07
冬休みに入る直前の日だった。寒さはますます増し、人々は校舎内のあちこちに立ってホット飲料と口から白い煙を吐いた。生徒の頭には近づく冬休みへの期待が大きく割合を占め始める。教授たちは繰り返しやってくる冬に虚ろに耐えて歩いた。彼らはいつも、生徒の群れの中をうつむいて通り過ぎた。誰とも視線を合さないようにするためだ。教室へ続く地下の廊下はもっと寒かった。氷みたいに冷えたぴかぴかの廊下と、寒々しい天井。壁は白く冷え切っていた。仲の良い二人の生徒がトイレへ向かい、おとなしそうな女のコが一人で教室へ戻ってくる。彼らの足音が廊下で響く。階段に腰掛けた幸福な二人の男女の間を抜けて、僕は教室へ向かおうとしていた。
ある予感がしていた。それはいつごろから僕の頭にあったのだろう?大学へ向かうために、駅へ降りた時からかも知れない。それとも、この神殿みたいに輝く廊下へ降りた時からかも知れない。それとも、もっとずっと以前に、彼女を初めて見かけたあの時からだったかも知れない。僕が教室の扉を開くと、中から彼女が現れた。彼女は僕の胸の位置ぐらいの背をして、大きな目を開いて僕を見上げた。不自然なほどの彼女の薄青い白目は、黒目の辺りで白濁としていた。シャンプーか、香水か、彼女の体臭か、そのどれかが心地良く匂った。
「あら」彼女は言った。
「こんにちは」僕は言った。
彼女は振り返らない。手を後ろに回し、僕を覗き上げたままドアを閉める。笑いながら席にのけぞっている一人の生徒がやがて見えなくなる。ドアが閉まる、完全に。彼女は笑っていた。照れているのか、嬉しいのか、小さな細い唇をぎゅっと閉じて、目をほんの少し細めている。いたずらっぽい、ユーモラスな仕草。彼女は細めた目を巧みに利用して、廊下の端にある白いテーブルへと僕を促す。そこには三つのテーブルがあり、今は誰もいない。ちょっと話しましょうよ、と彼女は言っているかのようだ。いつか、と僕は思う。いつか君がそう言うような気がしていたんだ。いつから?わからないけど、ずっと以前から。僕らは白いテーブルを挟んで腰掛け、お互いの顔を見合った。
「レポートは?」彼女が言う。
「ロシア経済学の?」
「そう」
「全然。さっぱり。締切りの直前になると急に幸運になって、誰かのお手本が僕の手元にやってくることになってる。今はそんな兆しが少しも見えないけど」
「いつもそうしているの?」
「そう。全ての授業で」
「本当?」
「本当だよ。僕も信じられないけど」
「よく怖くないわね」彼女は笑った。
彼女の声は柔らかくて丸みを帯びている。少し高くて、溶けたキャンディーを僕に思い起こさせた。彼女は語尾に甘い調子を残す癖があった。まだ幼い女のコが、同い年くらいの男のコに向かって話し掛ける時のような。彼女にとって、彼女の身体は大きすぎるかのようだ。私はまだ幼い女のコのはずなのに。彼女の口調はそう言っているみたいだった。
そんな風に話すんだね、と僕は思う。そして、そんな声をしているんだね。僕はてっきり、君はもっとずっとさばさばしていると思っていたんだよ。鋭い声を出し、人に厳しくて、甘えた声なんて少しも出さないと思っていたんだ。彼女は少しだけ首を傾けて、微笑んだ。きっと自分がそうしているという自覚も無いのだろう。白く、細い美しい両手を顎に添えて、彼女は僕に笑いかける。長いまつげが瞳の上で揺れている。あのまつげだ。僕が彼女と通り過ぎるときに見つめた、あの美しいまつげだ。
「ノートは取らないの?」
「全く。どの授業でも」
「教科書は?」
「買わないよ、一つも」
「先生の話は?」
「聞かないね、少しも」
「単位は?」
「それがほとんど落としたことが無いんだ。僕は不思議だよ。どうしてこんなことが出来るのか。真面目な生徒はどうして真面目にしているんだろう?僕はどうして大学にいるんだろう?」
彼女は笑う。身体をほんのわずかに揺らせて、可愛らしく笑う。まるでお人形か、おもちゃみたいだ。指先で潤んだ前髪をひとつまみ掴むと、彼女はそれをかき分けて宙へ流す。細い、真っ白な指先。彼女の指にマニキュアは塗られていない。怪我はない。丸みを帯びた爪の奥で、彼女の肌が薄ピンクに色みを帯びていた。
「その幸運がやってきてたら、私も借りて良い?」
「いいよ」
「良かった」
「安心しなよ。この授業は放っておいても取れる簡単な授業だから。真面目なフリをする必要も、ノートも、教科書もいらない。期日間近に幸運がやってくるのをただ祈っていれば良い」
僕は彼女の耳を見つめた。次に彼女が髪をかき分けたときに、その長い髪を耳に掛けたからだ。あらわになった彼女の耳は白く、向こうが透けるほど薄かった。ピアスの穴が三つ開いている。金色の飾りが二つに、青いピアス。触れると痛がりそうなほど、薄く、白い繊細な耳。息を吹きかけたらどんな反応をするのだろう?と僕は思う。それから、すぐに、そんな想像をするのはよそうと考える。彼女がうつむくと、長い髪が彼女の耳から離れてテーブルの上へこぼれ落ちた。
「君はいつも何をしているの?」
「いつもって?」
「音楽は何を聴くの?クラシック?それともジャズ?もしかしたら何も聴かないのかな、全然」
「流行りの音楽よ、ごく普通の」
「映画は何を観るの?フランス映画?それともミニシアター系?」
「こないだアレを見たわ」
「どんな?」
「犬が死んじゃうやつよ。それで子供が悲しむ映画」
「本は?何を読むの?」
「ごめんなさい、本は読まないの、ほとんど」
「君は世界中を嘲笑している?」
「ちょう……、ごめんね、どういう意味?」
「嘲笑だよ。馬鹿にしてるってこと」
「してないわよ、よく言われるけど」彼女は笑った。
「君は普通の学生みたいだ」
「普通の学生なのよ」
「君はもっと神秘的なはずだよ」
「ごめんなさいね」
「君は高飛車で人を見下していて、もっと神秘的なはずだ」
「ただの学生なの」
「そんなはずないよ」
「そうね」と彼女は言う。「でもそうなの」
彼女は指で髪を一筋つまむと、再び耳へ掛けた。もう一方の手はテーブルの上へ置かれていた。手のひらの中央は皺が寄って波打っている。彼女は上着を着ていなかった。冷気にさらした彼女の白い首もとには、金色のネックレスが控えめに光っていた。彼女は何かを期待するみたいに、大きな眼で僕を見た。瞬きを繰り返し、小さな口をつぐんで、両手をテーブルの上で揃えた。彼女がその姿勢を取ると、彼女の言っていることは本当のことのように思われた。僕の描いていた彼女のイメージと、実際の彼女は少しずつ互いに歩み寄り始めたみたいだった。いや、互いに、じゃない。イメージの方の彼女が溶け始め、中から本物の彼女が姿を現し始めたのだ。
生徒が一人僕らの横を過ぎた。階段を降りていた女のコが教室へと入っていく。ドアが開き、閉じる。一瞬漏れた教室の賑やかな声は、首根っこを掴まれたみたいに、再び教室へ戻った。廊下は静まった。最後の騒がしさを象徴するみたいに、階段をゆっくりと一人の教授が降りて来た。ロシア経済学の教授だった。治りかけの傷、いつものジャケット、それから、気味の悪い色をしたネクタイ。時代は彼をとっくに過ぎ、彼はそのことに気付こうと眼鏡を指先で押し上げる。彼の足音は不気味に湿って、弱々しく静かだった。木目模様のドアの取っ手に教授が手を触れたとき、僕と彼は眼を合わせた。初めてのことだった。彼は誰も見たりしない。目の前に座る生徒が僕であろうが、他人であろうが、人形であろうが、彼にとっては変わりは無い。彼の頭にあるのはいつもロシアだけだ。取っ手を降ろすと、彼は僕から眼を逸らした。授業が始まるぞ、と彼は言わなかった。責める気持ちを少しも秘めず、怒りも、嘲笑も、悲しみもない。彼の眼はただ僕を見ただけだ。諦めて、諦めることにさえ飽きた眼だ。歳をとったら、いつか僕もそんな眼をするのだろうか?
「もしもし?」彼女が言う。
彼女は携帯電話を耳にあてて誰かと話している。
「もうすぐ来るみたい」電話を切ると彼女が言った。
「誰が?」
「英作が」
僕らはこれからどうなるのだろう?仲の良い、普通の三人組になるのだろうか?英作と彼女が笑いあうところを横で眺めるのだろうか?きっとそうなるのだ。英作はこれまで通り僕と接し、軽口を叩き、わざとヒドイことを言って、こっそりと僕らの関係に気を使うだろう。彼女はそんな英作を信頼し、僕は彼がモラリストであることを再認識する。僕は英作を密かに尊敬し、密かに彼女を愛し、嫉妬し、笑い、そして慣れていく。全てに慣れ、または諦め、それにすら飽きて、やがて……。
忙しさが僕らに追いつくその日まで。