未完成のほんとう
―未完成のほんとう
緋田とのディナーの翌日。
里桜は自宅のベッドの上で丸くなっていた。
左手の薬指にはエンゲージリングが輝いている。
占いプロポーズ男に贈られたものなどとは、比べ物にならないような指輪だった。
食事の後、直接宝石店へ向かい、緋田が選んで里桜に贈った。
カモに贈られた指輪は帰宅すれば直ぐに外し、無造作に捨て置いたものだが今回は未だ薬指を飾ったままだ。
「綺麗ね」
里桜は指輪を見つめ、呟く。
独り言だ。誰が聞くわけでもない。
静かな部屋に反響し、ひどく物哀しかった。
壁の時計に目をやる。
既に正午を過ぎていた。
億劫ではあるが、いつまでもこうして寝ていても仕方がない。
里桜は先ずはシャワーを浴びようと体を起した。
仕事に限らず、形から入るところが里桜にはある。服装や髪型、メイクなど身なりによって気分が変わる。部屋着の状態では、活動する気などとても起きない。
進まない気持ちを奮い立たせるように念入りに身支度をする。
緋田との約束があるわけではない。どこに行くわけでもない。
ただ、気分転換に外に出たかった。
丁寧にブローした髪を手櫛で軽く梳く。
一瞬、迷ったが、初めに贈られたシフォンのワンピースに袖を通した。
散歩程度の外出だ。もっとそれに適した服を着るべきかとも考えたが、何故だかこのワンピースが着たいと思えたのだ。
鏡の前に立てば、幸せそうな女の姿が映った。
必要最低限の物を持ち、部屋を後にする。
薬指の指輪が、里桜の心をいつもより躍らせた。
白いワンピースに映える、燕脂のパンプスが軽快な音を鳴らす。
さてどこへ行こうかと悩んだが、ふとある場所が頭を過ぎった。
「久し振りに、行ってみようかな」
里桜は駅へ足を向かわせる。
そこへ行くのは3年振りとなるのだろうか。散歩、と言うには少し距離があるが思い立ってしまったら、他に選択肢はもう考えられななかった。
幾つか電車を乗り継ぎ、移り変わる景色。車窓からは海が見える。
日の光を反射し、水面を輝かせる海に目を奪われた。天気が良い。
あの時は雨が降っていた。
同じ海なのに、それだけで違って見えることが里桜を切なくさせる。
目的の駅に着き、電車を降りるとかすかに潮の香りがした。
記憶を頼りに、3年前に訪れた場所へと向かう。
里桜が勤めていた会社が潰れ、再就職先も見つからずに途方に暮れていた時期に足を運んだ場所であった。
海を見渡せるその場所で、一人肩を落とす女が、ひどく不幸そうに見えたのだろう。里桜に声を掛ける男がいた。
そこから、詐欺を繰り返す暮らしが始まったのだ。
「懐かしい。変わらないものなのね」
その場所がなくなってしまっているかもしれないとも思ったのだが、そこは以前と変わらないまま里桜を迎えた。
幾分か整備されているようだが、昔を思い出させる要素は十分に残っている。
里桜はベンチに腰を下ろした。頬を撫ぜる潮風が心地好い。
あの時もこれほど清々しい陽気だったのなら、道を踏み外すことなどなかったのではないかと意味のない後悔をしてみたくもなった。
「歌でも唄いたくなるほどだわ」
あまりの心地好さに小さく零してみた突拍子もない提案を、我ながらふざけたものだと苦笑した。
「理緒?」
この空気を味わえただけでも、来て良かったと感じていたそのとき、背後から声を掛けられる。
「紅山理緒さん、だよね」
まさかと思い、振り返る。
「章造、さん?」
里桜が初めてカモにした男が、そこに立っていた。
スリーピース・スーツを着た、白髪交じりの男性。里桜の記憶通りならば、今は52歳。
幾つもの事業を手掛ける仕事人間である。
名を、鈴木章造と言ったはずだ。
初見が得体の知れなかった彼に、咄嗟に『紅山理緒』の偽名を名乗った。その名を呼ぶのは、彼しかいない。
「何故、こんなところへ…?」
あれから3年。
関係を絶ってから一度も会わずに済んできた。それなのにどうして、今になって会うのだろう。
「午前中、商談があってね。この近くで取引先と会っていたんだ」
その後、気紛れでここに立ち寄ったのだと言う。
「理緒がいる気がして」
そう笑う章造は、3年前と何ら変わりなかった。ほっとすると同時に落ち着かなくもなる。
「嘘ばっかり」
言いながら、章造に気付かれないように指輪を外す。
予想だにしない再会に動揺はしていたが、この状態でエンゲージリングをはめていることは避けなければならないと無意識に判断した。
「隣、座っても?」
「ええ」
里桜は右に寄り、ベンチの左側を空ける。章造は「失礼するよ」と添えて腰を下ろした。
「章造さん、お仕事はいいの?」
こんなところで油を売っていても許される立場ではなかったはずだ。彼の過密スケジュールは良く憶えている。
「理緒こそ。仕事のほうは?」
思いがけず返された問いに、瞬間、『紅山理緒』は何の仕事をしていただろうか、と脳裏を過ぎった考えが言葉を詰まらせる。
「ああ、済まない。聞き方が悪かったかな、結婚詐欺のほうだよ」
予期せぬ助け舟に心臓が跳ねた。
「え?」
「紅山理緒も、偽名なんだろう?」
それが大したことではないかのように章造は続ける。
初めから騙す気があったわけではなく、結果として詐欺となってしまったことも彼は感付いていた。
その事実にも『紅山理緒』が存在しないことにも気付きながら知らぬふりをしていたのだと言う。
里桜は表情のなくした目を章造に合わせたまま、話を聞く。
「そこまで知りながら、どうして見逃したの?」
彼のこういった、何でも見通してしまいそうな目が苦手であった。
この目に見つめられることに耐えられなくなり、関係を絶ったのだ。
『紅山理緒』を演じることが、面倒になったとも言える。
「君が『紅山理緒』を名乗ったからだ」
柔らかい笑みをたたえ、章造は言った。
里桜の疑問符に対する答えであるそれが何を意味するかが解らず、きょとんとしてしまう。
「3年前に息子の話をしたことを憶えているかい」
章造の問いに、里桜はうなづく。
一人息子だが、自分は仕事のほうばかりに手をかけ過ぎてしまい、幼い頃からあまり構ってやれなかった。だからか、その代わりのように『紅山理緒』を気にかけてしまうと言っていた。
「理緒といると、息子と重ねてしまって放っておけなかったんだ」
君がやっていることが犯罪でも、そんなことは辞めなさいと諭すことすら思い止どまってしまったのだと。
「それに、私も全てを君に打ち明けてはいない」
「どういうこと?」
「『鈴木章造』は偽名だよ」
慣れない名前を名乗る女を、ほんの少し戸惑わせてやろうと吐いた嘘の名前。
その悪戯の種明かしをする前に、彼女は自分の前から姿を消してしまったが、当時はそれで良かったのだと気にしないことにした。
しかし今、3年越しに彼女の困惑する様を見れて、僅かに満たされる。
「本名は緋田章造。君の名前も聞かせてもらえないかい、理緒さん」
鼓膜を震わす音が、心臓を刺激する。
「私…」
次々と知らされる事実に頭が追い付かない。
何から話し、何から問い質し、どう理解していくのが最善なのだろう。
散らばったものを掻き集め、なんとか形にしようとするような作業を脳内で行なう。何度も取り零しながらそれを繰り返しているところに、電子音が割り込んだ。
章造の携帯電話である。
里桜に一言かけ、ほんの数秒、電話に応ずる。どうやら会社からの呼び出しのようだ。
「時間切れみたいだ。別れの前に、理緒の連絡先を教えて欲しいんだが良いかな」
章造が言うには、自分の番号を教えても良いのだがそれだと一方通行で途絶える恐れがある。
それゆえ、里桜の連絡先をここで聞いておかなければならないらしい。
「3年振りに会えたんだ。これきりになるのはもったいないだろう?」
筋は通っているように思う。
だがそれより里桜は、なんとか連絡先を聞き出そうとする章造に、どこかの誰かを思い出し小さく笑った。
「良いわよ」
章造が差し出す手帳にプライベート用の番号を記し、名前を添えた。紅山理緒でも、赤瀬里桜でもない。忘れてしまいそうな、彼女の名前。
「可愛らしい名前じゃないか」
「名前を褒められたのは久し振りだわ」
ありがとう、とはにかむ里桜に章造は「では、また」と言い去っていった。
運転手が車を近くに着けている。
送ろうかとも言われたが、社交辞令と受け取り断った。
何より、混乱する頭をどうにかしたいということもある。
車が発車してしまうのを見送った後、一呼吸置いて隠したエンゲージリングを日にかざした。
「どうしよう」
息と一緒に零した言葉が、ぐるぐると渦巻く。どうすべきなのだろう?
自宅へ戻った里桜は、ソファの上で膝を抱えていた。
これまでに吐いてきた嘘について考える。
初めは確かそう、借金返済に苦しむ女だった。借金の肩代わりをさせ、私腹を肥やした。
仕事を無くしてしまって借金が返せない。
そう言う『紅山理緒』に章造は金を貸してくれたのだった。
その後は、独立や留学を望んだり、株の購入を勧めてみたり、エンゲージリングを贈らせたり。
薬指の指輪を見やる。
嘘の恋人関係の終わりは、この高価な指輪を手に入れることだった。
指輪を買わせたら彼の前から姿を消そう。そう決めていた。
婚姻届はそのための小道具でしかない。
名前も住所も記入はしたが、受理には戸籍謄本が必要となる。もちろん、そんなもの渡すつもりはない。それ以前に『赤瀬里桜』の戸籍など、存在するはずもない。
緋田は里桜に尋ねた。
これは、仕事なのかと。
そうね、その通りよ。全ては指輪を贈らせるための嘘。
『赤瀬里桜』は、何一つ本当のことなど口にしていない。
存在も、言葉も、何もかも偽り。
携帯電話を解約したら、どこか遠いところへ引っ越そう。そこで何か、真っ当な仕事を初めてみるのも良いかもしれない。
詐欺師を辞めたいと打ち明けたことは偽りだが、詐欺師を続けなければならない理由もなかった。
何か、違う仕事だとしても生活していけるならそれで良い。詐欺を始めたことも成り行きなら、引き際も成り行きに任せてみようかなどと思った。
深く息を吐きながらゆっくり体を横に倒した。スチロールビーズのクッションに顔が半分埋まる。
一仕事終えた清々しさなど微塵も感じない。
残るのは倦怠感と、僅かに温かい気持ち。少しの間だけ、幸せを味わえた気がする。
その分ひどく虚しい思いも抱いてはいるが、だからといってどうにもできない。そのことに関しては気付かなかったことに決めたのだ。振り返ることはしない。
『僕を騙してみませんか』に対する答えは出したのだから。
ソファの上で無理に体を丸める。
就寝には早過ぎる時間ではあるが今日はこのまま眠ってしまおうかと瞼を閉じた。
そのとき、携帯電話が鳴る。
里桜は反射的に起き上がった。
一瞬、緋田からだろうかと過ぎったが、良く聞けば着信音はプライベート用の携帯電話のものであった。
ほぼ毎日、一定の場所に置かれ、鳴ることも触ることもほとんどないその携帯電話に手を伸ばす。
ディスプレイに表示されているのは知らない番号であったが、掛けてきた相手に心当たりがある。通話ボタンを押し、耳に当てれば予想通りの人物が彼女の名前を呼んだ。
「お仕事さぼっちゃ駄目でしょう?章造さん」
空いているとも言えない時間を使って掛けてきているであろう電話相手に、苦笑混じりに言ってやる。
「丁度、切りがついたんだよ」
言い訳のように答える章造に、里桜は「それならいいけど」と返した。
切りがついたわけではないことは解ったが、せっかく掛けてきてくれたのだからと追及はしなかった。
「どうかしたの?」
「いや、大した用があったわけではない」
ただ、3年越しに手に入れた番号に掛け、君の声を聞きたかったのだと彼は言った。
おだてても何も出ないわよ、と笑いながらふと、全て切り捨てて違う街に行くのだとしたら、こうして話をするのはこれで最後になるのだろうかと考える。
そして頭を過ぎった言葉が、意図せず零れた。
「ねえ、息子さんとは仲良くできてるの?」
緋田吏雄とも、もう会うことはない。そう考えていたらいつの間にか口にしていた。
「ちゃんと仲良くしなきゃ駄目よ。前のように、私を代わりにしていたらいけないわ」
何故、いきなりこんなことを言い出したのか自分でも解らない。
もしかしたら、切り捨てていく際の心残りを解消したいのかもしれない。
しかし、そうとは知らない章造は予想外に思っているのではないだろうか。
だが彼は笑って、里桜の問いに答える。
「前よりかは仲良くやれているよ。大学を出た後はうちの会社で仕事をしてくれているし」
「そう」
嬉しそうに話す章造の声を聞いて、里桜は安心した。
3年前の彼なら、こうは返してこなかっただろう。
「もう少ししっかりしてくれたら、こちらとしても安心して仕事を任せられるんだがね」
「でも章造さん、楽しそうだわ。良かった」
これほど明るい声で話す章造は、記憶にないくらいだった。
本当に仲良くやれているんだろうなと判る。
「いやいや、近頃はおかしな遊びをやり始めてね。どうしたものかと思ってもいるんだ」
「遊び?」
「フィッシング詐欺の真似事だよ。私の口座からくすねるんだ。まあ翌日には返してくるからふざけてるんだろうな」
全く、仕方がない、と章造は笑う。
「毎回巧妙に手を変えてくるからついつい騙されてしまってね。銀行やらカードやらいろいろやられたよ」
「そう、なの…」
里桜は僅かに混乱していた。
つまり緋田は、ただ父親から金を騙し取っていただけなのだろうか。
いや、それ以外の人間にも行なっていたかもしれないと考えたが直ぐに打ち消した。
だとしたら勘の良い章造が、こんなふうに話すわけがない。
「どうかしたのかい?」
話を半分も聞いていなかった里桜に章造が尋ねる。随分と沈黙してしまっていたようだ。
「あ、ごめんなさい。何でもないわ」
「そうか」
「あの、章造さん。お忙しいでしょうから今日はもう切るわね。また、今度は私から連絡します」
努めて明るく、里桜は言った。
章造は幾分か不審に思ったようだが納得し「連絡を待っているよ」と言って電話を切った。
携帯電話を元の場所に戻すと、再びソファに横になる。
さて、どうしようか。
指輪を買わせて、彼を騙せたと思っていた。
だが、どうやら騙されていたのは自分のほうであったようだ。
彼は自らの素性など、当たり障りのない範囲でしか話してはいなかった。騙されていたことが悔しく、同時にどこか寂しい。
知らないうちに安心感を抱いていたのかもしれない。
彼も同じ詐欺師なのだから大丈夫だと。
しかし彼の詐欺行為など、身内に対する悪ふざけ程度でしかないのだろう。他人から騙し取った金で生きている自分とは大きく異なる。
そして、彼は章造に自分のことを聞いたのではないだろうかという考えが頭から離れない。
だとすれば出会いから何まで、里桜は彼に騙されていたことになる。
全て、嘘だったのだと思えてきた。
散々人を騙してきたのに、いざ自分が騙されると考えてもみなかった感情を抱いていることに気付く。
「あたしって本当、自己中心的で嫌な女」
苦々しく呟き、目の前のローテーブルに置かれた携帯電話を手に取った。