03
どんなに騒がしくても、街にいるのは心地良かった。溢れる喧騒の中で、重大な何かを忘れていく快感がここにはあった。僕は高いビルとビルの隙間を歩いていた。道路に落ちた大きなダンボール、疑問を浮かべて僕を見るカラス、ポールに繋がれた自転車。そして遠くに彼女が見えて、通りを僕の方に向かって歩いてきた。彼女が気に入っている黒いコートと、よく履いているタイトなジーンズ。彼女は一歩一歩をヒールで確かめるみたいにして歩いた。彼女は僕と目が合うと、ほんの少しだけ速度を落とした。それから、視線を地面に落とした。長いまつげが彼女のまぶたの下で扇を広げるのを僕は見た。
カラスが二匹に増えた。一匹は一瞬ごとに首の向きを変えた。カラスの目には破滅を期待しているようなところがある。彼女は出来る限り、道の端を歩いた。例え道の向こうから歩いて来るのが僕じゃなかったとしても、彼女はそうしたさ、と僕は自分に言い聞かせた。彼女が僕に視線を合わせる気がないことがわかると、僕は少し大胆になって、横を過ぎていく彼女を盗み見た。長い、しっとりとした美しい髪の下に、彼女の白い肌がはっきりと見えた。小さな唇は、いつもよりももっと小さく見えた。胸を打つ小ささそのもの。彼女は僕の視線に気づいているみたいだった。肌の表面に僕の視線が触れるのを感じているはずだった。見られている者が見せる、独特のぎこちなさを彼女は表していた。
学校に戻ると、生徒たちが校舎から溢れでて、薄暗い夜に流れる陰影を映し始めた。空は晴れていた。広場に建てられた二本の街灯の光が、彼らの肩や背中を照らして、レンガ造りの地面に、すぐに消える影を広げた。安堵と、そこから湧く笑みと、おしゃべりと、夕暮れの安らかな空気があった。彼らと、彼らの影が消えた後、向こうから英作がやってきて言った。
「うんざりするほど生々しい猫の死体を見たよ」
彼は目を細め、そして少し笑っていた。僕は興味を掻き立てられて、死体のありかを訊ねた。多くの車が通り過ぎるその横で、今も腹の破れた死んだ猫が寝転がっているのを想像すると、その責任が僕にあるように思われた。写真のように残ったイメージが僕の頭の中で背景となった。その夜、僕らは街の裏を歩いていた。
「日本が終わるのは教育のせいだ」僕は言った。
英作は何も言わなかった。日本の未来を決定するという僕らの重大な使命を放棄したらしかった。彼は鼻先を風に遊ばせ、川にかかる石橋の向こうを見ていた。僕は日本の現状について話すのが好きだった。そうする時、日本の未来は僕らの手に委ねられているように感じられた。それから、僕らの怠惰が許されるような気がした。不満を語るとき、僕らは全ての責任を日本に課すことが出来た。漠然とした、形の無い、日本という何かに。
僕らはニーチェを読んだ。科学の進歩に胸を踊らせた。
川沿いに高いビルが建っていた。一階のラウンジの外で、サラリーマンが二人、灰皿を挟んでタバコを吸っていた。彼らは腕を組みタバコを吸い、ポケットに手を入れて、時々、灰皿に灰を落とした。声は聞こえなかった。彼らは笑っていた。僕らは話しながら彼らを見ていた。僕らは宇宙や、科学や、宇宙の向こうについて話し、小さな公園に備え付けられた小さな象の人形の額を踏みつけていた。彼らはタバコを灰皿に押し付け、缶コーヒーを飲み干し、自動ドアをくぐってビルに入ると、壁に隠れて見えなくなった。
「そしてオフィスに戻って事務の女のコに軽口を叩くんだ」と英作が言った。
「部長に頼まれていた書類は?」
「すでに出来ている」
「いつの間に?」
「夕べ徹夜で仕上げたのさ」
「仕事人間なんだね」
「ほかに生きがいが無いんだよ」
「どうしてだろう?」
「サラリーマンだからさ」
「サラリーマンはみんな生きがいがないのかな」
「仕事以外はね」
「どうして?」と僕が聞く。
「それがサラリーマンだからさ」
彼は僕の返事を待たずに歩き始めた。僕は彼らのオフィスが想像出来なかった。具体性に乏しい空想。閉じられた自動ドアの向こうに何があるのか、僕にはわからなかった。オフィスの大きさも、そこにいる人々も、窓の数も僕にはわからない。橋を越えて線路沿いを歩き、国道へやってきた。片側三車線の道を車が走っている。車が風を切る音が聞こえた。地面が揺れている。それから、遠くに見える本屋から、彼女が出てくるのが見えた。彼女は店から出ると、自分の来た道を思い出そうと、少し立ち止まった。それから僕らの方に向かって歩き始めた。
「見なよ、彼女だ」僕が言った。
僕らは国道沿いの揺れる地面に立って彼女を見ている。英作は何も言わなかった。国道の上には道路を横断する陸橋があって、自転車に乗った男が別の男を追い越そうとしている。黒いバイクが横を過ぎた。彼女は僕らのすぐ側までやってきた。そして笑った。
僕は驚いた。一瞬でたくさんの希望が湧いた。彼女は知っていたのだ。僕がいつも彼女を見ていたことを。それから、僕の気持ちのもっとも深いところまでもを。そして、こんな風に、僕に話しかけてきたのだ。けど、本当はそうじゃなかった。彼女は英作に笑いかけたのだ。
「なにしてるの、こんなところで?」彼女は言った。
「歩いていたんだ」英作が言った。
「授業は?」
「サボったんだよ」
「平気なの?」
「平気じゃないね」
彼女は笑った。ほんの少し顔を傾けて、大学のほうを見た。そしてもう一度僕らを見た。僕らが何も言いそうに無いのが分かると、彼女は言った。
「じゃあね」
彼女は小さな、白い、細い指先を振った。僕のことは見なかった。彼女は少しずつ僕らから遠ざかっていった。足音は聞こえなかった。国道を走る車がその音をかき消していた。止まない地鳴り。僕らは彼女との距離を測っていた。僕らの会話が聞こえなくなるところまで、彼女が歩いて行くのを待っていた。英作はいつの間に彼女と知り合ったのだろう?僕は自分が怒っていることに気づいた。理不尽で、正当な怒り。白い軽トラックがそばに停車した。僕が話す前に、英作が言った。
「ペンを貸したんだ」
「どこで?」
「事務所だよ」
「どうして?」
「彼女がペンが無くて困っていたからさ、もちろん」
「どうして?」
「貸してくれと言ったからだよ、彼女が」
「貸すべきじゃなかった」
「俺のせいじゃない。彼女が言ったんだ。貸してくれって」
「お前のせいだよ」
僕が英作にお前と呼ぶのは久しぶりだった。僕らの間には口には出さないルールがいくつかある。これもそのうちの一つだ。僕は英作をお前と呼んではならない、時々、誤って呼んでしまう時以外には。彼に対する尊敬がそうさせるのだ。彼をお前と呼ぶことは、いつも、不道徳なことのように感じられた。父親の頭を叩くとか、そういう行為と同じように。
「あのな」英作は言った。「俺が誰かにペンを貸すのに、お前の許可を取らなくちゃならないのか?彼女が貸してくれと言ったんだ。だから俺は貸したんだ。俺はお前に謝らなくちゃならないのか?彼女にペンを貸してすまなかったって?」
「貸しちゃ駄目だったんだよ」
「ほかに方法が無かった」
「それでもだよ」
「彼女はお前のものなのか?」
「どういう意味だよ」
「お前は自分のモノに手を出されて怒っているんだ。嫉妬しているんだ。けど、彼女はお前のモノじゃない。誰のモノでもない。今のところは」
「僕のモノのようなものだった」
「誰が決めた?」
「お前は口に出さなかったじゃないか、彼女について、何も。僕はいつでも彼女について話した。彼女は僕のモノだった」
英作は何も言わなかった。言葉を探しているのだ。僕は彼に続けて言った。
「お前はペンを貸しただけかも知れない。彼女からお前に話しかけたのかも知れない。お前はほかに、どうすることも出来なかったかも知れない。けど、これはお前のせいなんだよ。彼女がお前に話しかけたのは」
「むちゃくちゃだ」
「そうだ。けど、事実だ」
英作は途方に暮れていた。それから、うっすらと笑った。子供のわがままに付き合う、大人みたいに。僕は彼の肩越しにまだ見える、小さな彼女の姿を見ていた。