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貌(かお)のない顔

  1


 二年前、中学一年の夏を境に、朱夏の世界はすべての顔を失った。


 最も近しい存在である両親はおろか、鏡に映り込んだ自分のものを含めて顔という顔を識別できない少女、朱夏しゅか

 現実に目の前にあるはずの顔も、写真やテレビを通して視る顔も、彼女の眼にはただ茫漠としたのっぺらぼうのようにしか映らない。

 相貌失認症――主治医となった心療内科医はそう診断をくだした。


 他人の目から見た彼女は整った顔立ちをした愛らしい娘であった。礼儀正しく控えめな性格もあいまって、朱夏の抱える特殊な事情については大半の人々が蔑視でなく同情を示した。

 しかし朱夏は、本心では顔のない人々に対していまひとつ親しみを感じることが出来ずにいた。


 ある日のこと、朱夏はひょんなことから二十代前半のフリーター女と出逢う。その女の顔を見るなり、朱夏ははっと息を呑んだ。

 女には顔があったのだ。目も鼻も口も、目元の泣きぼくろまでがしっかりと見て取れた。

 女の名は清美といった。


 朱夏にとって無二の存在である清美は、しかし朱夏とは正反対の問題を抱えていた。


 清美には顔がなかったのだ。彼女はあらゆる他人に識別を許さぬ容貌の持ち主であった。朱夏にとって他のすべての人々がそうであるように、清美の顔はすべての人間の目にのっぺらぼうのように映るのだ。


 ただ一人朱夏だけを例外として。


 つまりは、清美にとっても朱夏は特別な存在であったのだ。二人の異分子は惹かれあうようにして巡り会い、互いに互いの欠落を埋め合うような関係となった。



   2



 育ての親である祖母を例外として、清美には人から愛された経験がなかった。他者の目に映る彼女は控えめに表しても不気味で得体の知れぬ存在だった。はっきりと異端だったのだ。


 彼女がこの世に生を受けてから二年を待たずして両親は顔のない我が子の養育を放棄した。一つ目の幼稚園と二つ目の幼稚園では――年中組の夏に彼女は転園を余儀なくされた――同い年の幼児たちからいじめを受けたし、すべての保母と保父は彼女を持て余した。

 学童にあがったあとも何も変わらなかった。クラスメイトたちは彼女の迫害を正義と信じた。表情が目に見えぬだけにいじめは加減を知らぬものとなった。教師たちは見て見ぬふりをした。表情が見えぬことを幸いと清美の苦痛に気付かぬふりを通した。彼女にとって世界は敵意に満ちていた。


 そうした生い立ちを持ちながらも、しかし清美にはまったくいじけたところがなかった。「まぁ仕方ないさね」の一言ですべてを許してしまえる超越的な寛容さの持ち主だった。

 一つの土地にとどまることが出来ず追われるように転居を続け、先々での雇い口を探すにも並々ならぬ苦労を強いられる。そうした現実を恨むでも拗ねるでもなく受け入れている清美の姿に朱夏は恥じ入る気持ちを覚える。自分は迫害を受けるどころか哀れまれ、庇護されてる。なのに。


 清美は驚くほど多彩に表情を変えた。それがこれまで一度も他者に届かなかったなど到底信じられなぬほど、多彩に。

 朱夏が思ったままを言葉にして伝えると、清美は嬉しそうにころころと笑った。それから喜びに涙を流した。どちらも朱夏だけが目に出来るものだった。


 このようにして、ひとまわりも年上の女は少女にとってカリスマのような存在となった。



   3



「刺青でも入れようかな」


 ある時、ふとした拍子に清美が言った。


「顔中に歌舞伎の隈取りみたいにさ、顔よりもはっきりした人相を自作しちゃうんだ。そしたらいくらなんだってみんなアタシのこと、一目見たら忘れないんじゃないかな? ……あ、でもアタシみたいな客が来たら彫り師が困っちゃうか。それにおばあちゃんだって悲しむかも。……そうだなぁ、ならいっそでっかい傷でも作っちゃおうか? ほら、漫画の剣豪みたいにさ」


 冗談めかした口調で言う清美に、引きつった声で「そんなのダメ」と朱夏は言った。


「……そんなの、ダメだよ」

 

 朱夏は繰り返した。それから、言い訳するように続けた。


「だって、清美さんせっかく、すごく、綺麗な顔してるのに……刺青なんて、ダメだよ」


 清美はひどく面食らった顔をした。しかしややあってからその表情は引っ込めた。


「ありがとね」目を細め、口元に穏やかな笑みを浮かべて清美は言った。「ありがと」



   4   



 ある秋の朝、寝ぼけ眼のまま洗面台に立った朱夏はふとした違和感にとらわれた。

 その正体に気付くまでに彼女は多くの時間を必要とした。


 やがて彼女は変化を諒解した。そしてほとんど悲鳴のような声をあげた。


 鏡の中の自分には、目も鼻も口も、すべてが揃っていたのだ。驚いた顔で飛び込んできた――驚いた顔をしているのだと認識できた――両親にもそれらは備わっていた。

 彼女の世界は出し抜けに『顔』を取り戻していたのだった。


 この事実を告げられるに至り両親は歓喜した。母親はすぐさま電話を取り、その日の欠席と突然の症状改善をそれぞれ学校と病院に伝えた。報せを受けた担任教師と心療内科医はそれぞれ両親に準じた反応を示した。父は仕事を休んだ。この日の夜は家族での外食と決まった。


 誰もが彼女を言祝いだ。旧友が、隣人が、彼女と縁を持つあらゆる人々が。

 わけても清美の反応は大きかった。彼女の喜びようは父と母のそれに勝るとも劣らぬ程、まるで己のことのように嬉しがった。


「これでお化粧教えてあげられるね」と――それが誰にも見えぬというのに、清美は化粧がとても上手だった――彼女ははしゃいで言った。


 この変化を快く受け止めなかったのはたった一人だけ――他ならぬ朱夏本人だけだった。

 自分が清美の特別ではなくなってしまうことを、また、清美が自分の特別ではなくなってしまうことを彼女は怖れた。自分と清美を繋ぐ絆が薄れてしまったのではないかと怯えた。

 清美はこれを笑い飛ばした。


「アンタは充分特別だよ」と彼女は言った。「たとえアタシ以外の顔が見えるようになっても。たとえアタシの顔が見えなくなっても。アンタはもう一生アタシの特別さ」



   5



 しかし朱夏の危惧は冬のただ中に実現しはじめる。


「もうあの『髪の長い人』と付き合うのはやめなさい」


 ある朝母がそう言った。

 それが清美のことであると、問い返すまでもなくわかった。朱夏の心を言いようのない気持ちが支配した。髪が長いという特徴以外、母には清美が男なのか女なのかそれすらもわかっていないのかもしれなかった。

 父も母に追従した。お前は、今では誰の顔も見えるようになったのだろう。ならばもうあの人に執着する理由はないはずじゃないか。


「くだらない同情や間違った仲間意識は捨てなさい」と父は締めくくった。


 厳しさを通り越した、吐き捨てるような口調だった。朱夏は背筋が冷えるのを感じた。父も母も清美を同じ人間と見なしていないのだ。彼女のことを、社会に混在した一個の異物としてしか見ていないのだ。


 朱夏は反論したが、両親の虫でも見るような表情は最後まで変わらなかった。耐えきれなくなり、学校に行くといい家を出た。彼女はそのまま清美のアパートに出かけた。


 事情を訊いた清美は腹を立てることもなく、やはり「まぁ、仕方ないさね」と言った。

 生まれてはじめて、朱夏は怒りに我を忘れた。

 悔しくて許し難かった。この屈辱を清美が受け入れてしまっていることも。それに彼女の寂しそうな微苦笑が父と母の目に届かぬということも。

 自分と清美にどれほどの違いがあるのかと朱夏は思った。

 父と母のあの情の失せた顔と、自分にしか届かぬ清美の色彩豊かな貌、より人間らしいのははたしてどちらかと朱夏は思った。


 朱夏は声を嗄らして泣いた。


 母と父を悪し様に罵ったのも、清美から説教を受けたのも朱夏にとってははじめてのことだった。


「ご両親はアンタのことを思って言ってるんだよ」


 清美は真っ直ぐに彼女を見据えて諭した。


「誰だって我が子にはアタシみたいのと関わって欲しくないもんだよ。人間は相手の顔を見て話すんだ。顔の見えない相手にはどうしたって心を開けない、その気持ちはアンタが一番わかってるはずだろ? ならお父さんお母さんの気持ちを酌んであげなさいな」

「やだ、そんなのわかんない。そんなの酌まない」


 朱夏は幼児が駄々をこねるように頑是無く首を振った。


「だって私がそれを受け入れたら、清美さんはひとりぼっちになっちゃうもん」

「アンタがいるもの、ひとりぼっちじゃないさね。寂しくなるようなこと言わないでよ?」


 朱夏はなおも首を振った。清美は困ったように、同時にどこか嬉しそうに苦笑した。

 その表情がさらに朱夏の胸に刺さった。どうしてこの人は、こんなにも優しくて、やさしくて、やさしいのだろう。


 清美さんがこの街を離れるときは私もついていく、と朱夏は言った。それはダメ、と清美は答えた。せっかく世界が広がったのに、自分でそれを狭めてどうするの。


「でもアタシがいなかったら、清美さんはひとりぼっちになっちゃう」と彼女は言った。

「ひとりぼっちにはならないさ」と清美は再び言った。「アタシはもう一生、どこにいたってひとりぼっちじゃない。アンタのおかげでね」



   6


 

 翌日も朱夏は清美の部屋をノックした。しかし応じる声はなかった。

 予感が胸を慄わせた。朱夏は不吉な予感に抗うようにノックを繰り返した。手には次第に力がこもる。

 やがてノックがほとんど体当たりにも似た激しさとなった頃、叩いていたのとは別の扉が開いた。清美の隣人の四十年配の男が、迷惑そうに朱夏を一瞥していた


「そこの部屋の人ならいないよ」

 男は面倒くさそうに言った。そして朱夏が問い返すよりもはやく続けた。

「引っ越したんだ。一晩でね。まったく身軽なもんだよ」



 それから、自宅に戻った朱夏は郵便受けに自分宛の封書を見つけた。

 宛名はなかった。しかし出し抜けにすべてが確信となった。彼女は封筒を引きちぎった。


『刺青は入れないよ。

 どこにいたって、アンタは一生アタシの特別だ。 』


 便箋にはそれだけが書かれていた。百万の言葉にも優って雄弁な、たった二行の別れの言葉だった。

 彼女の貌が常にそうであったように。もちろんそれは朱夏にしか届かない。


 この瞬間、朱夏は清美が思い出になったことを知った。自分のために彼女がそうしたのだと悟った。


 その場にへたり込み、少女は人目も憚らずに声を枯らして泣いた。どうしてあの人は……と思っていた。



 あのとき刺青に反対した私の真意に、清美さんはやっぱり気付いてたんだ。

 あれは私の身勝手だったんだ。あのときも、私は自分が清美さんの特別でなくなってしまうことを一番怖れてたのだ。清美さんはそれを正しく理解していた。なのに、あの人はあんな表情かおを――。


 朱夏は泣いた。いつか涙は尽きる。それがさも恐ろしいことであるかのように感じながら、彼女はただ泣きじゃくった。


 いつか涙は尽きるのだ。その時こそ本当に、私は新しい自分を生きはじめなければならないのだ。清美さんのくれた、新しい自分を。


 いまや一生の憧憬となった女性を想いながら、十五歳の少女はいつまでも泣き続けた。

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