さなぎとまち針
一寸の虫にも五分の魂を座右の銘とする少女、蟲娘。
彼女は常に三角定規を持ち歩いており、虫を見掛けるたびに逐一その大きさを測る。そうして一寸を超えるものはどんなにグロテスクな成り形をしていても愛してやり、逆に一ミリでも一寸に満たない虫は容赦なく潰し殺してしまう。
もちろん、彼女に友達は一人もいない。
ある日、蟲娘の暮らす町の駅に、一人の男が降り立った。
当年とって二十八になる彼は負け犬の青年。友達もいなければ恋人のいたためしもない。家族にも見放され、居場所をなくし、逃げるように郷里を飛び出してからすでに十年を数える。ひとつところに住み続けることが出来ず、鉄道で旅を続けている。見えないなにかから逃げ続けるように。
自分の人生は失敗だった。強烈にそんな意識を抱いている彼は、それでも自殺することすら出来ない自分にほとほと嫌気がさしていた。
彼のポケットにはいつでも簡易的な手芸道具入れが入っている。糸も縫い針もとっくになくした。けれど、三本のまち針だけは残っている。
時折、彼は公園や畑にでかけては蝶の蛹にまち針を刺した。どうしてそんなことをするのかは自分でもわからないが、そうすることで妙な高揚感を得ることが出来たのだ。
負け犬の青年が町に住み着いてから三日後、彼はその日も畦に出てアゲハ蝶の蛹にまち針を刺していた。
その様子を、一人の少女が目撃していた。
「どうしてそんな残酷なことをするの!」と蟲娘は彼を非難した。初対面にもかかわらず、自分の正しさを疑わない者特有の怖じ気のなさで。
どうして蛹にまち針を刺すのか。本人にもそれはわからない。
青年が答えあぐねていると、蟲娘はアブラムシのついた大根の葉をずいと差し出して、言ってのけた。
「殺すならもっと小さな虫にしなさいよ!」
負け犬の青年は蟲娘の独善に驚いた。しかし同時に、彼女に対して妙な親近感を抱きもした。
そしてそれは、蟲娘のほうも同じだった。
二人はその日から友達になった。
負け犬の青年は川縁の捨てられた小屋に住み着いていた。
薊の茂る原に立つ小屋は様々な虫の出る場所だったが、彼にとっては好都合でもあった。
蟲娘は連日青年の小屋を訪ね、そうして大きな虫は多種多様な表現をもちいて褒めそやし、小さな虫には平等に死を与えた。
夕方になって蟲娘が帰ったあとにだけ、彼は夕陽を浴びながらさなぎにまち針を刺した。しかし、その頻度も日を追うごとに確実に減っていった。
ある日の夕刻、いつものように帰り支度をしている蟲娘に対して、「どうして君は愛する虫と殺す虫を選り分けているんだい」と負け犬の青年は訪ねた。
蟲娘はしばらく考えたあとで、「私は偏見を蓄えているのよ」と言った。
「大人になるために、それってきっと必要になると思うの」
このとき、沼のように淀んだ彼の内面で、はっきりと何かが蠢いた。
「ねぇ」と蟲娘が言った。「それじゃあ、あなたはどうしてさなぎにまち針を刺すの?」
それは、いくら考えても答えのでなかった疑問だった。
だが蟲娘の問いかけを受けたその瞬間に、負け犬の青年は思考にかかって晴れることのなかった霧が瞬時にして払われるのを感じた。
さなぎにまち針を刺す。
彼にとってそれは、抵抗のできぬ未熟な、しかし華々しい前途のある存在から未来を奪いさるという、歪みきった象徴的行為であった。さなぎにまち針を刺すことで、彼は将来ある青少年を台無しにしてしまう愉悦を擬似的に味わっていたのだ。
負け犬の青年は自らの暗部と改めて対面し、その醜悪さに愕然とする。
そしてまたもう一つ。目の前の少女、蟲娘もまたさなぎなのであるという事実を、彼ははっきりと認識している。
幼い少女。
未熟な少女。
刺々しい自意識で頑なに自分を鎧う、思春期のさなぎ少女。
その内側で、彼女の蒐集した偏見はどろどろに解け合って、混ざり合っているのだ。さながら固いさなぎの中で、イモムシの細胞が蝶へと再構築されていくかのように。
『彼女にまち針を刺してみたい』
そう考えずにはいられなかった自分を、男は今すぐ殺してやりたいとそう思った。
「僕は、君にはまち針を刺さないよ」
長い沈黙と、そして深い葛藤のあとで、負け犬の青年は蟲娘にそう告げた。
彼は泣いていた。それは悲しい涙でも、辛い涙でもなかった。
自分は虫なのだと彼は思った。ちっぽけで矮小な、卑屈な虫だと。
ああ、もしも蟲娘に潰されてやることが出来たなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。
自分が蟲娘を愛していることを、もはや認めぬわけにはいかなかった。
蟲娘は帰り支度の手を止めると、青年の傍らに立っていった。
そして、一回り以上も年の離れた異性に対して、母親のようにほほえみかけた。
「あたしも、あなたを潰したりはしないわ」
蟲娘は座ったままの彼を、愛情を込めて小さな胸に抱きしめた。
すべてに失敗した男の嗚咽が、ゆっくりと漏れだした。
その日、蟲娘は帰らなかった。
次の朝負け犬の青年が目を覚ますと、蟲娘の姿はもうどこにもなかった。
朗らかな談笑の名残も、ベッドの温もりも、彼女の痕跡はもうどこにも残ってはいなかった。
彼は蟲娘の名前を呼びながら小屋を飛び出した。しかし、応える声もやはりない。
強烈な喪失感と不安を背負いながら小屋に戻ろうとした青年の目に、小屋の入り口の地面に突き立てられた、きらきらと日射しを反射するものが飛び込んできた。
蟲娘が肌身離さず持ち歩いていた三角定規。真っ二つにへし折られていた。
それを見た瞬間、彼はもう二度と彼女に会えないのだということを悟る。結局、自分が蟲娘にまち針を刺してしまったのだということも。
けれども、と彼は泣きながら思った。
けれどもあれは確かに愛だったのだ。俺は彼女を愛してたのだ。
ひとしきり泣いたあと、男は荷物をまとめて小屋をあとにした。
彼は駅へと向かった。逃げ出す為に。しかしどこまで逃げても自分から逃げ出すことはできぬのだと、彼はそれに気付いてもいたのだった。
2010年3月12日




