偽りの隙間を
人との関わりかたなんて忘れた。
生きていく方法なら模索している最中だ。
自分を偽らなきゃ、生きてはいけない。
―偽りの隙間を
待ち合わせ場所は、チェーン展開もしているコーヒーショップで、里桜はカプチーノを注文した。
相手の男は、里桜が好まないような甘ったるい名前の付いたものを注文し、平然と頬張っている。
その様を見るだけでも胸焼けがしそうだ。
「携帯、返して」
里桜が口を開く。
もう何度目の催促か解らない程なのに、男は返却する意思を見せない。
「まだ来たばっかでしょ。ねえ、それよりリオさんって漢字でどう書くの?」
生クリームをすくい上げながら、里桜の要求をするりと躱す。
「そんなの、あなたに関係ない」
「僕もリオって名前なんですよ。緋田吏雄。官吏の吏に、雄牛の雄」
『役人の男』だなんてちょっと堅苦しい名前でしょ、と緋田は笑った。
一向に目的の方向に話が進まないことに里桜は苛々していた。
その上、目の前の男のペースに飲まれていくような気さえする。
里桜の苦手なタイプの人間だった。
幾ら自分が『自分でない者』を装おうと心掛けても、奥深くに追いやったはずの自分が出てきそうになる。
「里に桜。名前、教えたんだから携帯返して」
「里桜さんか。いいな、桜って綺麗だね」
春生まれなの?と問う緋田は、未だ里桜の携帯電話を取り出す素振りすら見せない。
里桜は適当に「そうよ」と返すものの、このまま緋田が返す意思を示しそうにないのならば諦めて帰ろうかと考えを巡らせていた。
「里桜さん、苗字は何?フルネームを教えてくれたらこれ、返してあげる」
緋田が、里桜の待ち望んでいた物を取り出す。
「赤瀬里桜」
答えるやいなや、緋田がストラップを指にかけて揺らす携帯電話に手を伸ばす。
しかし、触れるか触れないかのところで躱されてしまった。
「返してくれる約束でしょう」
「話は最後まで聞いてよ。返してあげるけど、食事でもご一緒どうですか」
「絶対、嫌」
もうこれ以上乱されたくない。
里桜は携帯電話を諦めることに決めた。
「もう良いわ。話にならない。携帯はあなたが処分しておいて」
僅かに残っていたカプチーノを飲み干し、里桜は席を立つ。
「え、ちょっと待ってよ。携帯なら返すからさ」
帰り支度をする彼女の行動に、緋田は焦り、慌てて携帯を差し出す。
里桜はそれを乱暴に受け取った。
「勝手に拾って頂いた上に出し惜しみまでしてくれてどうもありがとう。さようなら」
そう言い残し、コーヒーショップを後にした。
「今日ほどの厄日はないわ」
里桜は道すがら毒づく。
これだけ不愉快になるのも珍しい。不愉快になるのは、本来の自分。
里桜が演じる女は、いつでも聞き分けが良く、決して負の感情を露にしない。
それなのに、緋田の空気に当てられると『赤瀬里桜』の調子が狂い出す。
里桜はそんな自分に憤りを感じた。
今まで上手くやってきた。自らを偽って、本来の自分を隠して、なんとか生きてきた。
「あんな、数時間前に初めて会った奴なんかにペースを乱されるなんて」
アパートに着くなり、服も着替えずベッドに飛び込んだ。
歯痒い気持ちは治まらない。
ふと。思い立ち、アロマキャンドルに火を灯す。短大生だった頃、アロマキャンドルの収集を趣味にしている友人がいた。
彼女に付き合い、購入してからは里桜も時折こうしてアロマを焚く。
お気に入りのグリーンアップルの香りが部屋を満たすように漂い始めると、里桜は改めてベッドに横になった。
「携帯の解約、明日で良いかなあ」
気分が乗らないのが本音だった。
携帯電話をこのままにしておくことにメリットなどはないのだが、今から出掛ける気にはなれない。
緋田から返ってきた携帯電話をバッグから取り出し溜息を吐く。
「あれ?メール」
チカチカと光るLEDに気付き携帯電話を開くと、新着メールの受信を知らせる表示が現れる。
占いプロポーズ男にしか教えていないメールアドレス。里桜の憂鬱さが増した。
放っておきたかったが、出来ることなら上手く別れたい。返信くらいしてやろうか、などと思い立ちメールを確認する。
「は?」
メールはカモからではなかった。
送信者の項目には登録した覚えのない『緋田吏雄』の文字。
(あいつ、あたしの携帯触ったな)
苦々しい思いに満たされる。
恐らく、携帯電話が緋田のもとにある間に、彼は里桜のメールアドレスを確認し、更には自分の情報を電話帳に登録したのだろう。
まさか、携帯電話に残る今までのメールのやり取りやデータフォルダまでも見られたのではないだろうかと、言い知れぬ不快感に苛まれたが緋田からのメールの出だしには、それらを否定する文が添えられていた。
本当かどうかは疑わしいが、少しくらい信用してやっても良いかと思い、メールを読み進める。
里桜がコーヒーショップを去った数分後に受信されたそのメールは、相変わらず里桜を食事に誘う内容だった。
里桜には何故、緋田がここまで自分を食事に誘うのか解りかねた。
メールに記されているのは、雑誌で紹介されるほどの有名レストラン。
里桜も、かつてのカモに連れて行ってもらったことがあるが、予約を取るのも大変だったのだと散々言われた。
(恋人と行くつもりですっぽかされたのかしら)
壁に掛けられた時計を見る。
緋田が指定してきた時間までは、まだ数時間余裕がある。
不意に、誘いに乗ってみようかと言う気持ちになってきた。
詐欺師であるから、とも言えるが、他人に出来得る限り深入りしないよう、させないようラインを引くところが里桜にはある。
しかし、緋田という男は、そんな里桜とは逆に隙間を見つけてはその人の奥深くまで入り込もうとしているように思えた。
何故彼は、わざわざ人に関わろうとするのだろう。
そう首を捻る里桜であったが、ふと、何かの衝動に駆られ画面をスクロールさせてみた。
何もないのではないかと不安になるほど下に進めば、挑発的な一文。
『僕を騙してみませんか』
たかが携帯電話のメール画面上の文字に過ぎないはずなのに、ひどく自信に満ち溢れた緋田の表情が目に浮かぶ。それが無性に腹立たしく、且つその挑発に乗ってやろうと思わせた。これまで緋田にやられてばかりのような気がしなくもない。
元来、里桜は負けず嫌いなところがある。
自分の生業が詐欺師であることを知る緋田には、関わらないほうが良いことは理解している。
だが、これまで数ヶ月付き合ってきたカモと、今日限りで縁を切ろうとしているのは確かだ。次のカモを掴まえるまでの繋ぎは欲しい。
里桜は、緋田について記憶を呼び起こしていた。
簡素ながら上等そうな服を身にまとう緋田は、なるほど里桜のカモとなり得る。
詐欺師として見た目の印象には人一倍気を使う里桜は、他人のファッションを無意識に観察する癖があった。
服装から受ける緋田の印象はすこぶる良く、ファーストインプレッションがあれでなければ間違いなくカモに選んでいただろう。
詐欺とは、相手が自分のことをいかに信用しているかによるところがある。カモが、詐欺師の吐く偽りを、できる限り信じるほうが良い。
だが、緋田は里桜が詐欺師であることを始めから知っている。
そこに信用は存在せず、はなから疑ってかかるわけだ。
これでは詐欺にはならない。
つまりは里桜にとって仕事にならないのだ。
そこまで考えを巡らせたところで彼女はふと気付く。
自らからが築き上げた偽りの自分が、綻びかけているように思う。
柄にもなく携帯電話を忘れ、掛けてみれば聞こえた緋田の声を、即座に彼だと気付けてしまった。交わした言葉など取るに足らず、時間にしても内容にしても大したものではなかったにも関わらず。
携帯電話が手元に戻った後には、もう2度と会うこともないと思っていたはずなのに、食事の誘いに乗ろうとしている自分がいる。
『赤瀬里桜』とはそのような女性ではなかったはずだ。
作り上げた偽りの自分に僅かに出来た隙間。その隙間に緋田が割り込んできているような気がした。
里桜は詐欺師として、どのような人間がカモとなるのか十分に理解しているつもりだ。
「あたしみたいな人、あたしが詐欺師なら狙うわね」
自虐的に笑み、一言こぼすと体を預けていたベッドから降りてクローゼットを開けた。