V 「全部わかるかもしれない」
その翌日。その日は先生の都合で部活が終日自主練習になったので、午前中はクラスの準備、午後は部活に顔を出す約束をしていた。
たったいま文化祭の準備を終わりにして、片付けを済ませて解散した。ところがドジなあたしはうっかり教室にトランペットを忘れてしまい、ひとりだけ教室にUターンすることになった。無駄な理由で廊下を歩くのは暑くて苦しい。
教室に戻る手前で、ドアの窓から教室の中が見える。
「あ、机……」
つい独り言が漏れた。そう、作業中に机を隅に寄せていたのだが、それをもとの整列した状態に戻すのを忘れていた。
いや、忘れていたというより、安心して待っていたのかもしれない。普段ならば、きっとマリアが机を元通りに並べてくれただろう。
ああ、マリアがいない――あたしは息苦しさに襲われた。
深呼吸してドアを開くと、
「……マリア?」
机が退けられてできあがった空間の中央に、少女が佇んでいる。
田橋マリア智夏、あたしがずっと待っていた少女だ。
「マリア! 心配したんだよ!」
叫ぶと、マリアがこちらを振り返って眉を顰める。その顔を見せられたら、駆け寄ることなどできなかった。五歩の間隔を残して立ち止まる。金縛りに遭ったかのようだった。
それでも勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。
「マリア……何があったの? 辛いことがあったのなら、ちゃんと聞きたいよ。いつも助けてもらっているんだから、あたしもマリアの力になりたい」
「…………」
マリアは黙っていた。
あたしは言葉すら出てこなくなった。
「……ごめんね、円」
ついにマリアが話しかけてきたが、あたしは何も言えないし動けない。
「――真面目な円は、いいリーダーだよ」
マリアは踵を返すと、逃げるように教室を去った。
追いかけるのはおろか、どうして、と呟くことすらできなかった。
部活はどうせ自主練だ、あたしは自分にそう言い聞かせて罪悪感を握り潰し、校内を走った。マリアはもう見失ってしまったから、目的は弥くんと才華ちゃんに会うことだった。
弥くんにいまの気持ちを吐き出したい。そして、才華ちゃんに真相へ導いてほしい。
食堂にはいない。そう簡単には見つからないとわかっていた、次に向かうべきは一年の教室が揃う四階。少なくとも弥くんが補習に来ているはずだと当たりをつけ、階段を駆け上がった。途中吐き気のような不快感に囚われた。
再び四階まで辿り着くと、がやがやと騒がしい。補習が終わり始めた時間帯なのだろう。
膝に手を突き呼吸を整えようとしていると、透き通るようなあの声に震える心が静められていった。
「どうしたの? どうも浮かない顔だね」
例の如くあたしのクラスの教室に移動した。机は壁に寄せられたままだ。
弥くんは携帯電話をしばらく操作してから、あたしに向き直る。
「いま才華を呼んでおいた。この件のために調べることがあって寄り道するけど、すぐに来るって」
「……うん、ありがとう」
沈黙が落ちてくる。弥くんはまだ、「何があったの?」とは訊いてこない。どうやら弥くんはあくまで才華ちゃんの補佐でしかないらしく、直接あたしから聞き出して意見してくれるわけではないようだ。
それでも、手を差し伸べてくれたのは弥くんだ。しかも、ほんの数日前に出会ったばかり。あたしはどうしても気になっていたが訊くべきではないと思っていたことを、ついに尋ねてみた。
「ねえ、弥くん。弥くんは、どうしてマリアのことで協力してくれるの?」
弥くんは面食らったように目を見開いた。
「急な質問だね。正直驚いた」
「だって、あたしと弥くんは面識がほとんどなかったはずだよ? あたしから話を聞くまでは普通かもしれないけれど、適当にアドバイスして済ませてもおかしくない。どうして、首を突っ込んできたの? 助けてもらえるのはありがたいし嬉しいけど、あたし、リーダーとして情けないよ……」
あたしの質問は半ば心の悲鳴となって言葉に現れ、弥くんと衝突した。
でも、弥くんは揺るがない。かわいらしい笑顔のままだ。
「正直、特別なことではないよ」
「…………」
少々傷ついた。あたしは弥くんに優しくしてもらいたかった。せめて、「助けてあげたいと思った」とくらいは言ってほしかったのだ。
弥くんの表情は、何かを懐かしむ様子だ。
「あのさ、あんまり重く考えないほうがいいよ。世の中に起こっていることはほんの些細なことの積み重ねでしかないと思うし、事実そういうことばっかりさ。だから、才華がその中の疑問のいくつかを言い当てて見せることができるだけ」
人懐っこくて魅力的な笑顔が咲き誇った。
「ぼくの親友が――ああ、こう言うと恥ずかしいな――言っていたんだよ。『事実は小説より奇なり、とは言うが、事実は小説ほど気を張って読み取るものじゃない』ってね。全部、終わってみれば簡単な話なのさ。だから、安心して」
あたしは弥くんに目を奪われたまま、後ずさりするほどに震えていた。顔の筋肉が痺れている。目頭が強張っている。心臓が暴れている。
足の力がふっと抜けて、床にへたれ込んだ。おやおや、と弥くんは驚いていた。
はあ、あたし好きになっちゃったんだな。
――あれ?
視点が低くなったあたしは、ふと床に落ちているペンに気がついた。弥くんの背後にある机の下に転がっている。お行儀は悪いが、体を低くしたまま近寄って手に取ってみる。
「これ、ペン立てのペンだ」
「うん? ああ、そういえば、ピンクの紙で飾ったかわいいペン立てがあったね」
と言って、弥くんは教卓に目を移した。ところが、そこには何もない。
作業中に移動させていたのかな、と考えていると、がらりと扉が開いた。
「弥! 何があったの?」
血相を変えた才華ちゃんが現れたのだ。
三人揃ったところであたしは事情を説明した。実際のところ、解決の手助けにはならないただの悲しさを吐いただけだった。
それでも、ふたりは真摯に聞いてくれた。しかも、才華ちゃんは、
「これで全部わかるかもしれない」
と口走る。それから、弥くんに突飛なことを尋ねた。
「夏休み中って、教室のゴミ箱は使えないんだよね?」
「そうだよ。文化祭の準備で散らかっちゃうからね。直接、学校指定の場所まで持っていくんだ。それがどうかしたの?」
「回収は自然に考えれば早朝。マリアさんはさっき現れたばかりだから、うん、まだ大丈夫だね……」
才華ちゃんは少し考え教室を見回すと、顔を上げる。自信に満ち満ちた、眼光鋭く恰好いい名探偵の表情だ。
行くよ、と言って才華ちゃんは教室を出た。どこへ行くのか疑問に思いながら後を追うと、目指したのは弥くんに尋ねていたゴミ捨て場である。
ゴミは大きな籠に入れられているが、散らからないように重い蓋で閉じられている。才華ちゃんは弥くんとあたしに言って、空き缶やペットボトルを集めている籠を開けさせた。そして、その中を覗き込む。
「あった」
と言ってゴミ箱の中へと体を投げ入れんばかりに突っ込む。
「え、ちょ、ちょっと!」
焦ったあたしと弥くんは制止しながらも蓋を持ち続けた。まもなく才華ちゃんは、埃を被りながらも中から目的のものを見つけて取り出した。
「これだよ、これ。数少ない物的証拠」
なんとそれは、ペン立てである。教室からなくなったと思ったら、捨てられてしまっていたのか。
「ねえ、これが作られたのは、文化祭の準備を遅くまでやっていたあの日なんだよね?」
才華ちゃんが、あたしと弥くんどちらともなく訊く。あたしは考えを巡らせ頷いた。
「確かに、あの日に作られていたってことだね。きょうより前に準備をしたのは夜まで残ったあの日が最後で、あの日の作業中にペン立てはまだなかった。それにしても、才華ちゃんはいつそれを?」
ペン立てのことを才華ちゃんに話した憶えはない。
「ぼくが伝えたんや。桜井さんと会った日に話したこと。ぼく、記憶力には自信があるんやで」
弥くんがにっと白い歯を見せた。
頭の回転が速い天才才華ちゃんに、記憶力の良い秀才弥くん――ああ、なんていいコンビなのだろう。
才華ちゃんはペン立てを回すようにして調べると、繋ぎ目の一か所に爪を立てる。
「今回も、なんだ――簡単な話じゃない」
べりっとピンクの紙が剥がされた。