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夏の桜  作者: 大和麻也
1/6

I 「今年は忙しいよ」

 夏休みの、誰もいない教室。

 暑くてたまらないから、冷房をつけている。あたししかいないのだけれど、少しくらいそんなわがままをしたって誰も見てはいない。けれども、夏の空気を感じたい気持ちもあって、窓を開けた。体の正面からは熱気、背後からは冷風という矛盾がなぜか心地よい。

 あたしの高校生活はじめての夏休み。青春を謳歌する夏。誰よりも輝いて、誰よりも忙しく、それでいてのんびりと悠々自適に好きなことをやり抜きたい。まだまだ四十日もあるのだ、きっと楽しい夏になる。

 でも、もうすでに、ちょっと惜しかったことがある。

 あたしはその残念な気持ちを振り払うべく、金色に輝く相棒を窓の外に向ける。高らかに、胸を張って――息を吹き込んだ。

 吹き終わって息をつくと、遠くで誰かが「かっとぉばせぇ」と叫んだ。つい、くすりと笑ってしまった。

 さらに、聴いてくれた人はもうひとりいたらしい。

「……誰?」

 振り返ったとき、誰か男子生徒がドアのガラスから覗いていた。あたしが振り返ると彼は照れ臭そうに口角を上げ、そろそろとドアを開けて入ってきた。

「や、やあ。ヒッティングマーチが聴こえてきたから、つい、立ち聞きしちゃった」

 彼の第一印象は、外見も話し方も、「かわいい」と言うべき雰囲気だった。決して逞しい体躯ではなく、肩幅は狭く背は低い。口調も、よく解らない自信に満ち角ばった男子のふうではなく、綿菓子のようにふんわりと柔らかい。とはいえ、自分に自信を持っていないタイプでもないことが、穏やかで真っ直ぐな視線からわかった。

 一瞬の沈黙を広げてしまい、はっとなってあたしは聞き直した。

「ええと、誰?」

「ぼく? ぼくはB組の久米弥(くめわたる)

「あ、聞いたことがある」あたしは素直に驚いていた。聞いていた話からは想像できないような、優男の風貌だったからだ。「頭がいいんだよね? ライティングとか古典とかの先生がちらっと話題に出していた気がする。十でも取ったの?」

 あたしの通う天保(てんぽう)大学附属中学・高等学校では、十段階評価で成績が示される。とはいえ都内でもトップクラスの学力を誇るこの学校では、最高評価『十』などというのははっきり言ってツチノコよりも珍しい。いや、実際取る生徒はいるのだが、むしろ取れる連中は気が違っていると冗談を言われる始末だ。

 彼は笑った。

「それほどは良くないよ。それに正直、数学はひどいんだから」

「ちょっと、数学二科目とも五だったあたしへの皮肉?」

「ぼく、数Iは三で、数Aは二だよ」

 目から鱗を落とし、顎も落としてしまった。落第生じゃないか。

「だから、ぼくは夏期講習と言えば聞こえはいいけれど、要は補習に呼びだされていたんだ。いやあ、正直、今年は忙しいよ」

 けらけらと暢気に笑って話している。評定十を取れる生徒の神経がおかしいというのは、どうやら事実だったようだ。

 替わって彼が訊いてきた。

「何をしていたの?」

「え、ああ、部活に遅刻して追い出されちゃって、午後の練習から参加するまでの暇を潰していたところ」

「ヒッティングマーチを吹いていたのは?」

「ほら、天保って野球部強いでしょ? だから今年も甲子園に行けるかなあと思って勝手にこっそり練習していたの。負けちゃったけどね」

「そうか、甲子園か! 好きなの?」

「近所の高校三年生のお兄さんが野球留学しているから。すごいんだ、その人、向こうでキャプテンをやっていたんだよ。予選敗退しちゃったけど、静岡の学校だったかな?」

「へえ、憧れなんだね」

「そうだね。常に人のためにチームをまとめるリーダーって、いいものだと思う。野球、好きなんだね?」

 聞き返すと、突如彼は血相を変えた。

「そうや、大好きや! 高校野球も当然好きやけど、タイガーズが『死のロード』に突入せなあかんくなるところは、正直嫌いやな。ああ、もう! 甲子園球場がふたつになれへんのかなあ!」

 彼の理屈はとても間違っている気がする。

 それにしてもかわいいな、とあたしは心の中で微笑んだ。関西で育ったのかな、喋り方も応援しているプロ野球チームも、それゆえの滅茶苦茶な理屈も、素直に生きている証のような気がした。

 あ、と彼が漏らした。

「そういえば、きみの名前は?」

「あたし? あたしは、桜井円(さくらいまどか)。三百六十度の字を書いて『まどか』。だからエンちゃんって呼ばれてる」

「へえ、なるほど」

 彼が笑ったのを見て、あたしはまた訊きたいことを思い出す。

「それで、補講に来ていたのはわかったけれど、うちのクラスじゃないんでしょ? どうしてここに? 帰り道?」

「ああ、いや。才華(さいか)のクラスってどんな感じなんやろか、って来てみたら、ヒッティングマーチが聴こえたんや」

「さいか? 家入(いえいり)?」

 そうそう、と彼は笑った。

 家入才華といえば、うちのクラスではあまり目立たないタイプだ。家のことが忙しいらしくイベント後の打ち上げなどには参加しておらず、どうやら友達が少ないようでもある。ついでに、何の授業でも電子辞書を見つめているイメージだ。

 この前も、あたしの友達が彼女から突如、英語の授業中に「セルビアってEUに加盟してたっけ?」と訊かれたという。答えられないと、跳びつくように電子辞書を手に取り目を皿にしていたとか。

 そんな彼女と彼がどんな関係なのかと考えれば――

「付き合っているの?」

「いいや。かぞ――親しくさせてもらっとるんや、好みも近いし、共通の友達もいるしね」

 何か言い直した感があったので、ふうん、とあたしは冷やかす視線を送ったが、彼はにこにこと笑っているばかりだった。嘘を言わず正直に生きているだけなのか、ポーカーフェイスなのか、それともただ間抜けな人なのか。

「さて、ぼくはおいとましようかな……おっと」

 教室を出ようとした彼は、うっかり教卓を蹴ってしまう。教卓の上にあったペン立てがひっくり返り、ペンが散乱する。

「あかん、あかん。不注意やった」

 ペンを集める彼を手伝い、ペン立てを拾う。

「こんなのがあったんだ。いつの間に作ったんだろう」

 ピンク色の紙が空き缶に巻きつけられていてかわいらしい。微笑ましい工作だ。

「さて、今度こそ。じゃあね」

「またね、弥くん」

 あ、うん、と面食らった彼は曖昧な返事だけ残して去って行った。

 この短時間で、あたしはがっちりと心を摑まれていた。


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