06
街には冬がやってきた。僕らは怠惰なりに真面目に大学に通った。電車や教室の暖房に文句を言い、自分たちの惨めな学歴を笑った。気がつくと半日を喫煙所で過ごし、一日に必要な水分の半分以上を缶コーヒーから手に入れた。喫煙所では手相占いが一大ブームとなっていた。暇になると銀色のテーブルの上に手のひらを広げ合い、互いの手に価値のある皺を見付け出した。僕の将来は信長と同じ人生を辿るらしかった。
僕は靴屋に行き、買うつもりの無い靴をしょっちゅう眺めた。店に並ぶ靴の中には、履くことが不自然なほど綺麗なものがあった。絵画を見たり、音楽を聴いたり、映画を見るのと同じように、それらの靴は見るだけで僕に楽しみを与えてくれた。気づくと、僕は腕をよく後ろで組んでいた。ステッキを持ち、秋の枯葉の中を散策する白髭の老人のような姿勢が僕の身体に定着しつつあった。
学校の中にある喫茶店はいつも人で溢れていた。ガラスの向こうで生徒たちが机の上で額を寄せ合っている。教科書や手帳や雑誌が広げられている。白っぽい明かりの電灯と、綺麗で大きなガラスと、英語で書かれたコーヒーのカップ。彼らは賑やかだった。明るく楽しげな空気が喫茶店に溢れて、座る席を一つ見つけるのもままならなかった。彼らの誰もが、その場の空気を誇っていた。
彼女は再び授業に顔を見せ始めた。英作が学校に来るようになってから、一週間ぐらい経ってからのことだった。僕と英作の間には触れてはならないタブーが出来た。お互いその存在を感じているのに、決して話すことは無かった。不気味で、ムズ痒い白々しさ。僕らがその存在に気づかないフリをすればするほど、それは重く輝きを帯びた。かまってくれないと泣き始める、わがままな赤ん坊みたいに。
空気は乾燥して冷え切り、街の上で空は時々どこまでも澄み切った。人々は空を見上げた。僕はほとんどどんな日も、大学を離れて街を歩いた。もうヒロシはいなかった。彼の歌は街の上空から消え、今では北海道のどこかで、鼻歌となってせいぜい浴室で響くにとどまった。彼の歌の消えたこの街は何かが欠けたみたいだった。けど、本当は欠けたのは街じゃない。欠けたのは僕の行き場所だ。僕は電車の走る陸橋の下をくぐり、マンションの並ぶ川の側を歩き、都会で縮こまっている小さな公園で時間を潰した。この街にはたくさんの人がいた。彼らはいつも、僕の知らない用事を持ち、街をランダムに動きまわる。ヒロシの住んでいたアパートの屋上では、今も洗濯物が風になびいているはずだった。
川のそばのやきとり屋には、表に繋がれた犬がいた。銀の鎖を地面に垂らし、時々やってくる客に上目遣いで視線を送る。石で出来た短い橋の上から僕は彼に視線を送った。挑発的な視線を送り続けると、彼は立ち上がり、僕に向かって吠えた。何度もそうしているうちに、僕が橋の上にやってくるだけで、彼は僕に吠えるようになった。店主が不思議そうに犬に近づくと、僕は橋から離れて街へ戻った。
賑やかさから逃れながら、街の内部に張り巡らされた細い路地を歩きまわった。僕は方向を放棄した。ぶつかるたびに向きを変える哀れな小型ロボットみたいに、街の隅々を通った。僕は英作と彼女について想像した。
二人は時間を示し合わせて同じ電車に乗る。席が一つしか空いていない時は彼女が座り、英作は向かいに立つ。両手でつり革を握り、体重をかけてだらりとする。その姿を見て彼女が言う。疲れたの?席変わりましょうか?アタシはそんなに疲れていないから。けれど、英作が席を変わることは無い。彼は大丈夫だよと言う、わざとあくびをしながら、眠たそうに。
英作はモラリストだ。それに、ユーモアを愛している。頼もしくて、誠実で、いつでも正しい。もしくは正しく見える。彼がいるとき、地上の規律は姿を潜め、彼がモラルそのものとなる。英作が言うんだ、きっとそうなのだろう、僕らは誰もがそう考えた。
二人は夜になるとサンダルを履いてコンビニへ行く。両手を脇の下に挟み、小走りで店内へ入る。店内で二人はバラバラになり、英作が雑誌を読んでいる間に、彼女はカゴに様々なつまらない物を入れる。スナック菓子やチョコレートや、アイスや緑茶を。英作はカゴの中身に笑いながら文句を言い、緑茶を棚に戻す。彼女は、いつもこういうお茶を飲んでいるじゃない?と言う。英作はこれじゃないんだよ、と笑いながら別のお茶をカゴに入れる。二人はコンドームを買って、アパートへ帰っていく。
彼らは付き合いはじめのぎこちない堅さを、お互いに少しずつ溶かそうと務めている。二人で過ごす日々には多くの発見がある。
彼女はコーヒーを飲まない。飲むと口の中が変な感じになるの、と言う。どんな感じ?と英作が聞くと、まるで鉄になったみたいな感じ、と言う。彼女はココアを愛している。牛乳を入れて暖かくして、眠る前に時々飲む。どうしてココアばかり飲むの?と英作が聞くと、彼女がはこう答える。口が鉄みたいにならないからよ、と。
英作は口では悪く言うだろう。からかったり、けなしたりするだろう。だけど、本当のところでは優しく振舞う。決して彼女が本当に傷つくことは言わない。彼は生まれながらのモラリストなのだ。
二人は同じベッドで眠る。セックスをして、キスをする。朝になると隣に異性が眠っていることに驚き、眠り心地でぼんやりしながら、互いの身体をまさぐり合う。混沌とした頭のまま、二人は再びセックスをする。身体が溶けて行くように感じ、思考はもっと溶けて行く。セックスが終わると、二人は自分たちの疲労感に驚いて笑い合う。驚かない?今日はこれから始まるのよ、と彼女が言う。
僕は彼らについてたくさんの想像をした。街を歩き、彼らを味わった。彼らについて考えることは辛かったけど、自分を苦しめることには、奇妙な快感があった。泣きそうになると、救われる気さえした。苦しさと快楽の境界線は驚くほど不明瞭だ。
街を歩き尽くすと、僕は大学へ戻った。ほかにすることもなかったから、授業に出席した。
英作と彼女は実際はどんな生活をしているのだろう?僕の想像のそのとおりを生きているのだろうか?もしかしたら、二人は全くうまく行かないのかも知れない。そう思うと、少しだけ希望が湧いたけど、すぐにそれは叶わないのだと悟った。嬉しい希望がそのとおりになったことなんか無いのだ。僕は諦めて授業へ向かった。