04
静かなざわめきがあった。なかなか収まらなかった。教壇の上にいる教授は左目の上に大きな白い布を当てていた。右目の下に小さな傷が開いていた。彼はいつもに増して惨めだった。僕らは彼が通りで襲われているところを想像した。暗い夜道で、急に何者かに襲われる彼。犯人は恨みを持った生徒かも知れない。彼の愛人かも知れない。何の気無しに、ただ彼を襲っただけの、見ず知らずの人かも知れない。
教室に来る生徒の間には、暗黙のルールがあった。少数の生徒は内心で競っていた。生徒たちはこっそりと、彼を怒らせようと工夫していた。これみよがしにゲームをするのも、漫画を読むのも、大声で笑って見せるのも、彼を怒らせることが目的だった。そうして、実際に彼が怒り始めると、僕らは奇妙な勝利感を共有した。彼は顔を赤らめ、手を震わせる。怒りをきっかけに勇気を奮い起こそうとする。そして、指を一本廊下に向けて、出ていきなさいと小さく言う。生徒は立ち上がり、不満そうに教授を睨む。彼が教室を出て行くまで、僕らも、教授も黙っている。その間、教室には張り詰めた静けさが浸透する。今にもこぼれそうな震える滴を、大勢で見守るような緊張感。ドアが閉まる。視線は再び教授に集まる。彼はなんとか気持ちを落ち着かせて、授業を再開しようとする。教科書を読もうとする彼の声は震えている。その姿を見ることに、生徒たちは震えるような喜びを見出していた。こっそりと、誰にも打ち明けることなく。それでいて、誰もが。
でも、今日は違った。いつものようにゲームを鞄から出した僕の前の席の生徒は、教授の包帯を見て、しばらく唖然とした。持っていたゲームはおおっぴらに出来ずに、前の席の生徒の背中に隠した。生徒たちは困惑していた。教授の身に何があったのだろう?それは誰にもわからなかった。生徒たちは互いに耳打ちし合った。英作はいなかった。彼女もいなかった。窓際の席はほかの生徒で埋められていた。
「ロシアは」教授は言った。
ロシア。ロシアが一体なんだと言うのだろう?教授は眼鏡を少しずつ揺れ落としながら、気の遠くなるほど距離を感じる教科書を持ち、普段よりも声を震わせて教科書を読んだ。彼の姿には胸を打つものがあった。傷ついた彼の姿は、急に僕らにとって彼がタブーであるかのように感じさせた。あるいは、聖域であるかのように。それはどちらにしても同じことだ。彼に関して話すことは冒涜であり、危険で、それでいて話さずにはいられない。僕らはこっそりと会話を交わし、彼をこれ以上傷つけまいと胸のうちで決めた。傷つくことで、彼は教室の中に平和を見つけたみたいだった。
「ロシアは」彼は言った。震える声で、再び。
ざわめきはもう消えていた。彼の目の前にいる大勢の生徒は誰もがうつむいていた。眠っている者はいなかった。教授は針金みたいな安っぽい眼鏡を外すと、ズボンの後ろポケットからハンカチを取り出して右目を覆った。ひどく目が疲れるらしかった。泣いてはいない。それどころか、彼は相変わらず、全くの平静にも見えた。いつでも弱々しく、怯えた態度が彼に寄り添っていたから、実際の彼の心境を推し量るのは難しかった。僕らはうつむきながら、彼を盗み見た。
「すいません」彼は言った。そして眼鏡を掛けた、再び。
もしも僕らがもっと若かったなら、こんなにも彼に対して気を使わなかったかも知れない。高校生や、中学生だったら、彼の傷によって受ける躊躇はもっとずっと、短いものだったかも知れない。けど、僕らは大学生だった。彼の傷に対して、僕らは罪悪感を抱いていた。彼を挑発してきたやましさがあったからだ。生徒の誰もが思っていた。まるで、僕らが彼を傷めつけたみたいじゃないか、と。教授の傷は僕らによって付けられたかのように感じられたのだ。その想いは僕らの胸でちくちく傷んだ。教授が教壇の上で、やっとの想いで弱々しく話すたびに、僕たちは懺悔したい気持ちで一杯になった。
「ロシアは」彼は言った。「変わらなくてはなりません」
教授は教科書を置いた。教壇にもたれかかり、深くため息をついた。ほんのわずかに生えた彼の髪が、額に張り付いている。じわりとした汗をかいていた。彼は紺のブレザーを着ていた。多くの場合、彼はその服を着て授業へやってきた。複雑な模様をした気味の悪いネクタイをしていた。時代は彼の世代をとっくに過ぎたのだ。僕らは彼の服や、趣味に対して古臭い印象を抱いた。彼はネクタイをゆるめ、ブレザーを脱いだ。
「すいません」彼は言った、再び。
そして、暑そうに、手のひらで扇ぎながら、教室を出て行った。彼の顔は熱で火照っていた。授業はそうして終った。