神子
母がこの世を去った時、一人残されたわたしは悲しみに暮れ願いをした。何を願ったのかは憶えていない。目が覚めた時、わたしの悲しみは暖かいに温もりに包まれ、遠ざかっていた・・・。
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柔らかな春の日差しの下をわたしはゆっくりと歩きながら校舎をふり返った。都立神代高校、此処から今日わたしの新しい学園生活が始まった。初日は先ず先ずと云ったところだ。担任の挨拶の後の目立たず、控えめな自己紹介。数人の同級生との当たり障りのない会話。早速、隣の席の佐々木紀子と言う友達も出来た。ちょっと馴れ慣れしい感じだったが、控えめな美少女を演じるわたしには丁度良い感じだ。
叔父が理事を務める、お嬢様学校を蹴って都立の共学にしたのは正解だった。まるで活気が違う。
この先に待ち受ける体育祭、文化祭、修学旅行と斯く斯く然々の行事に心は浮き立った。そうだ、クラブも決めなければ。体育会系はダメだ、目立ってしまう。自分を抑えれば良いのだろうが、争い毎となると自分を抑えておけなくなる。うん、文化系にしよう。ブラスバンド、写真部、映画研究会、演劇部、美術部、文芸部、園芸部、パソコン研究会、漫画研究会、SF研究会、猟奇研究会・・・コレはダメだ、自分のことを研究することになりかねない。うん、明日の放課後は部活巡りに当てよう。
わたしは側を歩いて居たクラスメートに手を振ると角を曲がった。次の角を曲がると車が待っていた。
高校に入るのを機会に一人暮らしを決意したわたしに、叔父夫婦が付けた条件の一つが登校の送り迎えだった。女の子の一人暮らしで何かあってはいけないと言うのが叔父の主張だったが、わたしに何があると言うのだ。痴漢、変質者、誘拐犯、どれ一つとっても、不幸になるのは相手だろう。わたしに手を出したことを生涯後悔することになるだろう、いや、あの世に行っても後悔することになるのではないか?
わたしは人に見られないよう素早く車に乗り込んだ。
運転手の石田はバックミラーでわたしが乗ったことを確認すると静かに車を出した。
控えめな石田は「今日はいかがでしたか?」とか余計なことは聞かない。叔父夫婦にわたしの様子を伝えるよう、言い含められているのだろうが、祖父母の代から我が家に使える笑顔を絶やさない寡黙な男は誰が本当の主人かを知っていた。叔父夫婦には適当に伝えてくれるだろう。
わたしは窮屈な襟元を緩めると、クーラーボックスからスポーツドリンクを取り出し口を付けた。
わたしが一息つくのを確認して、石田は口を開いた。
「神世庁から遣いの方が、ご自宅でお待ちで御座います」
「早速なの?」
「私もそう申し上げたのですが、先様も入学までは待っていたと仰りまして」
「仕方ないわね、それがわたしの仕事だから、今晩は新月だし丁度良いわ」
石田はそれ以上何も言わず、車は高層マンションの地下駐車場にゆっくりと進んだ。一般のエントランスを過ぎ、専用スペースの前で止まった。
「お嬢様お気を付けて」
「ありがとう」わたしはそう言うと車を降りた。
駐車スペースの壁に手を当てると、センサーが静脈認証を行い壁が開いた。
車が走り去る音を聞きながら、わたしは専用エレベーターに乗り込んだ。ボタンを押すまでもなく、エレベーターは最上階のロフトへと登り始めた。
「マリー」
『はい、静音様』柔らかい声でコンピューターは答えた。
「お客様は?」
『もうお着きです、応接室でお待ち頂いております』
「知っている顔?」
『風日西宮様で御座います』
「静奈叔母様ッ」わたしの心は弾んだ。
叔母様と会うのは一年ぶりだ。実際には祖父の叔母に当たるので大大叔母様になるのだが。わたしはタダ、叔母様と呼んでいる。マリーは叔母様を名前『志奈津静奈』ではなく官名で呼んだ。
「叔母様が神世庁の正式な使者なの?」
『はい、そのように伺っております。お着替えが終わるまで、もう少しお待ち頂くよう、お伝えしますか?』
「いいえ、叔母様ならきっと制服姿を見たがるハズだわ」
『それでしたらスカーフを直された方が』
わたしは慌てて、襟元のスカーフを整えた。全身を見回し確認する。
「これで良いかしら?」
『はい、おキレイでございますよ』
「ありがとう」
エレベーターの扉が開くと、手入れの行き届いた前庭が広がり、その奥に屋上の約半分を占める二階建てのロフトが立っている。わたしの家だ。高層階の風を防ぐため、庭も含め周り全てをガラスが囲んでいるが、木立が上手くそれを隠し、白いロフトは天空庭園に立つ宮殿を思わせる。
一人暮らしには贅沢だが、ここは信託財産を使わせてもらった。
といってもこのロフトだけでなくマンション自体がわたしの持ち物なので、家賃収入で投資は回収できるし、数年後には利益を生む。財産運用としては悪くない。
玄関を入るとわたしは待っていたメイド姿のマリコにカバンを渡した。マリコは、マリーのヒューマン型インターフェース端末だ。マリーは全ての家事をマリコを使って行っている。メイド服姿なのはわたしの趣味ではない。わたしは普通の服を着るよう何度かマリーと話をしたのだが、マリーには家政婦の定義があるようで、それにはメイド服は譲れないモノらしい。
急いで玄関ホールの左の扉へ向かった。そこが応接室だ。
扉を開けると、わたしを見て叔母様が優しく微笑んだ。叔母様はもう120歳を超えているはずだが美しい容貌は衰えず、わたしの母親、いや姉でも通るだろう。体も引き締まった見事なプロポーションでスーパーモデルも真っ青である。癖のない漆黒の髪をロングヘアーにしている。わたしの黒髪は叔母様譲りだ。そして何よりわたしを虜にするのは深い叡智と慈母愛を感じさせる瞳だ。
わたしは叔母様に駆け寄りそうになるのを堪えて、ゆっくりと部屋の中へ進んだ。
「お久しぶり御座います、風日西宮様」わたしは正式な挨拶をした。
「東宮様もご健在でなによりです」
叔母様とわたしは同時に笑い声を立てた。このような挨拶をするにはわたし達の間は近すぎた。叔母様とは親子も同然なのだ。
「一年見ない間に大きくなったわね、静音」
「この制服どうかしら?」
「とても可愛いわ、良く見せて」
わたしはクルリと回って見せた。叔母様がわたしに近づいてくる。
刹那、叔母様の手刀がわたしの顔を襲った。わたしは体を開き手刀を受け流すと、左で叔母様の手首を捉え、同時に右手の手刀を叔母様の喉元に放った。
シュッ、当たる寸前で止める。
「ちゃんと稽古も続けていたようね」叔母様がそう言ったとき、わたしの脇腹に触れる手刀に気づいた。
「合格かしら?」
「もちろんですとも」
今度こそ叔母様はわたしを抱きしめた。わたしは叔母様の懐かしい匂いに顔を埋めた。
わたしは高天原の神と人間の母の間に生まれた神と人間のハーフ、神世庁では守神子と呼ばれる存在だ。
神の子を産むことは人間にとって大きな負担となる。元々体が弱かった母は、わたし生んだ後は寝込むことが多く、亡くなる最後の二年間は床で過ごした。お母様が亡くなったのはわたしが十歳の時だった。
父神とは会ったこともない。
志奈津家は守神子を生むことで家の繁栄を日本の神世界である高天原の神々に約束されていた、その代償が母であり、わたしであった。
祖父母も叔父夫婦もわたしには優しかったが、それは壊れ物を扱うような優しさだった。多少の引け目も感じていたのだろう。
だが、叔母様は違った。わたしを特別扱いすることもなく、わたしが駄々をこねれば手を挙げてしかった。叔母様はわたしを厳しくしつけ、礼儀を教え込んだ。そしてそれ以上に愛情を注いでくれた。わたしを普通に扱ってくれたのはお母様と叔母様だけだ。お母様が亡くなった後も、守神子としての孤独を味わうことなく過ごせたのは叔母様のおかげだった。
先代の守神子としての役目を終えた叔母様は、わたしが生まれた翌年には現界を去り、高天原に昇るはずだったが、わたしの為にそれを先延ばしにしてくれた。人とは違う時間を生きる守神子にとってそれは辛いことだった。愛する者に先立たれる責め苦を受けることになるからだ。結果、叔母様は孫のように可愛がったお母様を亡くし、わが子同然に愛した祖父母を見送ることになった。
だから、わたしにとって叔母様は母親代わりだけではなく、目標とする人でもあった。守神子として生きるということを叔母様は自分自身の身でわたしに伝えてくれたのだ。
約1年前、叔母様は現役の守神子を示す東の宮の役職をわたしに譲り、西の宮に身を引いた。そして根津にある志奈津の本家を離れ、守神子の引き継ぎに関する雑務に専念した。守神子の交代は100年以上なかったのだから、その間の記録の整理だけでも膨大なモノだった。叔母様は高天原と神世庁を幾度となく行き来し、まさに超人のように業務をこなし、全ての物事をあるべき場所に納め今日からのわたしの任務に支障がないようにしてくれた。
抱擁を解くと、わたし達はこの1年間の出来事を親友のように語り合った。
わたしが体育でのソフトボールの失敗を話すと、叔母様は喜んで笑った。うっかりフルスイングしてしまい、ボールは遙か校舎を越えていずこかへ消えてしまった。その後一週間わたしは、ソフトボール部の勧誘を断り続けることになったのだ。叔母様は高天原の神々のゴシップでわたしを驚かせた、わたしが赤面してしまうようなことまで叔母様は語ったのだ。
楽しい小一時間が過ぎると叔母様はわたしの顔をのぞき込み言った。
「楽しいけれど、この辺にしないといけないわね、日が沈む前に済ませないといけないから」叔母様は稽古の時に見せる教師の顔になっていた。
「はい、叔母様」わたしは頷いた。
わたし達はいわゆる巫女装束と呼ばれるものに着替え、居住まいを正すと連れだって中庭に出た。そこには一本の広葉樹が立っていた。細いがしっかりとした幹に、鮮やかな緑の葉を付けた枝を一杯に伸ばしている。
この樹は高天原の中央に立つ樹の枝から、挿し木をして育てたものだ。
高天原に立つ樹は、神々が現れるより前から立っていた。高天原では創世の樹と呼ばれている。西洋では世界樹、生命の樹と呼ばれる樹だ。
お母様が亡くなったすぐ後、暗い顔をして過ごしていたわたしを叔母様は一度だけ高天原に連れて行った。高天原の美しい風景がわたしの心を少しでも癒せばと考えたのだろう。
高天原でわたしは自分を呼ぶ不思議な声を聞いた。どうやって叔母様の目を逃れ、樹のもとへ行ったのかは憶えていない。叔母様がわたしを見付けたとき、わたしは樹の根本で丸まって眠っていた。母の温もりに抱かれて。そしてわたしの手には若枝が握られていた。
叔母様はそのことに酷く驚いた。樹は神々にさえ滅多に話しかけることをしない。その樹がわたしに話し掛け、自分の分身である枝を与えたのだ。叔母様はわたしの何が樹の関心を引いたのかは分からないが、わたしを気に入っていることだけは確かなようだと云った。
そして、樹に話し掛けるときは注意するように云った。樹は精神のありようがあまりにも違うため、曖昧な表現や、比喩をそのまま受け取ってしまうのだ。そして願い事をしてはならない。樹は世界そのものと繋がっているため、神々をも遙かに超える力を持つ。一方で世界のとらえ方が違っているため、樹に願い事をして、樹が誤った解釈をしてそれを実現しようとすれば、天地をひっくり返すような大事になりかねないのだ。喉を潤すために水が欲しいと頼んで、世界を水没させることもあり得るのだ。
それさえ注意すれば樹はとてもよい隣人だった。
わたしの持ち帰った若枝を叔母様は本家の庭に植えてくれた。樹は数日後には今と殆ど変わらない若木へと成長してしまった。
わたしはシバシバその根元で時を過ごした。樹の放つ温もりが何とも気持ちよいのだ。
このロフトに引っ越すとき、わたしは樹を移すべきかどうか悩んだ。そもそも普通の植木のように移せるものなのか?その問題を樹は自分で解決してくれた。気が付くと樹は本家の庭から消え、ロフトの中庭に移っていた。このロフトには吹き抜けの中庭など無かったのだが、樹がここを自分の場所と決めたようでロフトを作り替えてしまった。
「これがここにあって助かったわ」叔母様はそう言った。
本来この儀式は高天原で行うものなのだが、樹があるおかげでこの中庭は高天原と同じ神聖な場所となっていた。叔母様は久しぶりに現世に降りて羽を伸ばすことを楽しんでいた。
「じゃあ、始めましょう」
わたし達は樹の前に跪き樹を立会人とし儀式を始めた。叔母様が祝詞をあげる。伊弉諾神、伊邪那美神への祈りから始まり、二神に連なる神々への長い祈りが続き、氏神である風之神、志那都比古神への祈りで終わった。わたし達は立ち上がり向かい合った。
「風日西宮より、風日東宮へ定められたる守神子の任を譲らん」
「風日東宮は風日西宮より、定められたる守神子の任を承らん」
叔母様が右手の平をわたしに向けた。
「八束の剣を授けん」
叔母様の右手の平に船の操舵輪に似た、円に八本の束が突き出た文様が浮き上がる。わたしは自分の右手の平を叔母様の手に重ねた。手の平が焼けるように熱くなる。手を離すと、八束の剣はわたしの手のひらに移っていた。
叔母様が今度は左手の平をわたしに向けた。
「封縛大御鏡を授けん」
今度は太陽の紋が刻まれた円形の文様が浮き上がっている。同じように左手を重ねると、今度は凍てつくような冷気が手の平に広がった。封縛大御鏡はわたしの左手の平に移った。
「いとつつがなく引き継ぎの儀を終えん。風日東宮様に於いてはこれより、現世での大任果たされますよう、お祈り申し上げ候」
「風日西宮様に於いてはこれより、高天原にて平安あらんことを、お祈り申し上げ候」
わたし達は礼を交わし儀式を終えた。
「そうそう、これを渡さないと」叔母様はいつもの優しい顔に戻っていた。叔母様の手には金箔が施された美しい漆器の小箱があった。
わたしは渡された箱を開いた。中には多面体の水晶が下がった首飾りが収まっていた。水晶の中には丸みを帯びた四角錐状の黄金が収まり、光り輝いていた。わたしはその首飾りをひと目で気に入った。
「叔母様ありがとう」
「私からじゃないのよ、音葉からこの日が来たら渡すように頼まれていたの」
「お母様から!」音葉は亡きお母様の名前だ。驚きに見開いたわたしの瞳に涙の粒がたまる。
「あらあら、この子ったら」叔母様は優しくわたしの涙をぬぐってくれた。
「音葉は小さい頃から、自分から何かを欲しがる事なんてなかったのに、アンティークの店で見付けたこれだけは、どうしても欲しいって云ってきかなかったの。だけど自分で付けたことは一度もなかった、きっとあなたのためだったのね」
叔母様は首飾りを手に取り、わたしの首に掛けてくれた。
陽光を受けた水晶が胸元で光り輝いた。それは不思議な感覚だった、わたしはこの首飾りを知っている。これはわたしの物だ、どうしてこれを離して置けたのだろう。これはずっと一緒にあるべき物なのに、わたしは自分に欠けていた何かを漸く取り戻したような気がした。
その時、樹が葉を鳴らし、わたしに祝福を送ってくれた。
おかえり、おかえり、おかえり・・・樹がそう呟いていた・・・。
その後わたし達は仲の良い叔母様と姪にもどり、食堂でマリコの作ったご馳走を食べながらお祝いをした。マリコの作る料理は絶品であった、わたしは近々マリーからレシピを聞き出し、チェーン店を開くことを計画していた。
祝うことは一杯あった。わたしの高校入学、わたしのひとり暮らし、そして守神子の任に着いたこと。叔母様は正式に守神子の任を終えたことで、これより先、人としての肉体を捨て高天原の神へ昇ることになる。叔母様と現世で会うのはこれが最後となるのだ。そう思うと少し心細くもあった。
食事を終えると、わたし達は居間に移り、和んだ時間を過ごした。二十一時を過ぎると叔母様はそろそろお開きにするべきだと、わたしに告げた。この後にわたしの初仕事が有るのだ。わたしは名残惜し気持ちを押さえ、叔母様を玄関まで見送った。叔母様は最後に何かを確認するようにわたしの瞳をじっと見つめた。しばらくするとゆっくりと頷き言った。
「頑張って静音、あなたならわたし以上に立派に任をこなせるわ」
「お元気で叔母様、きっと期待に応えて見せます」
わたし達は笑顔で分かれた。