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ゆらめきはうたかた

 最近、不眠症気味だ。

 いや、正確に言うと違うかもしれない。僕の疲れた身体は意識を失うと、昏々と八時間余りは眠り込んでしまうのだから。

 でも眠れない。眠りに就けないのだ。夜の十二時や一時に布団に入って目を瞑っても、意識は冴え冴えとして、常に何か思う対象を探してしまう。それは寂しさに似ている。だから僕はスピーカーに静かな音楽をかけて、何かを思いたいというぼんやりとした欲求を満たしてやる。僕の心は夜の空気に流れるそれらの旋律を捕まえ、詞は頭の中で過去の物事たちと絡みつき、彼らのビジョンを呼び起こす。寂しさは消える。しかし、今度は逆にそれらに意識が引きつけられ、凝っていた眠気は、箒で掃かれるように一層遠くへ追い払われてしまうのだ。そんな時、僕は布団から這い出て、小窓から月光の射し込むキッチンに立ち、水道の水をコップに注いでゆっくり飲んで、換気扇の下で煙草を一、二本吸う。じっと立ったまま、換気扇から流れる研ぎ澄まされたような空気を吸い込み、僕は煙を吐く。そうすると少しずつ、煙草の煙が脳に考え事をやめるように訴えかけてくれるのが感じられる。

 僕は灰を捨てて、布団に身を潜り込ませる。もう、あからさまな欲求は姿を消している。頭の中には何もなく、僕の目は消された電球の辺りをさまよう。僕は目を瞑る。遠くで車の通る音がして、それ以外は何も聞こえない。部屋の外では一切の時間が消えてしまったようだ。だけど心の底に落ち葉が擦れるような、微かなざわめきを感じて僕は眠れない。僕は意識をなくすのが怖いのだ。さっきまでの目立った欲求が残っているわけではない。これは僕の身体と心が表面に隠れた芯で願っていることだ。何かをつかみたいわけではない。僕の周りのものを消したくないのだ。僕は何かを眺めて安心したい。僕はひとりになりたくない。僕をひとりにしないで欲しい。だから、僕は目を瞑りたくない。そう、知らない僕が思ってる。

 僕はそれを誤魔化すために、今度は自分から考え事をする。眠りに似合った漠然としたこと。僕は死について考える。

 死は鏡のように見る者によってその性質を変える。鏡は奢った者が見ればその景観を美しくし、自分に引け目を感じる者が見た時にはその表面にくすんで映す。

 死とは恐怖だ。自分の持っていた何もかもを失うこと、過去も未来も現在の自分も。確実なものが冗談のようになくなってしまうことの恐怖。しかしそれは見る者がある境を越えると同時に色を変える。死とは希望の象徴になる。今までの失敗を全て無に帰し、縛りつけられた罪悪感を解放する一回性の行為。深い海底からゆっくりと浮上するように、引き算がもう繰り返すことをやめていく――。

 僕は意識の薄れていく中で幾度もそんなことを考える。次第に空が脱色されて、爽やかに淡く光りだす。それを細く開いた瞳で認めて、僕はその身がようやく敷布団に沈んでいくことを感じる。

 そうして僕は眠りに就く。死というものが僕の中で、希望の方へとその色を変えようとしている動きを確かに見つめながら、僕は眠りに就く。


 冬休みが終われば卒業式が来る。冬に落ちた校舎は灰色でじっと動かない。午後の授業を終え、もう暮れた陽を思いながら四年間を過ごした学舎を眺めると、驚くほどに感慨がなかった。朝野瑞晶という人間がその人間性を毎日をかけて培ったはずの場所。これからを生きる支えを固めてきたはずの場所。マフラーを掠った北風が、指先を冷たくして、僕は手をポケットにしまった。

 何事も最期というのは呆気のないものだ。続けてきた過程がいくら濃密であっても、終わりの敷居を越えた向こうにはなんにもない。悲しさもなく、切なさもなく、嬉しさもなく、期待もない。僕の心はロボットみたいに空っぽだ。空っぽに風が通り抜ける。寒さも心には届かない。心は何一つ思わない。

 止めていた足を動かして、僕は正門を抜けて枯れ葉の吹かれた帰路を辿る。

 もう少しで冬休みが来る。


 町中は聖誕祭の雰囲気を強くしている。山に近く寂れた場所なのに下宿周りの家々の軒先にも赤や緑の派手な装飾が飾りつけられている。絵の具で塗られたように濃い曇り空の下で、それらはぴかぴかと光り輝いている。

 歩いて人気のないバス停まで来ると、ベンチには先に七綾由美の姿があった。足元にナップザックに近い形をした灰色のリュックを置いている。彼女が大学に持っていってる見慣れたものだ。

 僕が時刻表を確認して振り返ると、彼女がこちらを見つめていた。

「寒いね」と僕が言うと、彼女はどこか遠くを見るようにして「そうだね」と返した。彼女は細身の身体にパーカーのついた紺色の薄いブルゾンを着込み、その裾からはベージュのロングスカート。モノクロの背景に馴染んだ落ちついた雰囲気を纏っていた。

 僕は彼女の隣に座って目の前の路地を眺めた。そしてなんとなく彼女がいつ処女を失ったのかを考えた。出会って三カ月が過ぎた頃だった。隣で彼女はゆっくりと煙草に火を点けた。もう二年も昔のことだ。時は過ぎ去って過去になる。あれ以来僕と彼女はほとんど事を為してない。身体の匂いは目の奥に染みついていても、していない。する必要もない、そういうこともある。けれど、この二年の間に僕は彼女の優しさに触れ、長い黒髪を目に焼きつけた。

 煙は真っすぐに吐かれた。

 一時間に四本ほどのバスは十分ほどするとやって来た。


 長方形のバスに揺られて見慣れた町並みを過ぎていく。僕は彼女の隣に座り、車内の動きに伴って左右に揺れた。他に乗客は少なく、席はぽつぽつと空いていた。横を見ると彼女は窓の外を見ていた。僕もつられて通路側からその方を見る。流れる景色に彼女の後ろ姿。それはまるで一枚の写真だ。彼女がいるだけで僕の生活が彩られた今までを思う。そして今を。

 少しして不意に彼女が進行方向に向き直り、僕の目線に気がついた。

「どうしたの?」今まで何度も聞いた台詞を言う。そして僕は今まで通りそれを返す。

「いいや、なんでも」

 僕も車の前に目を戻す。ふと、彼女の左手が僕の右手に触れた。細い指先。彼女は微笑んでひとりでに頷いた。

 僕はそれを握り返す。あたたかい手だった。

 灰色の町を抜ける。


 いくつか停留所を過ぎても、ステップを踏んで乗り込んでくる客はそれほど増えなかった。僕らの他には優先席で楽しげに会話する初老の女性が二人と仕事先に向かうようなスーツの若い男性が一人いるくらいだった。平日の午後にどこに向かうでもなくふらついている人など少ないのだろう。学生は学校に通い、社会人は会社に勤めている。しかしバスが赤信号に止まり、交差点を眺めるとバスの中には人が少なくても通りには車が多かった。町の中心部への距離が縮まっているのだ。空を見るとあんなに濃かった雲も随分と和らいでいた。僕は視線を下げ、道端に建ったガラス張りのビルの方を見た。するとその外壁には無機質な四角いバスが映っているだけだった。そこには僕も彼女も見えなかった。そんなことがなぜか意外に思えた。彼女は頭を少し傾けて、僕の右肩の上に軽くのせた。肩と肩が触れ合い、彼女の存在を隣に感じる。僕も自分の頭を彼女の方に少し寄せた。信号が青に変わる。

 駅前に商店街があり、そこが町で最も発展している。そのためだろう、近くなると自然に乗客も多くなった。大学生のような若者もいるが、買い物に出かける主婦が目立つ。乗客が含み持つ人生を包んで車は走っていった。

 僕らは駅に着く三つほど前で下車した。

 バスから降りると、雲の隙間から早くも陽が斜めになっているのが見えた。閉ざされてた冷気がさっと身体を纏う。午後三時の陽は鋭く赤く射していた。

 由美は僕の二、三歩先を歩いた。

 商店街のアーケードに入り、値踏みをするように左右の店を眺めて歩く。影が後ろの僕の足元に映る。

 このアーケードには人気のラーメン屋があって、そこに並んだ記憶が蘇る。去年の秋口に二人で傍に立った金木犀の香りを嗅ぎながら列に並んで、店で人気だという坦々麺を二人で注文した。それは身体が温まるくらいとても辛かったけれど、胡麻の香りがしてとてもおいしかった。半分ほど食べたところで、僕を見た由美が辛さで目を潤ませながらも「おいしいね」と言っていた。口元がスープで赤くなっていたのを思い出す。

 こっちに下宿してきた時に生活用品を揃えた雑貨屋や、貯金を下ろした郵便局を横に過ぎる。由美は不動産のガラスに張られた紙片を眺めたり、擦れ違った小さな犬に屈んで挨拶をしていたが、少しすると小ぢんまりとした喫茶店の前で足を止めて振り返った。

「ここにしよっか」

 僕は頷いた。

 僕は店内に置かれた週刊誌を眺めてコーヒーを飲み、彼女は持ってきた読みかけの文庫を取り出して、字面に目を落としながらカフェオレを飲んだ。二人の間には会話は殆ど存在しなかった。代わりに灰皿から立ち上るロングピースの副流煙だけがあった。

 僕と彼女は一度ずつコーヒーとカフェオレをお代わりした。今度は僕がカフェオレで彼女がコーヒーを。

 二時間ほどして店を出ると、外は陽が沈んだところだった。辺りには夕陽の余韻と忍び寄る夜の予感が入れ違い、漂っていた。

 僕らは闇が落ちるアーケードを歩き、川に架かるコンクリートの橋を渡った。目線の先には線路を走る電車が見える。銀杏の木が枯れていた。

 彼女は川の流れに目を向け「私にとって大事なものって何なのか、分かんなくなる」と呟いた。

「大事なもの?」僕は訊き返した。

「毎日、過ごしてく中で必要なものって、そりゃあ出てくるけれど、本当に自分が好きで、大事だったものって何なのか、たまに分からなくなるの。見失っちゃう」

「たまにってことは、その後に思い出すってこと?」

 歩道を進む僕らの横を騒音を上げる車たちが走っていく。

「ううん、考えるのをやめるの。すぐ日常に戻らないといけないから」

「ふうん」と頷く頭の中で、僕は今まで捨ててきたもののことを考えた。

 僕らは駅が鼻の先といったところで、定食屋に入り夕食をとった。彼女は食べ終えた後も煙草を吸わずに、僕が二杯目のビールを飲むのを楽しげに見ていた。


 夜行列車に揺られて住み慣れた町を後にする。車内の白い明かりが窓に当たって、僕の顔を映す。バスとは逆に今度は僕が窓際に座った。

「さよならには、つらくないこともある」彼女は窓の方を眺めて言った。

 窓の外に広がるのは一寸の隙間もない夜だ。遠くに町の見える風景が終わってからは雑木林が続いていた。暗がりに何かを求めるように、各々の手を伸ばしている。

「何それ」と僕が訊くと彼女はなんともなしに答えた。

「知らない。どっかの詩集に載ってたの」

 それから思い出したように足元のリュックに手を入れた。由美が取り出したのは個包装紙にくるまれた黄金色のワッフルだった。

「さっき行った喫茶店で買ったの。キャラメル味だって」

 齧ると、しっとりした触感から強く甘い匂いが鼻腔を刺した。

「おいしいね」

 僕の声を聞くと彼女は満足したように、目を細めて「四つ買ったけど、残りの二つは取っとこうね」と言った。

 列車の中はがらりとしていた。夜の中に存在を放つ天井の蛍光灯が空元気を発するように、並んだシートを照らしていた。時々がたりと揺れるけれど、何事もなく電車は僕らを運んでいった。

 ワッフルの最後の一口を食べ終えた彼女は、手元で一本の煙草を弄っていた。

 さも愛おしそうに、何かとても大切なものがそこに宿っているかのような面持ちで。銘柄の印字から葉が覗く方へ、包み紙の表面をなぞる。そしてフィルターの部分を親指で擦った。

「車両は全面禁煙だから」

 しまいなさい、吸わないうちに。僕が言うと、彼女はしばらくそれを物惜しそうに触った後、胸ポケットの箱へとしまった。箱の横に赤いライターが顔を見せていた。

 彼女はシートに身を沈めて宙を見たり、窓に目をやったりしていたが、いくらかして静かになったかと思うと、隣で寝息を立て始めていた。僕は長らく外に流れる黒い森やそれを抜けると現れる町の光の粒を眺めていたが、ガラスに映る僕の向こうの由美が気になって彼女にそっと向き直った。彼女はすうすうと息を吐いて、目を瞑っていた。彼女の顔が穏やか過ぎて、それはもう世の中は平和なことしかないというふうだったので、僕は少しおかしくなってその頬を軽く指で擦ってみた。

 すると、くすぐったかったのか、彼女は姿勢を崩して僕にもたれかかってきた。

 バスの時とは違った、ずっしりとした彼女の重みが僕に伝わった。


 僕らはいつしか約束をした。

 ベッドに横たわる僕らの足元には用済みを待つ夕暮れの陽が射し込んでいた。

 梅雨が雨を降らせ切る前の夏の始まりを感じる頃、僕らは夜の間に借りてきた映画を見て、酒を飲み、明け方になると狭い布団で共に眠った。大学では普通に授業のある日だったけど、僕も由美も出席点には余裕があった。昼過ぎに目が覚めた僕は、隣で眠る彼女をそっと揺り起こし、余っていた玉ねぎと人参でコンソメスープをつくって、トーストと一緒にお昼にした。その後は少し、埃が目立つ小さなテレビで騒がしいワイドショーを眺めていたが、どちらからともなく知らずに眠った。

 目が覚めると夕方だった。二度目の起床だった。

 僕が胸元にあった髪を撫でると彼女は頭を動かした。

「もう夕方だよ」僕が言うと、彼女は顔を布団にうずめたままゆっくり口から言葉を吐いた。

「時が経つのは早いね」

「いつだって終わりは目の前だからね」

「そう」彼女はむっくりと顔を上げて窓の方に瞳を向けた。そして、その時の中を泳ぎゆく魚たちを眺めるような目で、「死にたいの?」と訊いた。

「死にたいよ」僕も当てもなく水の中を彷徨った気分になって答える。

「私もそう思うよ。ゴチャゴチャした塊が頭の壁にぶつかる音が聞こえるわけでもないけど、誰かの呪いのように脳の中で反芻してるの、お前は死ぬべきだって。死んだ方が全て丸く収まるって」

「うん」僕は夕陽に漂う空気中の埃を見る。「うん、苛々してるわけでもないんだ。誰かを嫉妬する気ももう失せて、誰かを助ける勇気も糸口がなくなって、もう何もない」僕は彼女に片腕を回し、体温を確かめて、もう片方の手で髪を触った。息が首筋にかかる。

「私たちにできることって本当にあるのかな」

「由美のことは分からないけど、僕にはない。もう残された道は予防線を張り巡らせて、その隙間を身体を震わせながら縫い歩くことしかない。それでも誰かの迷惑になる」

「それが怖い?」

「怖くはないさ。ただ面倒なだけ」

「面倒なことは多いね」彼女は眠そうに軽く欠伸をした。

「ただ何もない。これまで何もなくて、これからも何もない。それだけのことなんだ」

「うん」彼女は大きく頷いた。自分の内なる大事なものを一生懸命肯定するように頷いた。「じゃあさ、」由美は右腕を僕の背中に回して、ぎゅっと力を入れて二人の身を引き寄せた。肋の骨に彼女の身が重なるのを感じる。「いつかさ」

「うん」

「いつか……、私が瑞晶を殺してあげるよ」首を髪でくすぐりながら言う。「私が瑞晶を助けてあげる」

「いや」と僕が言うと、彼女は「うん?」と猫のような声を出した。

「いや、それはダメでしょ。あの世にまで罪悪感を持ちこませる気?」

 彼女はふふっと笑った。「そうだね」

「そうだね、じゃあいつか一緒に死のうね。それならフェア」

 そう言って彼女は腕に力を入れた。

 いつかの話。一年ほど前の話だ。

 列車の車輪の音を聞きながら、そんなことをずっと昔のことのように思い出した。窓の外はどこまでも広く、遠く、暗い藍空が広がっている。まだ夜は明けそうにない。この空を見上げてる人はどれだけいるだろう。どれだけの人が今、マンションのベランダから、帰り道の路上から、社内の窓から、思い出の場所から、天の方に手を伸ばして希望の在りかを探しているのだろうか。

 それなりの時間が経った時、それなりの結果が目の前に来る。

 それが希望ならいい、と僕は思う。

 僕の場合はどうだろうか。すっきりとは分からない。けれど、僕の目の前にも、今、来ている。いつか交わした限界が満ち潮のように迫ってきている。何もしなかった僕の前に。何も思わなかった僕の前に。

 今が約束の時なのだ。

 蛍光灯の光が反射した窓の向こうに僕は見る。

 あの時。彼女が僕を抱き寄せた時。彼女の力を感じて、僕の中にさらさらと何かが満ちる音が聞こえたのを、僕は迷った挙げ句に口にしなかった。これからもしない。


 海の見える知らない町で降りる。

 駅を出ると、すぐに潮の匂いを感じた。坂の上に駅は建っていて、鄙びた感じの町の向こうに海が見えていた。坂を下に歩きながら、彼女に「眠れた?」と訊くと、「うん」と頷いた。確かに彼女はよく眠っていた。

 前を向いて、歩きながら彼女は訊ねた。

「でも、瑞晶は寝れなかったよね」

「寝たよ」

「本当に?」

「うん」

「どのくらい?」

「一時間半くらい」

「寝てないじゃん」彼女は言った。「どっかで休む? もう旅館にチェックインしちゃおっか。どうせ数日泊まることになるんだし」

「いや、大丈夫。それよかちょっと町とか見て回ろうよ。折角遠くに来たんだし」

 ゆらめく足を地面につける。微かに現実感がない。寝不足特有の症状だ。

 彼女に言いつつも、僕は眠気の凝る頭に嫌気が差していた。けれどいつものことなのだ。それにその日さえ乗り切れば、翌日には普通に戻れる、そういうものだ。

 冷たい風が頬を撫でた。


 僕と彼女は大きめの荷物を持って、その眼下の町を歩いた。

 平坦な住宅地に下りると、海は建物の陰に隠れて見えなくなった。そこには潮に混じって生活の匂いがした。木造家屋のペンキの剥げたベランダには洗濯物がはためき、僕の横を黄色帽を被った小学生たちが連れだって駆けていった。寒気を突き刺す鋭い陽の下、その中の一つ、赤いランドセルにぶら下げられたキーホルダーがカチャカチャ鳴る。

「遠くに来ても、こういうところは変わんないよね」彼女がこそっと笑った。

 随分緑に侵略された蔦の蔓延る小学校や駐車場のやけに広いコンビニなんかを見ながら進んでいくと、向こうに港が見えてきた。左右の住宅がそろそろといなくなり、思ったよりも視界はすぐに開けた。

 目の前に海が広がる。

 太陽の光に舐められた水面は、遠くも近くもきらきらと白く輝いていた。波間に飛沫がたち、潮が角度を変えるごとに、更に眩しさが強調され、思わず目を細めてしまう。茫たる海を覆う空には真っ白なかもめが二羽、遊ぶように上下に揺れて飛んでいた。

 僕らはちっぽけで人気のない港の横から続く堤防に沿ってゆっくりと歩を進めた。普段感じることは決してない、けれどもどこか懐かしみのある海の空気を全身で受け止めた。風は海上から注ぎ込むように吹いていて鼻の奥がつんとした。

 岩場に挟まれる形で砂浜がところどころに見えた。ごつごつした岩は荒涼とした風情を逞しいものにして、砂浜にぽつんと置かれ、壁の板がめくれかけた小屋はスペースドッグを思い起こさせた。スペースドッグ、つまりライカ犬だ。彼は宇宙へ放られる時、どんな心境だったのだろう。嬉しかったか、悲しかったか。神風のように、立派な志をその身で感じていたのだろうか。

「ねえ、覚えてる?」彼女が流れる雲の下、灰色の硬いコンクリートを歩きながら言った。

 僕は道端の壊れかけたような自動販売機でダイドーの缶コーヒーを一本買った。取り出し口の端には蜘蛛の巣の残骸が張りついていた。「何を?」

「私は小さい頃天使になりたかった」

 彼女は微かに首を傾げて、太陽が雲に見え隠れする空を見上げていた。それははっきりと、心の底に沈殿した記憶を音を立てないように掘り起こす仕草として僕の目に映った。

「知ってる」僕も歩きだして、缶を上下に軽く振る。中の液体が内側の壁に阻まれて、その輪郭線を絶えず壊しているのが手に伝わった。それは頭で何かを考えることに似ている気がした。

 初めて聞いた時は笑いそうにもなったけれど、よくよく聞いてみるとその内容は納得のできるもので至極彼女らしいものだった。

 僕は過去のことを思い出しながら言った。

「天使になって天国へ昇る。天国は楽しいはずだから。がっかりすることもなくて、沁み込んでくる悲しさもない。別れもないし、理不尽な怒りもない。そう思ってた。だけどある時、気づくんだ。そのための天使になるのはすごく難しいことだって。死んだ時に天使になれるのは本当に優しかった人だけ。でも優しく生きるってことはどんなことなのかって言われたら分かんないんだ。他人の気持ちを考えて動いたって自分の心を殺してしまう。自分の正しい道を信じたって結局他人を傷つけてしまう。それに何よりそんな真っすぐな気持ちになれなくて、視界が変わる毎秒一瞬ごとに自分の心は揺れ動いて感情的になってしまってダメなんだって。嬉しがりたいのに他人を恨んでしまったり、怒りたいのに涙が出てきたり。あんまり頑張れもしなくて、気づけばどっかに行きたいだなんて思ってる。実のところ、天使になりたいだなんて現実逃避の所産でしかなくて、ここにあるのは、腐った果物を勇気の欠片と信じようとして信じられない弱い自分だけなんだって。

 こんな感じだっけ?」

 僕はなるべく慎重に視線で記憶の影をなぞりながら、手元では缶のプルタブを開けた。

「そうそう」由美がおかしそうに笑った。

 この話を僕が受けた時の由美は、今とは全く逆の様子で、暗い部屋の隅で身を縮こませて泣いていた。彼女がこういうことを話すのは珍しい。彼女は自分の弱さを外の世界に見せることがどうしてもできないタイプだった。だからその時も彼女は随分追い詰められていたのだろう。その時も敢えて深くは訊かなかったけれど、確かに彼女は溜め込んできた何かの置き場所を見つけられずに苦しんでいた。彼女はそれを外側に解放してやることもできず、それらが内側で嫌な色に変色して錆びついていくのを見ていることしかできなかった。そんな時は僕の言葉なんて少しも届かないことも分かっていたから、僕は何も言わずにそっと彼女の肩を抱いた。どう思おうと、彼女は目を瞑った。

「あのことって今でも私の中に消えないで留まってるの。それが不思議なんだけどね。何だってうつろってどこかにたゆたって霞んでいっちゃうものだけど、これは違うから」

「それは苦しいことじゃない?」

 僕が訊くと彼女は咥えた煙草に火を点けながら、口の端を上げて見せた。「そんなことないよ」

 煙が見えたのは一瞬で、すぐに風に押し流されて見えなくなった。

「誰にとってもどうでもいいことだとしても、残るものってあるのかもしれないね」

 僕は持っていたのを思い出し、缶を口につけた。ごくりと飲み込む。そして顔をしかめた。

「どうしたの?」

「甘い」僕は苦々しげに言った。コーヒーとはいうものの、それは女の子がお菓子に使う材料の分量を間違えたかのようにミルクと砂糖が多くて、気分が悪くなるほど甘かった。

「甘いの?」

「うん」僕が頷くと、彼女は言った。

「ちょっと貸して」

 僕が缶を渡すと、由美は煙草を持ってない左手で受け取って、一口飲み込んだ。そして僕を見て目をぱちくりさせた後、またごくごくと胃に流し込んだ。

「そんなことないじゃん、普通だよ」

「え、ほんとに?」

 平気な顔をする彼女が疑わしくなったがすぐに納得する。彼女は甘いものが好きなのだ。生クリームとかプリンとかそういったものが。

「飲む?」

 差しだす彼女に僕は首を振る。

「もういいよ、あげる」

「そう?」

 僕は手持無沙汰になった腹いせに彼女の吸いかけの煙草を奪って、燃え尽きるまで吸ってやった。そんな僕の隣で由美は笑う。


 その後、僕らは町の片隅にある蕎麦屋であたたかいソバを啜り、バスに乗って予約をしている旅館へ向かった。

 その旅館は町から離れ、少し山に入ったところにあり、周りを自然に囲まれ、静養の趣きを強くしていた。建物自体は良くも悪くも普通の和風旅館だったが、風情のためか、人の来なさそうな立地の割には、もう既に玄関前の板看板には僕らの他に二、三の団体客の予約が書きこまれていた。

 僕らはまだ陽も昇っていたので、部屋に荷物を置いて、周辺を散策することにした。建物の裏には透き通った川が流れていた。川を挟んだ向こう岸からは山が広がっており、こないだの紅葉の頃にはさぞ美しい景色が川に映えていたに違いなかった。しかし冬の今は言うまでもなく広葉樹の葉々は落ち切って、岸辺の木々はこちら側に覆いかぶさってくるように見え、自然の嶮しさが際立っていた。川辺に下りて水面に近づくと、流れは曲線を描き、小石の転がる底までくっきりと見えた。手を触れると、きりっとした冷たさが指に残った。

 ここまでバスがやってきた舗装された道は旅館で行き止まりとなっており、その先は枯れ葉が地面に溶け込んだ土の道が山の中へと続いていた。僕らはその山道を歩いていった。左右の木々に囲まれた道は日光も阻まれ薄暗かった。冷たく、感情を持たない針葉樹林たちが、僕らをひっそりと迎えていた。音といえば、土を踏む二人の足音と、時折聞こえる枝葉の風に擦れる音くらいなものだった。

「静かなのは好き?」僕は隣を歩く彼女に言った。

「静かなのは好きよ」彼女は答えた。

 足元には人の気配を感じさせない捻じれた枝や、腐ってボロボロになった葉があるだけだった。それに穴の開いたどんぐりなんかもあった。彼女はちょっと進んだ頃にまた口を開いた。僕は時間の経過を忘れる心地がした。彼女の唇が開く音さえもが耳に入ってくるようだった。

「いくら心を静かに保とうと思っても毎日を過ごしてたらさ、部屋の隅とか吸い殻の欠片とかから必要ないのにもやもやとかが湧きあがってきて、頭の中に入ってくるの。それは入った途端に刺を持っ て、私のことを攻撃してくる。昨日の私も今の私もその前には無力になって。そうなるともう、そんなつもりじゃなかったのに私は緊張を張り巡らせて、自分のことを守ろうとせざるを得なくなる。そういうのって疲れるしね。だから自ずとそうさせてくれる場所は好き。許してもらうって感覚に近いのかな」

「今でも誰かと近くにいると緊張する?」

「大抵はね」彼女が何気なくでも俯くと頬の影が増して、過去の悲しい物事に目を向けているように見えた。

 彼女は昔僕と会って半年経つくらいまで、僕と同じ布団で寝る時にも身を強張らせ、なかなか寝つくことができなかった。それはだんだんとゆるくなっていき、今では僕より楽に寝つけるようになったが前は違っていたのだ。彼女は周りに警戒心を強めて生きてきた結果、誰にも心を開けない状態になっていた。誰にも柔軟に仲良く合わせられるようにしてきたから、誰にも自分の領域を侵せないように、自分でも分からないほど自分のことを隠す癖がついていたのだ。

 遠くで聞こえだした水の音が少しずつ近くなってきた。

「滝かな」

 彼女の言ったことは当たっていた。左右の森に押されるようにして細くなる道の先には、開けた場所があって、そこには崖がせり立ち、その上から陽に照らされた水流が勢いよく注ぎ落ちていた。久し振りの日差しを感じて僕らは近くの木の根元に腰を下ろした。土の湿り気が服を通して感じられる。

 彼女は煙草を一本吸った。僕はその煙の行方をただ眺めていた。

 彼女は足元の土に埋まって変色した飴の袋を引っこ抜いて、指で弄り、「いい場所だね」と言った。

 陽にきらめく水飛沫を見ると、僕の頭も空っぽになった。彼女の言った通り、こういう場所にいると日常に据えた思考回路は全く意味を為さずに消滅してしまうようだった。僕の周りには木々が立ち尽くし、前には川になる滝があって、隣には彼女がいて、それだけだった。ちっぽけな世界で、僕はひとりだった。


 旅館に来て一日目は疲れていたのか、すぐに眠れた。眠り過ぎるほどだった。起きて、手元の目覚まし時計を探るともう正午に近い。

 僕らは身支度をして軽食を済ませると、外に出た。雨の気配はなかったが、空は全体的に冬特有の厚い雲に覆われていた。僕はポケットから下宿でプリントしてきた紙を取り出し、広げて道取りをした。旅館前の道を町の方に少し戻り、狭い国道を西に歩いた。畑の見える景色に路上の片側に並び立つ森が圧迫感を与えていた。人の姿は全くなく、鎖で繋がれた犬の鳴き声もない。そもそも人家を見かけなかった。

 十分ほど歩いたところで、朽ちかけて文字の判別も危うい標識を見つけた僕らは道を左に曲がり、駐車場にそうあるように敷かれた砂利の上を歩き、じきに森の中へと足を踏み入れた。

 昼間なのに鳥の声も聞こえなかった。昨日あったような川もなく、心の拠り所となる太陽もなかった。

「本当に明日で終わるの?」彼女は訊いた。

 僕は、僕らが掻き鳴らす足音を聞いていた。その足音は誰にも届かないほどに惨めなものだったが、僕らの起こすできる限りのことのように思えた。僕はそんなことを考えてから言った。

「そうだよ、そのために来たんだ」

 明日。彼女の言葉を反芻する。そうだ、明日だ。明日で全てが終わる。

 僕らは出発前に決めていた。うやむやにならないように先に計画を立てていたのだ。家を出てから三日以内に全てを終わらせること。この世からの決別を図ることを。僕がそれを提案した時、彼女はすぐに頷いてくれた。「いいよ、死にたいもの」という声は今でも頭に残っている。もし首を振るようなら、僕はすぐにでも彼女とは別れるつもりでいた。僕のことを分かってくれない彼女など、いても悲しくなるだけだからだ。しかし彼女は頷いた。僕の全てを肯定してくれるように頷いた。

 それはしかし些か予定外れなことだった。意外だった。そう思ってから何が意外なのかを考え、本当のところ自分は死にたくないのではと案じた。いつも口癖のように死にたいなんて言っていたのは嘘だったのではないかと。僕は首を振る。そんなことはない、僕はすぐにでもいなくなりたい。悲しさも苛立ちも今すぐに手放してしまいたい、そのためには死ぬしかない。じゃあ何が予想を外れていたのか。もしかして僕はひとりになりたかったのか、いや、そんなはずはない。あるはずがない。

 だんだんと道は急な上りになった。材木の嵌め込まれた階段を進み、折り返しては上り、片側が壁でもう片側が崖下になった細い道を抜けた。登るごとに空気の温度は下がり、吐き出される息は濃く濁ったが、身体は汗ばんだ。言葉少なに、息をはあはあ切らしながら進んでいくと、急だった坂はその傾きをなくしだし、ようやく目的の場所に辿り着いたことを僕らに知らせた。閉塞感のあった森も、間引かれたように木々を減らし、視界の空も広がった。

 平らになったところを歩くと、もう近くには殆ど木々はなかった。代わりに果てしない空と轟々と鳴る海が目の前に現れた。

 そこは岩場のような風情で、切り立った、まさに断崖絶壁になっていた。プールに備えられた高度の高い飛び板に思えるそれに僕らが向かおうとすると、「ちょっと」と後ろから声が飛んできた。振り返ると、森がなくなる辺りに設けられた木のベンチに一人の男が座って、こちらを見ていた。

 立ち戻って、僕は「何ですか?」と訊ねた。

 彼は五十歳も過ぎたと思われる痩せ型の男で、刻まれた皺と日焼けした顔が印象的だった。漁師なのかもしれない。彼は目を細めて言った。細めても目の奥の瞳はぎらぎらとしていて、ただならぬ用心をこちらにも窺わせた。

「観光だと思うけど、危ないから気をつけないといけないよ。ただでさえ自らという人が多いのに、間違ってということがあってはいけない。そんなつもりでもないんだろう?」

 僕は彼の近くに「命を大事に!」と掲げられた看板があることに気づいた。やはりここはそういう場所なのだ。僕は笑って言った。

「大丈夫です。僕らはここが有名だから来ただけで。親切にありがとう」

 それを聞くと、彼は緊張を幾分和らげた様子で「そうかい、でも気をつけるんだよ」と言って、わきに置かれた厚い手帳を拾って、そこに目を落とした。どうやら彼はここの見張り番で、手帳はその暇潰しの道具のようだった。

 僕と彼女は再び向き直って、崖の先に行ってみることにした。地面の終わるところにも、ビルの屋上なんかとは違って、柵もロープも張られていなかった。見張りの人を置く前にまずはそういったものが必要なのではないだろうか。

 ここは目ぼしいところの少ないこの地の、希少な観光スポットの一つだ。なるほど、ここは都会では出逢うことの叶わない自然の雄大さが感じられる。しかし、それ以上にこの場所は知る人の多い自殺の名所だった。毎年五人はここで自分の人生に区切りをつけている。

 空を埋め尽くす灰色の雲の下で、波は荒れていた。

 崖の、それも突き出た部分に進むと、崖下から吹き上げる潮風が強く身体に当たった。髪が後ろになびく。来る時に温められた体温が下がるのが分かった。切り立った根元の岩に白くうねった波が激しくぶち当たっては壊れ、またそれに重なった形で次の波がぶち当たっては壊れていった。海面から五十メートルはあるだろうか。ざあざあという潮騒が途切れることなく耳に響く。

 僕は横に立つ彼女の左手に自らの右手を絡めた。指の交差する確かな感触。僕は荒れた海上を眺め、小さな声で言った。「好き?」

 彼女は手を強く握った。「うん、好き」

「ずっと一緒にいてくれる?」

「いれる間は、ちゃんといるよ」

「うん、……ありがとう」

 口から出た声は、自分のものとは思えないほどに弱々しかった。

 彼女は不思議だったかもしれない。なぜなら僕はずっと死にたがっていたのだから。けれどやはり僕はまだ怖かったのだ。聞こえは悪いが、彼女を巻き込む罪悪感よりも、なぜだか湧き起こる孤独感の方が強かった。ああ、僕は生きているだけでは救われなかったのだなという諦め混じりの強い悲しみ。その都度僕は自分に言い聞かせる。それももう終わるんだ、この感情さえも。そしたら何事にも悩まなくてよくなる。大丈夫だ、心配いらない。もうひとりでいなくて済む。

「でも……」彼女は目線を眼下の波に向けながら呟いた。

「うん?」

「でも、私は帰ってもいいよ。それでも、そうだとしても私は君を許したげるよ」

 それを聞いた瞬間、僕の中に特別強い風が吹きつけた。彼女の指からそっと手を離す。

「まあ、いいや。どうせ明日だよ」僕は踵を返して言った。心の中に向けた目を無理やり、現実に引き戻した。大丈夫、とひとり右手を握り締める。

「くるしいことはいつもゆらめき。いつの間にか始まって、形もなくて、姿もない、まるでうたかた、泡のように切ないかけら。つらいことはいつだって、ぱちんとはじけて、それで終わりね」

 僕は彼女を見た。彼女はくすっと笑って「誰かが言ってたの。現実は直視するにはつら過ぎるから、つらいことは夢みたいになるといいねって。朝目が覚めたら忘れるように一緒に消えたら心地いいねって」

 僕は笑って見せようとしたが、それは随分と卑屈なものになって僕の顔に張りついた。


 その日は夜になっても、僕は眠れなかった。

 同じ布団の中で彼女が僕を抱きしめて言った。

「本当に帰らないの?」

 僕が頷くと彼女はためいきに似た暗い吐息を落とした。

「私のことが好きじゃない?」

「好きだよ」

「それでも帰らない?」

「帰りたくないんだ。僕の戻れる場所なんてもうどこにもないんだよ。君にはあるの? あるなら帰るといいよ」

「君を置いてなんて帰れない」

「本当にそう思ってる?」

 疑わしげな視線を送った先で彼女は躊躇いもなく首肯した。「そうだよ」

 彼女は腕の力をゆるめると、ふらっと布団を抜けて月光の射し込む窓側に歩んで、広縁にある籐椅子に腰かけた。僕は鐘を力強くごおんごおんと何度も鳴らすような悲しみの音を耐えるので精一杯になっていた。無害だったはずの思いのかけらたちが、次々と仮面を脱ぐように牙を剥き始めていた。それらは心のあちこちで狂ったようにわんわん鳴きだし、そこから必死に逃げるように、僕の腕は布団の中に彼女を求め、さまよう。

 彼女は穏やかな声で、はがれそうになる僕らを紡いだ。

「前に私が死にたいって言ったこと覚えてるかな」

「うん」僕は感情が溢れだしそうな喉から声を一筋搾りだした。

「その時って、私、『お前は死ぬべきだ』って声が頭の中で聞こえてくるって言ったと思うんだけどさ、――」

 彼女が黙ると一切の静けさが空間を満たした。そうすると窓下を淡々と流れる川のせせらぎが微かに聞こえた。

「あの時の呪いみたいな声って、結局自分の声なんだよね。でもそれに私は気づきたくなかったんだ。いつまでもそんなこと知りたくはなかった」

「そうだね」僕は布団の上に座った。もう心の中は刺々しいわめき声で溢れ返っていた。僕は強い口調で言う。「でも、じゃあいいじゃん。それが君なんだろ。ならそれでいいじゃないか。『死ぬべきだ』なんて声を思って、それに怯えたがってる、それこそが本当の君なんだ。君は元から死にたくなんてなかったんだ。むしろ自分が死の危険にさらされることなんて少しも考えてなかったんだ。怯えているのが好きなだけだ。違うかい? 君は初めから僕のことなんて考えてなかったんだ。僕のことなんて、少しだって考えたことなかったんだろう?」

「……そんなことないよ」

「そうに決まってるよ」

彼女はしっかりと僕の目を見て言った。「そんなことない。私は君が好きだよ。だからここまで来た。そうじゃなかったら来ないよ」

「そうじゃない。君はそんなことをしてる君が好きなだけだ、君が好きなのは僕じゃなくて君自身なんだよ」

「でもひとりが怖いんでしょう?」

 僕はたまらなくなって立ち上がった。彼女を睨むと、彼女もまた僕から目を離さなかった。彼女の瞳は月の明かりを受けて潤み、今にもそこから感情の球が零れ落ちそうになっていた。何で分かってくれないんだ、と思った。僕は彼女が憎たらしくて仕方なかった。余計に悲しくさせる彼女が僕は大嫌いだった。睨むことから一歩を踏み出せない僕に彼女は、俯き気味な翳りのある表情でぼそっと呟いた。

「……私から離れられないくせに」

 視界がなくなって、意志だけが刃物のように光った。

 畳を強く踏む音が少し遅れて耳に届く。

 目覚まし時計が足に当たる。

 障子に手を掛ける。

 そして、僕は、

 ――僕は、

 僕は、彼女の直前で、反射的に右足を前に出し、拳を振り上げていた。

 そして、勢いよくその拳を振り下ろそうとしていた。

 彼女の目はしっかりと見ていた。

 僕は動けなくなって、一瞬のうちに自分が何をしようとしたかを理解した。宙で止まった右の拳が細かく震えているのに気がついて、僕はどうしようもなくいたたまれなくなった。すぐにその手をぶらりと落とす。

 二人の間の空間は凍ってしまったようだった。どんな意志も通じない冷たさがそこにあった。目線だけがいまだに交差していた。僕はいてもたってもいられなくなって、先に目を逸らし、踵を返してそのまま外に飛び出した。どうしたらいいか分からなかった。どうしたら正しい行動が取れるのか分からなかったのだ。混乱した頭を抱えて目の慣れない暗闇を走った。

 揺らぐ視界を、物を避け、枝を踏み、とにかく前に向かって走った。何かを考えるのが恐ろしかった。揺れる視界を落ち着けたくなかった。僕は誰かになりたくなかった。力まかせに僕は走った。

 ――結局、僕はひとりなんだ。誰も分かってくれない。僕は今もひとりで、今までもひとり、それだけなんだ。当然のことで、自明のことだ。いくら物理的に彼女との距離は近づいても、心の距離はどんどん遠ざかる。彼女だって僕のことなんか知りもしないし、分かろうとすらしない。彼女は僕のことなんて全く好きじゃないんだ。彼女は僕を好きではないし、僕が彼女を好きな証拠もどこにもない。もう、何も、全くない。僕の周りには何もいない、誰もいない。最初から。いつまでも。ずっと、ずっと。ひとり。僕は、ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。死んじゃいけない。生きなきゃ、僕は。生きなきゃ。生きなきゃ。でも、怖い。僕は怖い。怖いんだ。でも。僕は、ずっとそうだ。そうしなきゃ。そうしなきゃいけないんだ。嫌われたくない。僕は、嫌だ。嫌だ。僕は、僕は、これから、ずっと、ひとりで生きて、ひとりで生きて、嫌だ、嫌だ、怖い、ひとりで生きて、ひとりで生きて、嫌だ、でも、そうしなきゃ、生きて、生きて、僕は、生きて、僕は、嫌だ、僕は、僕は、……僕は……ひとりで……僕はずっと……僕はひとりぼっちで、……僕は、僕は、僕は、ぼくは、ぼくはぼくはぼくはぼくはぼくはぼくはぼくはぼくは、

 ずっと、

 ぼくは、

 ひとりだ。

「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 叫び声が口をついて出た。もうそうなると止まらなかった。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 感情は堰を切ったように流れ、最早制御の仕様はなかった。僕は頭を振って跪き、蹲って自らの肩を抱きしめた。足元にぼたぼた涙が落ちた。頬が熱くなっているのを感じる。何も見えない。耳には冷たい静寂と僕の声だけが混ざり合って反響を繰り返した。僕の声も僕の声じゃないみたいに聞こえた。何もかもが怖かった。何もかもが嫌だった。纏わりつく不快感を押しのけるように僕は泣いた。声が枯れ果てるまでいつまでも泣いた。


 ――――。

 ……………………。

 何分経ったか、分からなかった。

 気がついて傍の木に手をついて立ち上がると、僕は森の中にいた。知らずに山の中に入っていたようだった。辺りに明かりはなかった。ただ、高い木々の隙間から月や星の光が注いでいた。

 孤独はまだ頭に凝っていた。ただならぬ感情は吐きだし尽くされもう勢いを失っていたけれど、少し寂しくなった僕は、煙草を吸おうとポケットを弄った。そこで初めて自分が寝間着であることを知った。上下スウェットのままだった。ズボンの裾は泥で汚れ、袖にはところどころ小さな枝が刺さっていた。足も裸足のままだった。痛さは感じなかったが、へばりついた土が冷たく固まっていた。

 無いかと思ったが、折れかけた煙草が二本と潰された旅館の小ぶりなマッチ箱が都合よくポケットにあった。マッチも数本折れ、その機能を果たさなそうに見えたが、なんとか火を起こし煙草に点けることができた。僕は、煙を暗闇に吐きながら、ふらふらと歩き出した。頭の中には彼女が浮かんでは霞み、また浮かんで、これまで生きてきた僕の記憶と相まった。

 辺りに道がないことを確認し、僕は木と木の間をすり抜けて当てもなく歩いた。さっきとは違って、足の裏は地面に刺さった枝先や突き出た根を踏むごとに痛んだ。傾いた三日月が雲に隠れず照らしてくれることだけが救いだった。距離の感覚もなかった。どこまで歩いても人工的な明かりは見えず、同じような木々や茂みが並んでいるだけだった。

 しばらくして大きな木の袂で座って休憩していると、静寂の中にどこかで水の流れる音が聞こえた。僕はそろそろと立ち上がって耳を澄ませた。もしかしたら旅館裏の川に繋がっているかもしれない。僕の足は自然と音のなる方へ進んでいった。方角が分からなくなる度に、立ち止まって神経を研ぎ澄ませた。歩いて、止まって、また歩いて、そんなことを繰り返した。じきに川が見えた。夜空を映して流れていた。僕はその下流に沿って、歩く。

 歩きながら先ほどの自分の思考がいかに自分勝手だったかを思った。僕は、僕を好きといってくれる彼女を彼女が好きなだけだと思ってしまっていた。そうとしか思えなかった。だから本当は彼女は僕のことが好きなわけではないんだと。でも、それは自分本位の妄想だ。本当のところは分からない。いくら考えたって分からない。けれど、きっと僕は、僕こそ、僕を好きな彼女を彼女が好きだと思い込みたいだけだったのだ。僕は独りよがりたいだけだ。ひとりを怖がってるくせに、彼女の言う通り、誰からも離れられないんだ。怖くて何にも手放せない。それも手を伸ばしてくれる彼女みたいな人は特に。捨てられるわけがないんだ。それほどに自分は臆病だ。卑怯で、臆病で、どうしようもなく弱い。でもそんな弱さからも踏み出せないのだ。それすらも他人の所為にする。本当のところは、どうなんだろう。そんな弱い自分がどうしようもなく好きなのかもしれない。そしたら、それはどうしようもなく、どうしようもないことだ。考えたら、酷過ぎて、醜過ぎて、そんな自分が愛おしすぎてなんか笑えた。声に出して少し笑った。

 先細った川は途中で土に吸い込まれるように消え失せ、その代わりと次第に道の幅が広がってきた。それに伴って視界も広がる。木々は途中で立つことをやめていた。僕は森を抜けた。

 見覚えのある場所だった。月が、星が、満天の空に輝き、ひとりでしかない僕を照らしていた。暗く、黒くたゆたう水平線が見える。僕の前には海があった。

 それはあの終わりの場所にしようとした、海に面して切り立つ崖だった。見回すと今日来た時のようにベンチに座る見張りの人の影も見えた。自殺を止める係にもかかわらず、どうやら眠っているらしかった。影がわずかに前後に揺れていた。

 僕は音を立てないように突き出た崖の先まで歩み、遥か下、崖に打ち寄せてははじける波を眺めた。飛び降りようか、と思ってみたが、僕の中にはもうそんな強い意志はなかった。僕はいつも誰かの一押しを待っていた。

 彼女に会えた僕はきっと幸せだった。彼女は僕に似て現実に常に倦んで、抜け道をいつも探していた。僕がいつも悩みを打ち明けられるのは彼女だった。彼女しかいなかった。僕も彼女の言葉をたくさん聞いた。嬉しいことも、悲しいことも、美しいことも、見苦しいことも。僕らは限りなく不器用で、限りなく馬鹿正直だった。僕は彼女との思い出を夜空に浮かべては指でなぞった。波が打ち寄せ、崩れるたびに、記憶が蘇っては、次の記憶に打ち消されていった。どれもが大切な宝物だった。

 その場に座ると疲れがどっとでて、全身痛いほどに寒かったが、あっという間にまどろんだ。瞼が重く、視界を閉じる。

 まどろむ頭に、誰かの声が蘇る。

「楽しいことはいつもゆらめき。いつの間にか始まって、形もなくて、姿もない、まるでうたかた、泡のように切ないかけら。嬉しいことはいつだって、ぱちんとはじけて、それで終わりさ」

 こっちのが僕らには似合ってるよ。そう思うと、そうとしか思えなくて少しおかしく笑みが零れた。

 それを最後に、意識は途切れた。


 眩しい光が瞼の奥に射した。

 僕はうっすらと目を開ける。目の前には壮大な海と、その上で輝く太陽があった。立ち上がろうとして、肩に何かが触れているのに気がついた。

 僕の隣には、三角座りをした彼女が膝に顔を埋めて眠っていた。

 僕が隣にもたれると彼女はわずかに顔を上げた。眠そうに薄く、細めた目を開ける。

「眠れた?」僕は訊いた。

「……うん」彼女は嗄れた声で呟いた。「折角ベンチで見張ってたのにそのうち寝ちゃった」

 そしてゆっくりと僕を見た。

「酷い顔だね。目が腫れて、頬も泥だらけだよ」そう言って折り曲げた人差し指で僕の右頬を擦った。

「帰ろっか」僕は天上に向かって伸びをした。

「ねえ」彼女は海に目を向けて言った。

「何?」

「明るいね」彼女は言った。

「そうだね、明るい」僕も言った。

「私たち、光にはどんな時でも照らしだされちゃうね」

 海は依然として蒼色の波を操って、底の知れない深さを保っていた。そんなものを前にしたら僕らなんて、僕らの人生も問題にならないほど瑣末なものでしかなかった、嫌になるほどに。

 それでも僕の隣には彼女がいた。由美は言う。

「……よく眠れた?」

「うん、ぐっすりと」僕は笑った。僕の声も掠れていた。

「それはよかった」彼女も微笑んだ。黒い髪が光に透けて茶色に見える。

「ねえ、ワッフルがあと二つあるんだ。食べない?」

 どこまでも広い空の下に、僕がいて、どこまでも大きな海の前に、君がいた。二人がいた。それだけだった。

(了)


楽しさを寂しがらないように。

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