05
僕らは屋上にいた。冬に差し掛かる日々の中、その日はやけに暖かかった。空は埃っぽい雲が立ち込めて、陽は暮れかけていた。ヒロシは屋上の高いところに腰掛けて、足をぶらぶらさせていた。マンションやビルが並ぶ景色の向こうを見ながら、小さな声で鼻歌を歌っていた。彼はすっかりリラックスして、自分がたった一人でそこにいるみたいな気分になっていた。屋上で感じられる穏やかな大気の流れに触れると、誰もがそんな風になった。
「最近になってようやくジミ・ヘンドリクスを聴いたよ」僕が言った。
「マイルス・デイヴィスは?」
「これからだよ」
「コルトレーンは?グレン・グールドは?」
「みんなこれからだよ」
「どれも最高の音楽だよ」
「本当に帰るの?」
「実家の手伝いをしなくちゃならないんだ」
「それで?」
「普通の人になるんだ」
「普通の人って?」
「歌わない人のことだよ」
彼は手のひらに付いたコンクリートの破片を払っていた。指先についた粉を取り払い、ついでに手のひらを眺めた。僕は彼を見上げ、彼が何か言い出すのを待っていた。
「英作は?」彼が言った。
「さあ」
「なにかあったの?」
「別に?」
「一昨日、英作を見かけたんだよ。けど話さなかった」
「どこで?」
「駅の近くにインテリが通いそうな本屋がある」
「窓ガラスの大きな?」
「そう、あの通りで。道の端に沿って黒い髪の女のコと二人で歩いていた。俺はちょうど英作たちを横から見たんだ。俺は通りを真っ直ぐに歩いていた。あいつらは舞台の上を歩くみたいに、俺の前を横に過ぎて行った。
二人が視界から消える直前に、英作は俺を見たよ。一瞬だけ、ちらっと。それまで俺の視線にちっとも気付かなかったんだ。目が合うと英作は、一瞬驚いて、それから何事も無かったかのように前を向いた。お互い声はかけなかった。二人は通りを進み、ビルの影に隠れて見えなくなった。後は分からない。本当に英作だったのかな?」
「どうしてヒロシは声をかけなかったの?」
「かけられなかったんだよ。話しかけちゃいけないような気がしたんだ。その代わりに、英作に気づいてもらいたかった。そのためにそこで待っていたんだ。あいつが俺に気づいたら、声をかけてくると思った」
「追いかけはしなかったんだね」
「悪いことのように思えたんだ」
「追いかけることが?」
「そう、何かを暴いてしまう気がして。英作は多分、喜ばない。そう思うと、追いかけられなかったんだ」
「わかるよ」
「追いかけた方が良かったかな?」
「僕でも同じことをしたと思うよ」
「あの子は誰なのかな?」
「さあ。彼女じゃないかな」
ヒロシは何か聞きたそうにしていた。僕が話す気が無いのがわかるのだろう。困惑して、やがて諦めたみたいだった。彼は北海道に遊びに来いよと言った。それから、学生は気楽で良いよな、と。僕は黙って笑った。あぐらをかいて、陽が沈むのを眺めていた。ひと月もしないうちにヒロシはアパートを引き払い、北海道へ帰って行った。英作はまた学校に通うようになった。
僕らは、もう屋上に来ることは無くなった。