過誤
13
わたしは墓標を後にした、道を戻り黄泉比良坂を下った。高天原に出ると雪が降っていた。常春の世界に降る雪。樹は神世界までも消そうとしていた。
止めなければ、何という愚かなこと・・・
静まりかえった高天原には神の気配はなかった。
わたしは樹を目指して足を進めた。
全てが消え去る中で樹は記憶通りの場所にあった。高天原の中央に。
だが、わたしが用があるのは、今の樹ではない。
わたしは樹の幹に手を当てた。
『お帰り伊邪那美神、ずっとまっていたんだよ』
『わたしは戻った、悠久の時を越えた約束の為に』
『では、決めたのかい』
『決断の時は今ではない、さあわたしを連れて行きなさい、約束の時に』
樹に曖昧な表現はダメだ、思い出すんだ正確な時間を。
『2030年5月5日 15時50分それが約束の時』
世界が巻き戻って行く、五年の年月を越え、わたしは過去へと戻っていく。
わたしは五年前の過ちを正しに行くのだ。
時間が止まり、また未来へ向かって進み始めた。
これから直面することに、わたしは気持ちを整えた。
わたしは樹の根本に座り、その時を待った。
やがてあたりを見回しながら、漆黒の髪を腰まで伸ばした美少女がやって来た。
大きな黒い目に利発そうな光を宿している。
少女はわたしに気が付くと立ち止まった。目は驚きに見開かれ、みるみる間に涙がたまった。幼いわたしには、今の姿はお母様に見えるのだろう。
わたしは腕を広げ、少女を迎え入れた。少女はわたしの胸に飛びこんで来た。わたしはその髪をお母様がしてくれたように優しくなでた。少女は噎び泣き、わたしの服を涙でぬらした。
この少女はいま、絶望の中にいるのだ。
幼いわたしはお母様が亡くなった寂しさに押しつぶされていた。
わたしを生んだことで命を縮めたお母様の宿命を呪っていた。
そして願ったのだ、世界なんてなくなればイイと。
樹に願ってしまったのだ、幼いわたしは何も分からず、してはいけない願いをしてしまったのだ。
わたし達は長い時間そうしていた・・・。
やがて少女の鳴き声は小さくなり、少女は顔を上げわたしを見つめた。
「お母様じゃないのね」少女はそう云った。
「えぇ、ちがうわ」
「あなたはだれ?」
「わたしは、あなた・・・」
「えっ?」
わたしは少女を抱きしめた。
「お母様は、あなたを生んだ時、あと五年の命だと云われていたの。でもあなたを生んで、もう五年長く生きることが出来た。お母様にとってあなたと過ごした一日一日が宝物だった。だから、もう泣くことはやめなさい、それではお母様は安心して休めないわ」
「だったら、おねいちゃんはどうして泣いているの?」
わたしは自分の頬を伝う涙に初めて気が付いた。
「いま、お母様の愛を感じているの、あなたと一緒にいることで、自分がどれほど愛されていたか・・・」
「おねいちゃんのお母様も居なくなってしまったの?だから悲しいの?」
「いいえ、わたしは嬉しいの」
「お母様が居なくなってしまったのに嬉しいの?」
「ちがうわ、お母様は居なくなってしまうのは悲しいことよ、でもお母様はわたしに沢山の愛をくれたの、だから今度はわたしが愛するばんなの。わたしは愛せることが嬉しいの」
「誰を愛するの」
「自分を愛するの、お母様が愛してくれた自分を、誇りをもって」
「愛は人に与えるモノだって叔母様は仰っているわ」
「えぇ、その通りね、でも人は自分を愛することが出来るから、他の人のことも愛することが出来るのよ」
「難しいわ」
「大丈夫、大丈夫よ、あなたなら・・・時が来れば分かるわ」
「・・・」
少女はわたしの膝に座り直し、わたしに寄り掛かりながら、なにか考えているようだった、そしてそのまま寝てしまった。
『樹よ、いまはまだ決断の時ではない、伊邪那美はこのありのままの世界を愛し、愛おしんでいる』
『伊邪那美よ、お前はこの世界が汚れていくことを嘆いてはいないのか』
『わたしは自分を愛するように、この世界を愛している、いかにこの世界が変わっていこうとも、愛は未来に希望を見いだす』
『わたしに望みはないのか?』
『幼き我のために、その庇護を』
一振りの枝が、わたしの横に落ちた。
わたしはそっと少女を膝からおろし、樹の根本へ寝かせると、その手に枝を握らせた。
樹に近づいてくる人影が見えた。
『さあ樹よ、わたしを元の時へ戻したまへ、わたしが生きるべき場所へ、家族の元へ』