5 憂うつと沁みる優しさ
「あらユメルさん。目は覚めたかしら?」
気がつくと、俺はベッドに寝かされていた。
天井が白い。清潔そうな真っ白いカーテンが微かに揺れる。
恐らく保健室のような場所であろう、独特の匂いが思考回路の覚醒を早める。
「だから学校に行かせるのは反対したのに」
「そうは言っても本人の希望だ……しかしあの子の考えていることは相変わらずよくわからん。もう5年も一緒にいるんじゃがのう。
昨日まで散々駄々をこねておったのに、突然『学校へ行きたい』などと言いだしておいて、挙句の果てに体だけ置いて逃げるとは」
耳に入ってくる男女の会話が近くて遠い。
だからまず俺は自分の名前を思い出そうとした。
『ユメル・バーティシア』
それはこの体の名前だ。
俺の名前は……
「なんでだろう?思いだせない」
そもそも自分の名前や経歴を思い出そうとすることさえ忘れていたことに気付いて恐怖する。
「俺は……私は……?」
「無理に頭を働かせてはいかんぞ」
優しく力強い声とともに、変な香りのする液体が入ったカップを差し出してくれたのは、初老のおじさん。警備員のライトさんが“おじさん”ならこの人は“おじいさん”と呼んでも問題ないかもしれない。
しかしその老体から発せられるオーラというか存在感は、年経るたびに益々強くなってゆくのではないかと思わせるほど気力に溢れている。
「もしかして、あなたが校長先生ですか?」
老人は人の上に立ちそうな威厳と立ち振る舞い。
確かに加齢の様子は見られるが、人前に出るための清潔感も相応しく身についている。
スーツのような礼装の上から羽織るのは裏表で目立ち方が逆転する怪盗みたいな赤黒マント、いやローブかもしれない。
そういった風情あるたたずまいの老人から俺はカップを受け取り、少し飲んでみる。
渋めのホットレモンティーといった感じで気付けにはよさそうだった。
「いかにも。私がこの魔法学校の学長を務めておるガイン・バーティシアだ……ああ、養子とはいえ娘に初対面の反応をされるのもこれで3度目か……ワシ心折れそう」
「あなた、お気を確かに。
でもユメルさんのことはもう諦めましょう。1人立ちした娘、いえやっぱり孫とでも思って遠くからそっと見守ってやりましょうよ」
「メリーよ、お前までユメル“さん”だなんてワシは……
たとえ子でなく孫だとしても、ユメルに“おじいさま”と親しげに呼ばれたことなどなくとも、ワシだけはユメルちゃんの味方じゃ!化けて出てもユメルちゃんの傍におるぞ!」
「……」
老人の厳格なオーラがぐにゃりと歪んだのを感じた。
孫どころか子供もいないし結婚もしてない俺には分からない感情だから馬鹿には出来ないことなのかもしれないけど。
校長は親バカ、もしくは孫バカ。どちらにしろユメルには甘いようだ。
その親馬鹿老人と夫婦のような会話をしているのは、俺が一番最初に受けた授業(ずっと寝ていたから受けたとは言えないかもしれないが)を勤めていた女教師。
メリーって呼ばれていたっけ?
校長とはそういう関係なのか。随分と歳が離れているような気がしなくもないけれど。
そして会話を聴く限り俺――もといユメルは2人の子供?
この場の3人で三世代でも問題ないくらいだが……恋愛は自由だし、どうでもよい思考は心の隅に。
「天才児、ワシ等にとっては天災児でもあるユメルなんじゃが、まさかあんなハタ迷惑な形で自分の体に接触するなど初めてだわい。身体の方はもう大丈夫かの?」
「はい、今はもう平気です」
全然正気ではいたくない気分だけど。
醒めない夢は受け入れるしかないのだから仕方ない。
「あの子から多少の事情は聞いておろう。早速で悪いんじゃが、お主はどこの誰さんかの?今後のお前さんの処置の為にも、ゆっくりでええから出来るだけ詳しく教えてほしいんじゃがよ」
多少の事情といっても先程小悪魔に無理矢理叩きこまれた程度しか知りませんが。
喋り慣れている校長の言葉は耳に優しいが、処置って……そういう言葉使いなだけだよね? 冷凍休眠とかさせられないよね?
「あなた、もう少し様子を見ましょうよ。まだ記憶が混濁してるようだから」
「そう言って待とうとしたら、ユメル自身の使い魔とはいえあのガーゴイルの襲撃を受ける事になったんじゃろうが。あの子にとってこの学校の防衛網などザルも同然だからの、今後何かあった時の為にも最低限この子を守る術を考えなきゃならん」
「あの、実は俺――」
「「……オレ?」」
「いえ私は……」
不味い……メリー先生はともかくユメルを溺愛してそうな校長に、もし中に入ってるのが成人間近の男だって知れたらややこしいことになるだろう。
しかしフラメやガブロー先生、それに今の2人の態度から察するに、あのガーゴイルの声は俺以外の人間にはノイズでしかなかったようだ。最低限のことだけ話して性別等々の事は黙っておいた方が、事を荒立てずに済むだろう。
「実はユメルさんに記憶を盗られちゃってるみたいで……自分のことあんまり覚えてないんです」
「なんと!」「まあ!」
驚きと同情が均等に混じった声を上げる夫婦に、俺は少しだけ嘘をついた罪悪感を感じた。
こんなにも優しそうな2人と一緒に暮らして、ユメルは何が不満だったのだろう?
俺の実情として、すっぽり抜け落ちている記憶は自分の本名とか親とか友人のこと、俺個人に関する情報だけだ。
向こうの世界の一般常識なんかは頭の隅にこびりついているようだが……そこまで詳しく説明する必要は無いだろう。相手も自分も混乱するのが目に見えている。
「ユメルはそんな細かい記憶操作まで出来るようになっておったのか」
腕を組んで事の重大さを噛みしめるように呟く校長。
メリー先生が難しそうな顔になりながらも俺に丁寧に説明してくれた。
「今まで入れ替わって来た子は自分のことをはっきと覚えていたのです。だからその子の両親に話をつけたり、あっちに行ったユメルさんに対する守護――どちらかというと警戒ですが、それも多少はやりやすかったのだけれど……」
なにやら話が深刻になってきたようだ。ユメルはそんなにも危険な存在なのだろうか?
せっかくなんだから俺は…………開き直ってこの異世界を楽しみたいと思っている。
マンガやラノベだってここまで突飛な設定は一笑され受けなくなっている今、自分の身に降りかったこの災難は、宝くじの前後賞が当たるよりありえないものだ。
そんな懸賞金の使い道が制限されることは嬉しくない。だから――
「自分の身くらい自分で守れます……多分今度は」
あの時俺は、強制的にガーゴイルからのメッセージを受け取った。同時に、ユメルの魔法の一端を受け入れていた。説明を受ける余裕もない程に一方的だったが。
そこにユメルの意志があったのかどうか定かではない。
あんなノイズ、魔法というにはあまりに雑然としていて、とても口で説明できるようなものではない。“発動キー”? などと断言出来るほど確信のあるイメージでもない。
しかし確かに感じた。自分の体とユメルの体に共通する波長のようなものを。
一度乗れるようになった自転車はどれだけ経っても乗り方を忘れないように、体に“ソレ”が焼き付いていると確信のようなものを与えてくれた。
あとは実践あるのみ。
勿論、危ない橋を渡らずに楽しく学校生活を過ごせるなら、それはそれで構わないかもしれないが。
子どもの姿になってしまっても、今まで生きてきた経験値分くらいは有意義な生き方をしたい。
あ、経験値半分くらいユメルに盗られてる……
「いやしかしのう、この校内に限っても安全とは言い難いものがある。
今回の件はユメルがこの場所を知っておったからとはいえ、あの子のこれまでの行いから考えみても、今後外部からの侵入者を完全に防げるとはワシは思わん。お主が何者か分からんのでは先手も打てんしの」
「なにより今年は最上級生が去年に増して手に負えなくなってきています。今はまだ教師陣だけでなんとか収めていますが、彼らが卒業するまでにその所業が公に出まわることになるのは時間の問題です」
優しいが故に渋い顔で、俺の言葉を呑み込みかねている様子の夫婦。
それだけ心配してくれるのはありがたいが、その態度は俺にとって今後のマイナス要因にもなりうる。
だからこの沈黙を破ったのは俺以外の、俺にとって最初の――
「大丈夫です! ユメルはアタシが守ってあげます!!」
大きな音をたてて保健室の扉を開け放った女の子。
今の俺に心当たりは一人しかいない。
「フラメちゃん! どうしてここに?」
「友達が倒れたら介抱するのは当り前でしょ! ガブロー先生と二人で(アタシはほとんど付いてきただけだったけど)アンタをここまで運んだんだから。さっきまで校長夫妻に譲ってやってたけど、元気になったならもういいよね? こんな湿った所にいたらキノコが生えてきちゃうわ」
小さな体なのに軍隊が行軍するように大きな風情でこちらへ向かってくる小柄な少女は、一瞬であれ校長夫妻を黙らせる意志の強さを持っていた。
「……これ、まだ話はおわっとらん」
フラメは、校長の声などそよ風のように受け流して俺の手をとった。
「フラメちゃん……」
ここは、大人の空気に呑まれないフラメの度胸に感謝、彼女の強行軍にありがたく乗っかることにしよう。
俺は勢いよくベッドを飛び出して急ぎ靴をはく。
「それじゃ校長……ではなくおじいちゃん……でもなくお父様? お母様? でいいんですよね? 細かい話はまた後でお伺いします!」
俺が確信を込めて茶目っ気たっぷりにウィンクをすると、保健室の窓とドアが大きくスライドして開き、強風がなだれ込んだ。
カーテンが床と並行にまで持ちあがってバサバサ暴れる。
「「!?」」
校長夫婦が突風……よりかは俺の言葉に驚いて顔を見合わせてる内に、2人の少女は追い風に乗っかる勢いで保健室から飛び出した。
溢れんばかりの不安と期待で胸を一杯にして、初めて出来た友達の手を、確認し合うようにしっかり握りしめながら。
あれだけ長い授業2つ(1つは寝てたしもう一つは中断したけど)に長い休み時間を挟んでいるのだから、きっと今は昼休みだろう。
さて……元気よく親元? を飛び出してきたはいいけど、俺に進むべき道は与えられていない。
何もかも決められたら反発するだろうけど、何をしてもいいよっていうのも困る。
人間ってのは我儘な生き物だと達観した気分で五里霧中。
「どうしよっか?」
2人並んで石造りの廊下を歩きながら、妙に晴れやかな笑顔を振りまきフラメが俺に問う。
「フラメちゃんが連れだしたんだから、フラメちゃんが決めてよ」
さっきまでの元気もしばらく歩いて落ち着くと、何度も膨らませて使い込んだ風船のようにヨレヨレ萎んでしまった。
手を繋いでいる安心感は残っているが、今後の予定が全くの白紙だという不安も同じくらいある。
色んな事がわかったのはいいけど、状況はそれほど変わらないし。
「なんだかんだで、“こっち”に来てまだ数時間しか経ってないんだな……」
これからどう行動していくのか、俺がどうしたいかを考えないといけない。
「そうよ、入学して2つ目の授業から人間ベースの高知能ガーゴイルに会うなんてびっくり。『あんなの研究所でも作ったことない。本当にヒトを素体にしてるなら国家レベルで取り締まるべき機密情報だ』ってガブロー先生言ってたんだから」
喋っている内容と違い、フラメは先程の出来事など日常茶飯事であると言いたいように楽しそうだ。
恐いもの知らずで無邪気な子どものよう、いや実際子供なんだけど。
見た目より生きてる俺は、そんな顔を見て仮初めの安らぎを得ているのかもしれない。
「さっきの、私にとっては結構危ない状況だったのかもね」
「大丈夫よ! レアモノであったに違いはないでしょうけど、あの程度のヤツ何体襲いかかってきても、アタシが一瞬で消し炭にしてあげるから」
そう言って更に明るい笑顔を振りまく金髪の少女。
それでも俺は、フラメに対して申し訳なさと恐れを感じている。
ガーゴイルのメッセージは俺にしか聞こえなかったようだけど、さっきの校長の話を聞かれていたのだとしたら。
例え男とはバレてなくても、外見と中身が根本的に違う俺のことを、彼女は内心で嫌悪している……かもしれない。
こんな考えこそ自分の勝手な被害妄想かもしれないけれど、自分が不安定だと相手も心が揺らぐのは、経験上分かっているから。
それでも、保健室まで迎えに来てくれた。
2人の先生に全く怖気づくことなく俺を引っ張り上げてくれた。
「フラメちゃん、無理して私についてこなくていいよ」
だからどうせ嫌われるなら、俺は自分から彼女を拒絶しようと、一定の距離を保とうと、繋いでいた手を離そうとした。
「……はぁ? アンタ何またおかしなこと言ってんの? 引っ張っているのはアタシ! それに連れられているのがユメル! アタシは自分に無理とか我慢なんて絶対しない性格よ。変な心配しなくていいの!」
フラメは俺の手をきつく握って離さなかった。
「私が校長先生と話してた内容、聞いてたんでしょ?」
「……だから?」
「私のこと、嫌いにな――」
くきゅ~
「……」
きゅ~うぅぅ
「……」
ぐるるるる~
腹の鳴る音だ……しかも2回とも俺の。
「アハハハッ、アンタやっぱ面白いわ! 見た目とのギャップが特に!
お昼にしましょう! ユメルはもちろん“お腹が鳴くほど”空いてるわよね! 話は食べながらだっていいでしょ。お腹減ってるとイライラするし、いいアイデアも浮かばないものだわ」
腹は口ほどにもの申すか。
笑いをこらえようともしないフラメに俺は精一杯の作り笑顔を返す。
寝ぐせヨダレに加えて、彼女に醜態を晒すのは2度目だ。
自分が思ってる以上に俺はフラメに気を許してるのかもしれない。
「でも私お金持ってないよ?」
「アンタ何言ってんの! って、またか。
これじゃユメルを馬鹿扱いするのが口癖になっちゃいそうだわ」
フラメは呆れ説教顔を正して言い直した。
「大丈夫よ。ここのカフェテリアは学校関係者だけが利用すること前提でタダだから。オリエンテーションで聞かなかった? そういえばユメルはあの時居たっけ? まあいいわ、お話はカフェで」
再び手を繋ぎ直し、俺達は笑顔と共に歩きだす。
魔法のある世界は、一体どんな料理があるのだろうか?
まあ悩んでも仕方ない。
今この時くらい好き勝手させてもらおうじゃないか。
友達の1人や2人増やしても困ることなんてないだろ?