂れる。
「ありがとう、ございます。それでは、失礼します」
隣に座ったベガを確認した知子は、手を合わせて全員を見回す。
「それでは…………頂きます!」
「いただきまーす!」
一際大きな声で挨拶した茅沙が、真っ先にお玉杓子を持ち、シチューを救う。ちづるや
千歳が順によそう中、ベガは戸惑った様子で動こうとしなかった。
またもや気を使っているのではないかと、ベガの皿を手にすると、知子がシチューをよ
そい、ベガの前に置く。
「見たことない食べ物だと思うけど、変なものじゃないから安心して?」
絶対的な上下関係がある以上、怖がらせないよう細心の注意を払いながら話す知子。
「あ、ありがとうございます」
そして、木製のスプーンでシチューをすくったベガは、それをゆっくりと口に入れ、何
度か租借する。知子は味の感想が気になり、ベガを観察する。
しかし、ベガの反応は、知子の想定していたものではなかった。
スプーンをシチューへつけた彼女は、両目から涙を流していたのである。
「ど、どうしたの? 駄目だった?」
戸惑いながら問う知子に、ベガは大げさに首を振る。
「こんなにも…………おいしいものを食べたのは。初めて、ですから」
その一言は、知子の胸に容赦なく突き刺さった。心から搾り出されるように発せられた
ベガの声は、彼女が今までどんな生活をしていたのか想像するに十分な重さを持っていた。
権力者の下で働き、かつ、暗殺稼業にまで手を染めなければ生きて行けなかった彼女の
人生の苦しさは、自分が想像できる世界の外にあるのだろう、と知子は思った。
そして知子は、自分がベガの人生を左右できる立場にある事がとても幸運であると初め
て感じた瞬間だった。
知子は、未だに涙を流すベガを見つめながらはにかむ。
「これからは、こうして毎日、お腹いっぱいにご飯を食べよう。もう、誰かを手にかけな
くて良い。少なくとも私は、そんな事させないわ。仲間として、手伝ってもらう事は一杯
あるけどね?」
悪戯に笑む知子につられて、涙の筋が残ったままのベガは微笑した。
「…………主様が皆に慕われている理由が、判った気がします。本当にお優しい。幸せを
振りまくお日様のような方だから」
知子はあまりに真っ直ぐなベガの眼差しに顔を赤らめた。そして、それを茶化すような
視線を向ける三人に睨みをきかせる。
そして、ベガに配慮しながら、知子は話題を変えようと考えた。
「あ、ありがとうね、ベガ。そ、それじゃあ…………それぞれの部署の報告を聞きましょ
うか!」
「ちいちゃん照れてるー。かわいー」
「う、うるさい! 茅沙から早く! 報告して!」
怒る知子もどこ吹く風と、茅沙が手を挙げて報告を始めた。
「私の方は、いよいよ魔王の島に渡るルートが見えてきた段階だね。海にはモンスターが
一杯居て、普通のルートだと直ぐに襲われちゃうみたい。だけど、南西の港から最短の航
路を使えば、一番安全に渡れるって村の人が教えてくれたの! だから、船さえ手に入れ
ば魔王の島に行けるよ! それに、ちいちゃん達の訓練に最適なモンスターもいくつか調
べておいたの。だから、戦う練習がしたい時は教えてね?」
真剣に耳を傾けていた知子は何度も頷き、茅沙へ親指を立てる。
「よく頑張ってくれているわね、茅沙。次は、船の調達が可能かどうか調べて頂戴」
「はーい!」
茅沙が返事をすると、次は千歳へと視線が映る。空気を察した千歳が説明を始めた。
「私の方も概ね順調。旋盤の開発が終わってから、非常に安定した開発が可能となってい
る。以前話した蒸気機関によって動力源は確保されており、蒸気駆動のミンチマシンも既
に最終テストへ入っている。料理研究協会員へのサービスも、近日中に提供開始できる」
知子は千歳の仕事に唸り、ほくそ笑む。
「流石千歳ね。入会していないと利用できないサービスを提供する事で、協会の会員保持
率も良くなりそう!」
「以前から研究していた、高弾力セラミック…………通称HTセラミックナイフの開発に
も着手している。既存の鍛造包丁より切れ味が高く、スライサーやミキサーにも応用でき
る素材。あと半月で、完成まで持ってゆく予定」
「――いいわね! その調子でお願い!」
待ち遠しかったのか、目を移したちづるは、手を組んで満面の笑みを浮かべていた。
「こちらは、ライフル本体は殆ど完成ね! あとは私好みにチューンして行けば実戦投入
可能よ。弾丸は今、ポポコ協会の司祭に用意してもらっているから、一週間もあれば戦う
準備はできそうね」
「バッチリね。ちづるが居れば百人力だわ!」
知子が笑むと、ちづるは何かが振り切れたのか、鼻血を噴きながら背もたれへ寄りかか
った。しかし、それはいつものことであるらしく、特に気にした様子も無く会話は続いた。
そして、雑談へ入っていた茅沙がふと、ある事を思い出す。
「…………あっ! そうだ! ちょっと待ってて!」
知子が頷き返すと、茅沙は調理場へ飛んで行き、金属皿を持って戻ってきた。銀色に光
る皿からはうっすら冷気が零れており、それは魔法器によって内容物を冷やす、所謂冷蔵
庫から取り出したものだと判る。
「これは…………まさか!」
目を皿のようにした知子が注目したのは、茅沙が持ってきた皿に載る、きつね色の食物。
それはまるで、ノエインのベイクドチーズケーキのようだった(・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・)。
皿をテーブルへ置いた茅沙が、知子へVサインを向ける。
「食べたケーキから材料を予想して作ってみました! ほぼ、再現できてると思うよー」
知子や千歳、そして、いつの間にか目を覚ましていたちづるが、目を血走らせながらそ
れを睨む。
「よくやったわ茅沙! は、ははは…………茅沙に賭けて正解だったわね、みんな?」
「フフフ。随分待ったわ、カワイ子ちゃん」
「これはウマイ。見た目で確信した」
各々は興奮しつつ、かつ落ち着いてケーキを取り分ける。皿を見る彼女たちの目つきは、
スイーツ好きの女子などではなく、獣のそれだった。
ベガにも切り分けられるが、全員、既に意識は自身の目の前に置かれたケーキ以外に向
けられては居なかった。
フォークを掴んだ知子が、獣のように咆哮する。
「うおおおおおおおおおおおおおお頂きまああああああああああああああああああす!」
ベガを除いた四人は、まさに猛獣の如くケーキに襲い掛かった。




