1 王女様
――これはいつかの夢の続きなのだろうか
光の中は複雑に入り組んだ迷宮だった。
狭い通路に松明など灯っていないが、どういうわけか視ることに不自由はない。
俺は一度も歩いたことがない筈の迷路を、勝手知ったる足取りで迷うことなく進んでゆく。
途中出くわす魔物は肩に背負った両刃剣で片っ端から一刀の下に切り捨てた。
遠距離からブレス攻撃をしてくる中級ドラゴン相手には、射程外から魔力で生成した光の矢で急所を射抜く。
実質的に物理攻撃の効かない不死者やゴーストへは癒しの光を浴びせて浄化する。
“ためらわないのね?”
“だってこれは夢なんだろ?”
RPGでよくある光景だ。俺が主人公となって敵を屠る感覚をリアルに感じていること、それだけが特殊な仕様であると思えばいい。
異形の生き物を切った時の不快な感触と血飛沫。
有機炭素系化合物が燃える独特の臭気。
時折掠める敵の攻撃は所詮仮想の痛み。
“本当にそれでいいの?”
“夢ならなんでもありだろ?”
“でも、あなたが目覚めた夢の中で同じ事が出来るかしら?”
返り血に染まって重くなった自分の服を気に留める事なく俺は進み続ける。
既にゴールはないと知っているはずの道程をただひたすら前へと――
ふと足元に視線を移すと、切り捨てた魔物の中に人間の形をしたソレが倒れていることに気付いた。
いや、ソ……レハ……ホン……モ……ノ…………の?
思考停止に陥りそうな脳髄を強引に働かせて“ソレ”を凝視する。
“ソレ”の中指にはどこか見覚えのあるルビーの指輪が――
「ああぁぁぁぁぁっ……………?」
「ようやくお目覚めですか。こんな良いお天気に悪夢でも見ました?」
第一に視界に入った天井は、記憶にないくらい豪華なことになっている。
俺はどうやらキングサイズの豪華なベッドに寝かされているようだ。
朝日……いや昼時の太陽が大きな開き窓から鋭い陽射しを浴びせ、それを一身に受け止めるこれまた大きなカーテンが時折吹く風によってたなびき日光を部屋に漏らす。
「今はゆっくり養生して下さい、と言うべきなのかしら?
貴方はもう10日も眠っていたのだし、医者が診た限りでは体に異常もないそうなので、リハビリも兼ねて御一緒にお散歩しませんか?」
透き通るようなソプラノを奏でる声の主に従い、俺は自分の身体をゆっくり起こしてみる。
彼女の言葉を信じるならば10日ぶりに動かす間接と骨の痛みに嫌な汗が流れたが、一応脳が送った信号の通りに動いてくれた。
「まだ直ぐに動き回るのは辛そうですね。先にお食事にしましょうか? リンドーラの民族料理が舌にあえば良いのですが」
俺を見守ってくれていたのは一国の王女様と言っても通じるだろう1人の少女。
美の追求の為に際限なく努力を重ねたと思われる容姿、それを飾る金に糸目をつけない衣装もまた素晴らしいが、特に彼女が自然に放っている雰囲気というかオーラのようなモノは、他の者の追随を許さないであろう……他の者?
「いえそこまでは。あなたは一体誰? ……俺……いや私は……?」
自分の事をまるで思い出せないことに気付いた俺。
俺?
絹のように滑らな薄い上掛けを剥いで自分の体を覗きこむ。
高級そうな真っ白い肌着も、そこから垣間見える色白できめ細かな素肌と体躯は女の子そのもの。
耳を覆って肩まで届きそうな銀髪に触れてみる。毛先をちゃんと整えればコスプレ用の作りモノだと勘違いしそうな代物だ……コスプレってなんぞ?
「まあ慌てなくてもゆっくり説明して差し上げるわ。まずは立ち上がってって歩いてみましょう。私の名前は“リリン”」
「えっと俺……私は……」
名前すら名乗れない自分に歯噛みしつつも、全てを理解しているかのように微笑む彼女に優しく手を引かれ、私は時間をかけてベッドから立ち上がった。
「ユメルさんと直接お話しするのは初めてですね。と言ってもギエスによれば中身が違うとかなんとか」
「はぁ……えと、取り敢えず初めまして、リリンさん?」
私の名前はユメルというのか。話が進まないから取り敢えずそれで納得しておこうと思った。この状況からみて彼女が悪意ある人でないことは明らかだ。信用しなくては始まらない。
あとギエス? 記憶の片隅で見たか聞いたような覚えがあるような……人だったっけ?
「呼び捨てで構いませんわ。私とユメルさんの仲ですもの」
「いや、リリンさんもさん付けてるじゃないですか」
「あらやだ。コホン。ではユメル、お互いに敬称はなしということで。
改めまして、ようこそリンドーラの王宮へ」
私はリリンに手を引かれながらテラスへと案内される。手入れされた緑の風景はまるで絵画のようだ……とっても広い。こんなところに住んでみたいって思うんだから、少なくとも私はここまで裕福な家庭ではないな。
ぽかぽか温かい陽気の中、メイドさんの格好をした給仕がほんのり甘い香りのするお茶を入れてくれた。頂きますと断って一口啜ってみる。とっても美味しい。
丸いテーブルの向かいにリリンが座ってゆったりと女神様みたいに微笑む。それが凄く絵になっていて、こうして眺めているだけでなんか幸せな気分になってくる。
「少しは落ち着いた? 無理をしていませんか?」
「はい、もう大丈夫です。何て言えばいいのか……記憶が曖昧なんですけど、多分リリンが助けて下さったんですよね?」
むしろ適度な散歩とお茶のおかげで大分調子が良くなった。彼女には敵わだろうけど、おかげで私もなんとか笑顔で返事が出来た。
王宮とか言ってたし、やっぱりリリンは身分の高い人なんだろうか?
首を優しく縦に振って満足気に頷く彼女の周りは、神秘的な静寂に包まれている。もっと付き人みたいなのがいてもよさそうだけど、私とリリン、それとさっきお茶を入れてくれたメイドさんが後ろに控えている以外にこの広いテラスに人の姿はないようだ。
「ここは離宮なの。複雑……でもないのだけれど、ちょっとした事情があって、私は“基本的には”ココを離れる事が出来ません。身の回りの世話をしてくれてるのも彼女“エレン”だけ」
私の心を読んだように応えてくれるリリン。彼女の視線を受けたメイドのエレンさんが軽く会釈をしてくれた。無表情は私への警戒か、それとも一級メイドたる者の矜持だろうか。
彼女達にも色々と事情がありそうだが、まずは自分の事をどうにかしないといけない。
「そうなんですか。ところで……実は私、記憶が曖昧どころか何も思い出せないんですけど――」
「まあ……それは大変」
ちっとも大変じゃなさそうに言うリリン。むしろ笑顔が増した気がする。
「ではしばらくココでのんびりしていくといいわ。それはもう何日でも。いっそココに永住なさい」
「……リリンは遊び相手がいなくて暇なんですか?」
「その言い方はちょっと直球過ぎて酷いわ」
「御機嫌麗しくない王女様は召使1人では遊び相手が足らず欲求不満の御様子」
「なんだか卑猥な言い回しね。でもそれだけ舌が回るようなら記憶以外の能力に支障はなさそうね」
本当に王女様だったのか。まあ今更畏まっても仕様がないんだけど。
「はい、多分しばらく厄介になりますので是非よろしくお願いします」
「ええ是非そうなさい。絶対楽しいから」
貴方が楽しむんでしょう? という言葉は呑み込んで頭を下げる私。それを笑顔満開で抱きしめるリリン。しかし王女様にしてはスキンシップが強い気がする。その分堅苦しくないから気が楽だけど。
「なんか凄くデジャブな……悪夢みたいな――」
「何か言った?」
「いえなんでもありません」
私はリリンと一緒にお風呂に入っていた。一応体は拭いて貰っていたようだが、10日も寝ていたなので、ちゃんと綺麗にしておこうという誘いを断り切れなかった。しかし何故断ろうとした? 王族相手だから?
それ以前にもっと根本的な問題を抱えていたような――まあいいか。
個人用とはとても思えない、同時に20人は入れそうな浴槽だった。まあ王宮っていうんだからこれくらいは当然なのかもしれない。
実はもっとドデカイ場所が脳裏にチラついたんだけど、離宮とはいえこれほどの広さを超えるお風呂にしょっちゅう出会えるはずもないだろうから気のせいだ。
リリンは普段メイドのエレンさんと一緒に入っているらしいが今は私と2人きり。ボディガードは要らんのか? まあ少なくともこっちが危害を加える気は全くないから、私が気にする事でもないんだけど。
お風呂は確かに気持ち良い、心地良い、体が温まってリラックス、な筈なのに……
人魚が担ぐ壺から贅沢に注がれるお湯をぼおっとした頭で眺めながら、私は自問自答していた。
なんで服を脱ぐのを躊躇ったんだろう?
なんでお風呂でここまでドキドキしてるんだろう?
なんで女の子同士なのにリリンを直視出来ないんだろう?
なんでこんなに恥ずかしいんだろう?
「ユメル大丈夫? 顔が赤いようだけど」
枝毛1つなさそうな髪の毛を丁寧に流しているリリンが心配して声を掛けてくれた。
――止めて! 私の視線をあなたの素肌に向かわせないで
なんて言う方が余計に恥ずかしい気がしたので「少しのぼせてるだけです」と強がり我慢だ我慢……ブクブクブクブク? 何を我慢?
「ユメル!? 少しじゃないわよ! 早く上がりなさい!」
「あっという間の出来事でしたとさ」
「お風呂でのぼせるのは恥ずかしい事じゃないわよ。私に生涯からかわれるんだから、そんなに急いで忘れる事もないじゃない。それに……」
「なんですか? ……まだ私を苛め足りないですか?」
「ユメルの火照った顔も可愛かったし。思わず襲いたくなっちゃった」
「申し訳有りませんごめんなさい勘弁して下さい」
これもまた悪夢の繰り返しなのかもしれない。
先ほどお茶会をしたテラスでまたリリンに介抱されながら涼んでいると、エレンさんが無言のまま冷たい紅茶を入れてくれた。ちょっと刺激の強い柑橘系の香りが意識を覚醒へと導いてくれる。
「ユメル、貴方もしかして男の子?」
……はい?
真面目な顔で唐突に可笑しな事を言うリリンに私は困った表情を作るしかない。
「お風呂一緒に入りましたよね? お互いばっちり見ましたよね?」
自分で言っててなんか恥ずかしくなるが事実は事実だ。
そう単純なことでもないとリリンが言う。
「大きなお風呂には入り慣れてるみたいなのに、貴方の反応があまりにも初々しいから、もしギエスの言うように人格の入れ替わりが起こり得るなら、性別の垣根くらい超えても不自然ではないのかなと思ったんです。
でもそれにしては物腰や衣服の着脱は結構手慣れている感じなのよね。入れ替わってどのくらい経つのか訊きませんでしたけど……もしかしてオカマとか?」
王女様のクセに発想がえぐいと言わざる負えない。
「記憶喪失なのでなんとも言い難いんですが、オカマではないと思います……と思いたい」
自分の性別にすら確信を持てないのが悔しい。
でもたとえもしオカマだったとしたら、逆に女の裸を見てもドキドキしないと思う。いや断じてオカマじゃないからあくまで想像の域での話。
「まあどちらにせよ体は女の子なのだから一緒にお風呂に入るくらい何の問題もありませんわよ。お互い体を取り換えっこした仲だもの。危険な人でもないですし。ね?エレン?」
しかし心は狼かもしれませんよ、なんて彼女の裸で赤面していた私に言える筈もないが……体の取り換えっことは?
笑顔でさらっと凄い事をいう王女様にエレンさんは無言で同意の意を……しかねた?
「その娘はエリヌエ全土の国家レベル機密情報“裏”ブラックリストに載せられている第一級危険人物です。同時に最重要保護指定も受けている異端児ですが……」
「エレンが喋った!!」
私だけでなくリリンも彼女の声を聴くのは久しぶりだったようだ。
随分仲が良さそうに見えるけど、そんなに長い事一緒ではないのか?
「リリン様の同意があれば今すぐにでもナオレイナ国へ送り返しますが?」
私はエレンさんの口から初めて出る音よりもその内容に驚いていた。
一体どんな生き方をしたら、まだ少女である私の短い人生でそこまでの地位が確立するのだろう?