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彼女が姿を現す授業は、ロシア経済学だけだった。僕らは教室の一番後ろにいつも座った。そこからは、いつも窓際に腰掛ける彼女の姿がよく見えた。それに、教室の後ろには魅力的な怠惰がはびこっていた。これこそ、僕らの愛する餌だった。身体を机に預けて、全身で僕らは怠惰を吸った。横にいる生徒と大声で話す者もいたけど、僕らはそうはしなかった。教授の真剣な声と、怠惰が持つ重力に浸って、少しずつ眠りに着くことを、僕たちは趣味的に尊敬していたのだ。
「ロシアは」教授は言った。
頭髪の薄い教授だった。眼鏡をかけて、田舎訛りで話した。彼は典型だった。教室のざわめきの隙間を、臆病なささやきで埋め、誰一人注意することなく、授業を終える。あまりにも生徒のおしゃべりがひどい時にのみ、出ていきなさいと遠慮がちに言う。震える声と、しょっちゅう上げなくてはならない眼鏡。彼は哀れなほど典型だった。そのことが彼を不幸にしていた。生徒たちは授業のかなり初めの頃から、彼を見抜いていた。若者たちは容赦しない。彼が典型であり、決して怒らないことがわかると、自分たちよりも弱い存在だと考えた。彼は典型から抜け出す必要があった。赤い眼鏡を一つ掛けるだけで、彼はその目標を達成出来ると僕は考えていた。彼の小さな瞳を覆う赤色に怯えて、生徒はきっと声も出なくなるのだ。
「ロシアの経済は」彼は震えながら言った。
あるいは、全然、気にもしていないのかも知れない。自分で出版した書籍を教科書として扱うことを、教授は忘れなかった。僕らみたいに、教科書を買うことさえ怠ける人間を別にすれば、多くの生徒が彼の書籍を買ったに違いない。街の本屋や学校の売店を経由して、生徒のお金は彼の懐へ入ってくるはずだった。それさえ行われれば、後は彼の興味の対象から外れてしまうのかも知れない。教室は混沌としていた。最前列ではわずかに存在する真面目っ子が不幸なほどの従順さでノートを取っている。彼らの努力は永遠に報われないかに思われた。多くの生徒は未来を見ていた。授業が終わり、その後に訪れるほんの先の、安らかな未来を。堂々とゲームをする人間もいた。おしゃべり、肘のつつきあい、教授の似顔絵。別々の楽曲を弾くオーケストラだ。指揮者である教授は、誰にも知られずにか細く指揮棒を振り続けた。
「不況から脱することが当面の課題です」彼は言った。
長いテーブルのいつも左はじに席を取り、彼女は真面目に教授の話を聞いているように見えた。両肘を机につき、指先でペンを弄ぶ。少し前かがみに猫背にして、彼女は教授の身振りを見ていた。傲慢に足を組んだりはしなかった。イスの下でつま先を床にとんとんと、ぶつけるのが好きだった。授業をきちんと聞いているのだという主張が、彼女の姿には現れていた。彼女は教室で平均値を探していた。真面目な生徒と、怠惰な生徒の中間の、もっとも目立たない態度を。隣の生徒と話すことも無ければ、手を上げて質問することも無い。教室にいる生徒の中で、やや真面目な部類に入っただろう。耳のイヤホンを除けば。外の小さなグラウンドが見える窓側の耳にだけ、彼女は白い小さなイヤホンをしていた。教授がホワイトボードから振り向く時だけ耳に手のひらを当てる。イヤホンの存在を彼女は巧みに隠していた。一度、教授がカーテンを閉めるために、彼女のすぐ側まで近づいたことがあった。彼女は慌ててイヤホンを外そうとしたけれど、教授はもう側まで来ていた。外すのが見られたら、かえってバレてしまいそうだった。そこで彼女は急いで髪をとき、長い髪の中にイヤホンの白いコードを潜り込ませようとした。手のひらで耳を覆い、もう片方の手で教科書を見るフリさえした。手のひらを耳から離すわけにいかなかったから、彼女は首を傾けなくてはならず、滑稽にも教科書を高く掲げなくてはならなかった。教授は彼女の奇妙な姿勢に目も向けず、全てのカーテンを閉じると教壇に帰った。その間、彼女はずっとその姿勢を保たなくてはならなかった。ズルい女のコなのだ、彼女は。真面目なフリを装って、平気でこっそりと好きな音楽を聴くのだ。彼女の若くてユーモラスな性格は、音楽無しじゃこの退屈な授業を切り抜けられそうもなかった。彼女のつまさきが音楽に乗せて、床の上を跳ねるのを僕は愛した。
彼女の表情には、いつも怒っているようなところがある。それから、少し、傲慢なところも。大きな目が鋭いのと、小さな口は口角が垂れているせいだ。鼻が小さくて尖っていたから、ツンとした印象を与えた。彼女と目が合うと、僕は自分が年下の取るに足らない人間に扱われているように感じた。教授も大学も真面目っ子も、彼女には軽蔑の対象にされているように見えた。あなたの服装ってどこかおかしいんじゃない?そう笑われているような気がして、僕は急に自信が持てなくなった。彼女の目には人の自信を壊してしまう、軽蔑的な笑いが潜んでいた。
「それじゃあ、そろそろ、失礼するよ」英作が言った。
教室は飽和状態だった。人々は自分の役割に従事し始めている。教授はこの授業に今日一日をかけている。僕らには授業の後にも続く未来があった。夜は長いのだ。窓際の、一番後ろに腰掛けている二人の生徒のおしゃべりと、教授の小さな声は、奇妙に調和していた。自然の風と、樹々のざわめきに似た関係があった。彼らは僕らを眠りにつかせるために、手を結んだらしかった。少し汚れている、自然的な、環境音。僕たちは机に頭を乗せて、授業が終わるまで呼吸一つせずに深く眠るのだ。
起きると、いつも彼女はもういなかった。