骨の三日月
気性荒め忠犬×特異体質坊ちゃん。人×人外のブロマンス
かなり以前に個人で出した本の全文です。
人外要素を含みます。
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しっとりと重い闇の中で、達は気づく。
眼は、一番最後に醒めるのだ、と。
足指の先から、踝、脹ら脛、腿。腰回りから臓腑を巻き込んで胸、心の臓、首、頚椎、顎、鼻。
やはり眼は、一番最後だ。
眼が醒めると、身体に徐々に『身体としての意識』が漲っていくのがわかる。
生きた身体。冷たい骨とあたたかい肉と血と、それらを繋ぐ何か。循環し、体感する。そうしてやっと医更木達という個人を取り戻す。この瞬間は、常に達を憂鬱にさせた。
自分が自分である事実。その何でもないことを一度忘れ再度認識するこの瞬間、ぞっとするような冷たい視線を達は感じる。そうして、その視線を辿って行き着くのは、醒めたばかりの己の眼なのである。
憎悪というほど大袈裟ではない、だがそこにはあからさまな侮蔑があった。強いてたとえるなら、簡単な問題を間違える下級生を見下す、意地悪い上級生のような。
開いた視界に天井を映してから、達はゆっくりと身を起こそうとした。だが、それは叶わない。意識も意志も取り戻したというのに、身体は動いてくれない。
それでも達には、焦る気持ちは起こらなかった。
こういうときどうすればいいか、達は既に知っている。幼いときから、ずっとそうしてきたのだ。それで、間違いはない。
待てばいい。
待っていれば、この湿った闇の薄膜を破って、達を救う手が伸びてくる。手は決して荒あらしくはないが、どうやら闇を嫌っている。破り捨てるようにかき分け、達に纏わる闇を引き剥がして、手はそっと触れてきた。
まず髪を撫で、長い指は耳の裏に回る。そうして頭を支えながら、腰を辿りゆっくりと、壊れものであるかのように達の身を起こす。己の意志で満足に動けないのだから、ある意味壊れてはいるのだろう。
手が守ってくれなければ、今の達の腹を割いて中を見るくらいは誰にでも、造作もなく出来る。
達の身を支えながら、手はやがて腕となり、そのまま全身を形作って、達の見知った人間となる。
『さらさま』
声がした。なんだか泣きそうな声だ、と達は思う。
唇は呼ぶ。さらさま、ともう一度。
その唇が、とても近いことを達は感じる。ひどく近い。いっそ触れればいい、と思うほどの近さだが、薄い膜ほどの距離を介して唇はいつまでもそこに留まり動こうとしない。
それにしても、さらさま、とはひどい。と達は苦笑した。島の老人たちの中でも、もはや達をその名で呼ぶ者はごく少数だというのに。
苦笑したつもりだったが、どうやら達の表情は動いていない。まだ、肉が重いのかも知れなかった。
辛うじて動かした唇で、達は彼の名を呼び返す。
―― 鎖守。
音になっただろうか。それすらわからない。ただ、達の意図は伝わったようで、呼ばれた鎖守の声は緩み、唇には仄かな熱が点ったようだった。
『まだ、眠っていて』
近すぎる距離で、まるで懇願するような声が返された。これは一体、自分の夢の中の出来事なのかどうなのか、達には判じかねた。普段の鎖守は決してこんな声は出さない。達のことを更様とも呼ばない。
『もう、しばらく』
鎖守がそう言ったのと同時、吐息が肌に触れた。ぞくり、とするこの感覚がどういうものなのか、達には心当たりがない。
もしかして、鎖守は自分に触れたいのではないか。ずいぶんと突飛な考えとも思ったが、ほかにこの距離の説明がつきそうもなかった。
触れればいい。理由はわからないが、その距離で踏み留まって息を詰めているくらいなら、どこをなりと触れてくれていいと達は思う。鎖守にされて嫌なことなど何もない。勘違いなら、それでいい。鎖守がくるしげにする様を眺めている方が、こちらも余程くるしいのだ。達は片腕を持ち上げた。骨の形からして既に姿のよい腕が、しんと伸びた鎖守の項に絡みつく。ゆるゆると、炎が折り重なる薪の上を這うような動きで、鎖守に触れる。
触れてみると、欲しているのは己の方なのではないかという気がしてきた。
腕をとどかせてみると、達の胸はひどく昂った。
いつもそばにいるだけに、端から見れば近すぎるくらいの互いであるだけに、こんな風に触れるのは初めてだった。
昂った。
同時に、これは抱いてはならない情であるとの思いが強く迸った。
どうする、このままでは。
ふたりとも、焼けて朽ちて死ぬ。
―― そうなれたらいい。
言われた言葉に、驚き眼を見張ったつもりだったが、達の視界はまだ闇の中だ。すぐそばに、鎖守の呼吸を感じる。生きた鎖守の身体、骨と、肉と、血とを。
『俺の全身、あなたのものだ。だから』
あなたの欠片は、俺のものに。
「……かけら」
実際声に出せたかはわからない。だが達の唇は、確実にその言葉を形づくった。俺の欠片、とはなんだろう。
何かはわからない。わからないが。
鎖守の欲するものなら、なんでも与えてやりたいと願う。骨の欠片、肉の欠片、血の一滴。
それらはきっと、鎖守なしにはまともに機能し得ないものなのだから。
むくりと達が身を起こすと、妙な感覚は消えていた。
いつも通りの朝である。
鎖守は既に起きて身支度を整えて、キッチンのコンロに向かっていた。シンクには卵の殻がふたつぶん転がっている。
身長180を越す男が立つには、いささか手狭なキッチンである。だがそれを特に苦とする様子もなく、鎖守はボウルの中身をフライパンにあけた。ジュワっと音がして、すぐに香ばしいにおいが漂い始める。
「……」
どうして、あんな夢をみたのか。立ち働く鎖守の背中を凝視しながら達は考える。今こうして見ている分に、鎖守は鎖守でしかない。
確かに、達と鎖守の関係は特殊だ。血ではないものが繋いでいる。幼い頃から積み重ねた時間が、濃く彼らを繋いでいた。兄弟以上。ただの『家族』であったなら、ここまで時間を共有することはなかっただろう。
達が物心ついた時から、鎖守は近くにいた。途中までは、本当に兄なのだと思っていた。
だからこそ、都会に居を移して鎖守とふたり暮らしになっても、特に違和感も問題もなく二ヶ月が過ぎた。
そう生まれついたのだから、と、お互い何の疑問も抱かずにやってきた。それはきっと、これからも変わらない。
だが昨日の夢は、あれは。
あれではまるで。
鎖守に訊ねるわけにもいかないので、達は黙っている。振り返らないままで、鎖守の方が口を開いた。
「気分は?」
「同じだ、いつもと」
「そっか」
鎖守結が兄ではない、ということを幼い達にしつこく教えたのは老人たちだった。
―― 鎖守の家の子じゃ兄さんなん
―― 結、おめぇがそねな口きくから
彼らはとても執拗で、気づくと鎖守はいつでも周囲の大人に叱られていたように思う。それでも彼はいつも涼しい顔をしていたし、達を他の子供のように『坊ちゃん』と呼ぶことをしなかった。医更木の坊ちゃん、と呼ぶ代わりに鎖守は達をトッチャ、と呼んだ。とおるちゃん、が照れたせいでくしゃくしゃになったその呼び名は鎖守だけが使っていて、密かに達はこれを気に入っていた。他には誰も、達をそんな風に呼ばなかった。母親でさえも。
翻って、やはり昨日の夢はおかしい。なのに鎖守の声が自分を『あなた』と呼んだのが、妙に生々しく耳に残っていた。
ぼんやりとそんなことを思い出していると、焼きあがったものを乗せた皿を持った鎖守が足早にテーブルに歩み寄ってきた。50センチほどの高さのパイプベッドから身を起こして、ベッドをそのまま椅子として使う。
「ほら出来た。早く食えよ」
出かけるんだろ、と付け足した鎖守の声は、すこし不機嫌だった。
鎖守が作る朝食は、大体いつも同じだ。分厚い食パンを牛乳と卵を混ぜたものに浸して焼いて、その上に砂糖がどっさりかかっている。甘すぎるくらい甘いのだが、食べると力が湧くからと鎖守に言われるうちに、本当にそんな気がしてきて今に至る。もっともこれは、鎖守自身も、育ての親であるキヌ婆さんの言葉をすりこまれているフシがある。
そして飲み物は、なぜか日本茶だった。口の中がジャリジャリいうほどの砂糖をながすのには、確かに日本茶の苦みはちょうどいいのだが。
最後の一口を押し込みながら、とうとうという風に、鎖守が本音を吐いた。
「……そんな、怪しげな奴になんでわざわざ会うんだよ」
鎖守が言っているのは、今日の『待ち合わせ』についてである。
鎖守は達が『外』の人間と接触するのをあからさまに嫌がる。この場合の外は、島の外の人間という意味でもあるし、自分たち以外、という大雑把な捉え方も出来る。
嫌がる、と言っても別に鎖守の個人的な人見知りではない。鎖守には、そういう役目が与えられている。正確に言えば『鎖守家』の人間に与えられた役目だ。医更木の『身体』を守護する。それが。
「怪しげだから会ってみるんじゃないか」
「いちいち相手したら、つけあがるに決まってる」
鎖守の不機嫌が本物であることを覚り、達は口を噤む。一度こうなってしまうと鎖守は頑固だ。しばらく放っておくしかない。大人げない、と、三つ年上の男を流し目で見ながらふと、達は先程まで見ていた夢のことをまた思い出した。
夢の中の鎖守は、普段のどこか醒めた彼とも今の子供っぽい様子とも違っていた。あんな鎖守を、達は知らない。知らないのに、妙に生々しく記憶に残っていた。もし鎖守に恋人でもあれば、あんな風に囁くのかも知れないと思えば、気恥ずかしいような申し訳ないような、なんとも説明のつかぬ感情で鎖守の顔がまともに見られなくなった。
その情を誤魔化す意味合いも兼ねて、軽くふっかけてみることにした。
「どうしても嫌なら、俺ひとりで行く」
「出たよ。そうじゃねえって、わかってるくせに」
案の定、鎖守は余計むくれだした。鎖守本人が出かけるのを億劫がるのではない。達が、誰とも知らぬ者に会いに行くのをよしとしないだけなのだ。彼はいつでも彼自身の感情や思考や希望というものを、どこか遠くにおいている。まず、達のことを第一に持ってくる。
鎖守がこうなった原因を、達は沢山思い浮かべることが出来た。島の老人たちが古い盟約を姦しく持ち出すこと、鎖守の養母が鎖守家の努めを忠実に果たそうとする人だったこと。だが一番の原因は、鎖守の根が優しいことにあるのだと、達は思っている。
鎖守は優しい。誰よりも、達に優しい。
鎖守のその優しさが達以外の人間になかなか伝わらないのには、ひとつに鎖守の強面が原因に挙げられた。決してつくりそのものが怖いわけではないのだが、いつでも不機嫌そうに尖っている。怖い顔をしている、と言われがちだった。
尖ってるところが、鎖守は綺麗だ。
と、達はずっと思ってきたが、それを周囲に説明出来るほど器用でもない。結果、鎖守は達の傍でいつも不機嫌そうにしている男、ということになってしまうわけだが、鼻先が尖っていて、目の端がすこし上向いている鎖守の顔を、達はとても好きだった。
子供の頃、それをそのまま伝えてみたことがあったように思う。そのときも、今と同じ答えがきたのではなかったか。
「トッチャは慣れてんだよ、俺の顔に」
「それは否定しないが」
「まあ、いいけどな。なめられるよりは」
そんな話をしながら、連れだって街へ出かけた。
今ふたりが住んでいるのは家族世帯向けのアパートメントで、部屋はリビングダイニングをあわせるといつつある。都会の感覚で言うなら、ふたりで住むには広すぎた。が、医更木の実家と比べると、随分コンパクトな住居である。
「それ、こないだ作ったシャツだろ」
「そうだ」
「なんでそれ着てきた?」
「別に……? たまたま」
達が今日着ているシャツは、先日仕立てたばかりの新品だった。同じ島の出の老人がひとりで営んでいるテーラーに出かけて、全身くまなく採寸されるところを鎖守も眺めていた。
首も肩も腕の長さも、完全に達の身体を把握した上で、もっとも美しく見える大きさに仕立てられたシャツ。その襟から、夏雲のようにスッと達の項が伸びている。
「そんな、ちゃんとしたカッコで会わなきゃいけないような奴なのか」
「考えすぎだ。特に意味はない」
目元を軽くしかめてそう答え、更に達が続けた。
「お前の顔は、怖いんじゃなくて解りやすすぎる」
「何が」
「会う前から噛みつきそうだ。いいか、噛むなよ」
人のこと猛獣みたいに、と腐りながら、鎖守がぼそりと言った。
「……何で会うんだよ」
「だから」
「違う、本当に理由を訊いてんの」
確かに世間知らずなところはあるが、達は自ら望んで危険に突っ込んでいくような、浅薄なことは決してしない。むしろ彼は、彼の身に慎重にならざるを得ない。そういう風に生まれついている。
ということは、その怪しい人物に会うべきである、と判断したなにか明確な理由があるはずだ、と鎖守は言っている。
「その理由を教えろっつってんの」
「いいけど、その前にひとつ問題が発生した」
「なに」
「迷った」
「……は?」
「もう待ち合わせの時間になる」
「あ、あんだけ堂々と歩いてたくせに道わかってなかったのかよ?」
「なかった」
「……!」
あまりにきっぱり言うので、鎖守も呆れるしかない。
実際、医更木達という人間には、臆するところがない。これは生まれ持った胆の太さなのだろうと鎖守は考えている。生まれてこのかた、島から一歩も出たことがなかった割に、街の暮らしにあっさり馴染んだのは、適応力があるというより単に胆が据わっているのである。
「いつの間にこんなふてぶてしくなっちったかなあ……」
小さい頃の達は、完璧に愛らしい顔をしていた。黒目の勝ったぱっちりした目と、子供らしいなめらかな頬と、ぽてりと丸い唇。だが、眉間には大体いつもしわが寄っていた。
日本人形のような顔をした子供は、妖怪話を聞くのが好きだった。怖がりではない、怖いよりも興味が先だつから、話自体は夢中になって聞く。だが夜になっても神経が興奮状態になって、眠れなくなる。そんなときに一緒に起きているのは、いつも鎖守の役目だった。達は鎖守にくっついてきたり話しかけたりするような、甘え上手のこどもではなかった。眠れない夜はただ目を爛々と見開いて、月を睨んでいる。そのうち気分も落ち着くだろうと放っておくと、じきに鎖守の方が眠くなりウトウトし始める。すると、急に寂しくなるのか達は黙ってじんわり涙をこぼす。それでも、鎖守の方を見ようともしない。ようやく気づいて鎖守から手を伸ばして頭を撫でてやったりすると、微かに表情が緩むのが可愛らしかったものだった。
それがまあ。
「まだか」
「わかったわかった」
「急げ」
すっかりふてぶてしく成長した達にせっつかれ、鎖守はおとなしくスマホを取り出した。本当なら、このまま煙に巻いて待ち合わせそのものをなかったことにしてしまいたい気持ちを抑えながら。
待ち合わせの店を、達は勝手にこぢんまりした雰囲気で想像していたのだが、どうやら新しく出来たばかりの商業施設内のカフェであるらしい。無駄に洒落ている。見渡した限り女性客が多いが、子連れやカップルも見受けられる。
店の半分はテラスガーデンになっていた。パラソルの下の席に黒いジャケットを着て、人待ち顔でもなく座っているのが、達の待ち合わせ相手だろうと思われた。
「鎖守、顔」
「あ?」
「その顔は、怖がられても文句は言えない」
そう小声で宥めてから、達はパラソル席に近づいていった。
「医更木さん?」
達の顔を見て、リラックスした様子で男が笑顔で訊ねてきた。達は頷く。思っていたよりずっと若い、まだ二十代だろう。どうやら向こうも同じことを思ったらしい。
「医更木くん、の方がしっくりくるか」
対して鎖守は、今すぐ噛みつきそうな狂犬のご面相である。さすがにこれを気にせずにこにこしているのは、余程心臓の太いやつなのだと思わざるを得ない。
様々思い巡らせるべきことはあったが、とりあえず向かいに座る。といってもテーブルが丸いので、三すくみ状態だといえないこともない。
「じゃあこれ、はい」
差し出された名刺には、目遠葵、と名が記されていた。
その名刺が昨日今日印刷されたものでないことは、一目でわかった。名前の他にはなにも書かれていない。紙も書体も古くさかったが、決してみすぼらしくはない。むしろ、この若い男には不釣り合いなほどの重厚感があった。
達には医更木家当代、といういかめしい肩書きがある。話によれば、目遠は連絡を取ってきた折に「憚りながら先々代とのご縁の糸端に与り」という、これまた古めかしくいかめしい挨拶をしてきたという。なら会えば肩書きを振りかざしてくるのだろうと、達は予想していたのだが、外れた。シンプルという他はない名刺に視線を落としている達に、目遠が笑いながら言った。
「ごめんね、何も書いてないでしょ。じいちゃんの知り合いのとこで印刷したもんだから」
言って、目遠は両手を組み直す。口でごめんねと言ってみてはいるものの、さして悪いとは思っていないのがわかる。
「えーと、どこから話そうか」
温厚、と呼ぶにはどこか人を食ったような口のきき様である。慇懃無礼、と言うよりやや無礼に寄っている気すらする。
「出来れば最初から、全部」
至極まじめな顔で達が言うと、目遠は妙にうれしそうな顔をした。
「長くなるかも?」
そこへ、ウェートレスがトレイに甘味を三つ乗せて近づいてきた。まさかと思ううちに、彼女はそれを三つともテーブルに置いていってしまった。達が軽く眉を寄せ、なぜか鎖守を責めるような目で見て言った。
「俺は頼んでない」
「……いや? 俺でもないし!」
「あ、俺俺。この店の一番人気メニュー。抹茶わらびもちアラモード。奢りだから、食べて」
目遠がへらへら笑いながら、スプーンを手に取った。
「美味しいよ?」
イラッという効果音をはりつけたような顔を、鎖守がした。
目遠葵の祖父は、書籍仲買という仕事をしていたのだという。
「この仕事ってさ、信用がステータスみたいになってて。肩書きや学校名なんかでなく、名前で客を取ってからやっとスタートラインみたいな。だからこういう名刺が珍重されるっていうか、まあそのスジだとカッコいいってんで作ったけど、使いどころがなくてさ」
目遠自身は仲買ではないのだ、と言った。
「そこまで本の虫じゃないからね、俺」
書籍仲買、という仕事に達がピンときていないことを悟ったらしい目遠は、そのまま説明を始めた。
「現代じゃ、成り立つような仕事じゃないよ。なんて言うの、いわゆる知識人って人たち専用のデータベースみたいな人だったんだ、うちのじいちゃん。大学の教授だとか作家だとか研究職の人、みんな資料に困るとじいちゃんに連絡してきてた。ってまあ、じいちゃんの若い頃の話だから、本人からそう聞いただけだけど」
目遠は口元に笑みを浮かべて、何か異性を口説くような調子で楽しげに話をした。達は黙って話を聞いている。鎖守は相変わらず目端を角張らせていたが、目遠はその様子を気にするでもなく、話を続けた。
「今じゃ信じられないけど、仲買でじいちゃんはそれなりの貯蓄まで作ってた。それが、戦争になって、お得意さんがみんな死んじゃったんで商売にならなくなって、まあ色々大変だったみたいなんだけど」
まあそれは置いとこう、と、縦長のグラスの中から抹茶ソフトを目遠がひと掬いする。達と鎖守の分は手をつけられないまま、汗をかき始めていた。
飄々としている、と言うのか。目遠は愛想はいいが何を考えているのかをまるで掴ませない、これまで達が接したことのないタイプの男だった。街の人間、と言ってしまえばそれまでなのかも知れないが、それとは別にどこか底の知れないものを感じる。
「えーと、何の話だっけ?」
「祖父の」
達が黒い目で目遠をじっと見てから、慎重に口を開いた。うん、と頷いて目遠が先を促す。
「俺の祖父の一部を持っている、というのは」
「……?」
鎖守が怪訝そうに眉をしかめて達を見た。
どうやらこれが、鎖守の知りたがっていた『達が目遠に会う理由』らしかった。
目遠は医更木家の連絡先を、直接知っていたわけではなかった。更島にある船着き場の番号をネットで調べて電話し、そこから取り次がれて今に至る。
医更木の、御祖の一部をお預かりしていると、ご当代に伝えて欲しい。そういう伝言だった。
「ああ、あれね。そういう言い方したら、興味持ってもらえるかなあって思って」
「では、実際には持っていないと」
「そうは言ってない」
一瞬存外な鋭さを声に潜ませてきた目遠の様子を、達も鎖守も見逃さない。と言うよりは、わざと見せつけたのだろう。油断ならない、と達が身構える。
対して、目遠はやはりリラックスしているようにしか見えなかった。たっぷりと達の顔を眺め、それから鼻先を鎖守にも向けた。
「医更木くんと、鎖守くん」
「……」
突然、己の名まで出されて、鎖守の仏頂面は最高潮を迎えていた。
「好奇心の目なのは勘弁してよ、なんたって君たちは俺にとっては、本に出てくる登場人物みたいなもんだから」
目遠が取り出したのは、古びた日誌らしきものだった。表紙には『更島渡航記』と、墨痕鮮やかに記されていた。
*****
目遠峰一が更島に上陸したその年は、いつになく台風が多かった。海はひどくしけて、ただでさえ乗り物に弱い峰一は船を降りてもなお最悪の気分を持てあました。
この辺鄙な島にわざわざ降りたってみようという気持ちになったのは、たまたま手に入れた一冊の本のせいであった。
とにかく、この世で峰一に何か命じることが出来るのは、書物だけだった。幼くして親許を離れ、艱難辛苦の末に曲がりなりにも衣食住に困らず思い立ったときに旅が出来るくらいの暮らしが出来ているのも、すべては書物のおかげである。
世情にも噂話にも人付き合いにも興味はなかった。峰一の興味を引けるのは、活字だけなのだ。
島の人間たちは、予想に反して峰一をあっさりと迎え入れた。どっからきんさった、という問いに本土、という無愛想極まりない返事をした峰一を笑って案内してくれるような、ある種の無防備さがあった。
島のその明け透けで人懐っこい感じは、島長である医更木彬の性格そのものであったらしい。
読んで名の通り、医更木家は島内唯一の医院を営んでいた。院長の医更木彬は島民からは絶大な支持を集める有力者、であるのは確かだったが、それ以上に人々に人気があった。
会ってみてその理由はすぐに知れた。医更木の直系である彬氏は、峰一とは別の意味で浮世離れした人物だった。峰一は峰一で、一般とはかけ離れたところで自分の常識を持った人物であったから、この島に来るのが初めてで、特につても何も持っていないこと、唯一の接点と言えば彬氏の野草に関する研究著書を読んだということ、良書だと思ったこと、寝泊りする場所が決まっていないことなどを明け透けに彬氏に話したらしい。
一蹴されても文句の言えないところだったが、彬氏は快く自宅の離れに峰一が留まることを許してくれた。ばかりか、望めば医院の薬棚から蔵の中まで、なにもかもを惜しみなく見せてくれる気さくさを持っていた。
だから峰一は、彼にしては珍しく、ほだされてしまったのかも知れなかった。
誰か特定の人物に肩入れをする、ということをこの偏屈な書籍仲買人は基本的にしない。彼の人生の意味は書籍の頁をめくることであり、労力を払うのは貴書・珍書を手に入れるためか、またはそのための資金を得るためのいずれかである。
今回は、後者であった。
医更木彬の著書を読んだのは嘘ではない。内容はよく精査された野草の研究書以上のものではなかったが、良書であると思ったのも確かだ。だがその本を峰一に渡した人間は、そんな事には興味を示さなかった。
峰一をここに送り込んだ人間の目的は、秘密を探らせることにあった。本来、秘密とは人の手によって隠されているものであるはずだが、医更木彬はあまりにも明け透けだった。秘薬、と言っても作り方はホイホイ教えてくれた。医更木家は貴重な書物も沢山所持していたが、どれも隠すことなく見せてくれたばかりか、書庫の鍵をぽいと峰一に渡して自由に閲覧を許可してくれた。
一体秘密とは何なのか。峰一にはわからなかったし、それを炙り出そうという気もとうに失せていた。
峰一にこの依頼を持ちかけてきたのは、とある政府の高官だった。医療に興味があるわけでもなく、ましてや古書に造詣が深いわけでもない、完全なる俗物だと峰一は思っていた。金や地位や出世といった、わかりやすいものにしか興味を持たない、峰一のもっとも軽蔑している種類の生き物である。
対して、この医更木の長に、峰一はすっかり肩入れするようになっていた。彼には裏表がなく、自然や古書といったものに対する尊敬があった。
結局峰一は医更木家の離れに半年近くも滞在し、論文を書き書を記し、医更木彬の人柄と厚意を大いに賞賛しながら島を後にした。
彼と過ごした素晴らしい日々を、私は生涯忘れまい。触れてはならないからこそ美しいものがある。と、本は締めくくられていた。
*****
「……っていうようなことが、これに書いてあったわけ。なんか、ちょっとしたガリバー旅行記みたいだったっていうか。まあ実際は半分以上、じいちゃんの船酔いのボヤキなんだけど。結構俺が脚色した」
ぼんやりと、目遠の話を聞いていた達が、はたと現実に引き戻される。話が唐突過ぎて何がなんだかわからなかったが、要はこの目遠という男の祖父は、達の故郷である更島に上陸したことがあるということだ。
「じゃ本題。こういう資料がね、俺の家にはまだいっぱいあるんだけど」
近々家ごと処分しようと思ってる、と目遠は言った。
「処分?」
達が軽く眉を眇める。目遠は相変わらずニコニコしたまま言った。
「じいちゃん、先月亡くなったんだ」
「……それは」
軽く頭を下げようとする達に、ああと目遠は片手を振る。
「大往生だよ。最期の最期まで本持ったまんまだったしね。それはいいんだけど、じいちゃん俺の他に家族がいないから」
それはつまり、目遠葵が天涯孤独になるということを意味するのか。
「俺が持ってても仕方ないものだから。でも君なら」
興味があるんじゃないかと思って、と、目遠はストローで達の方を示した。
「とりあえず今日はこれだけ持ってきたけど、残念ながら俺には一体どこからどこまでが君の興味に響くか、判断すら出来ない。だからご足労だけど、うちに来てもらえないかなって」
「あ?」
今にも襟刳りを掴みそうな鎖守を、腕を伸ばして達が制止した。
ふたりの様子をどこかおどけた風に見比べていた目遠は、先に出した名刺の裏にさらさらと住所を書き付けた。
「泊まりがけで来たら? 都内だけど実はすごい郊外でね俺んち。空気のいいとこだし寝る場所くらいは困らないから」
すいと改めて差し出された名刺を手に取りつつ、達が低い声で答えた。
「……事情があって、あまり遠出はできない」
「もしかしてどこか体悪いの? 病気?」
「おい」
目遠を鎖守が思い切り睨みつけ、低く威嚇する声を出す。
「遠慮なさすぎだろ」
「……おっかないね、君の顔」
今更な言葉をしらりと吐く目遠に、怯む様子はこれっぽっちもなかった。
「いい、鎖守。……見たければこちらから出向くのは当然の礼儀だろ」
「そんな、大袈裟に考えないでいいよ。単に書斎は持ってこれないよってだけの話だから」
「少し考えさせて欲しい」
「大袈裟だってば。気が向いたら、好きなときに遊びにおいで」
まるで旧知の友達を誘う調子でそう言うと、目遠は残りの抹茶パフェを平らげ始めた。
後日の連絡を約束して目遠と別れ、住んでいるアパートメントの近くに戻った。春にはちょっとした桜並木になる道を歩きながら、達が暮色の空を見るともなく見て言った。
「何を知ってるんだろうな、あいつは」
「……」
目遠の語った身の上話がどこまで真実なのかはわからないし、結局、達に接してきた理由も見えないままだった。本当に、親切心から資料を譲るというだけのことだった、と思えばいいのだろうが、どうもしっくりこない。自分は本屋ではないと、目遠自ら言っていたせいか。
「関係ねえよ。知らんぷりしときゃいいんだ」
鎖守の主張は一貫してこれである。
「別に、埃かぶった本なんか島の書庫にだってまだ腐るほどあるだろ。まさか、本気であいつの家に行く気じゃないよな?」
「何かわかるかも知れない」
「何かって、なんだよ」
抑えきれない苛立ちを、鎖守はそのまま達にぶつける。こういう歯切れの悪い物言いをするのは、達がひとりで何かを抱えているときだ。ぽん、と鎖守が達の肩に手を置く。
「なんだってそんな、じいさんたちの時代の話に拘る必要あるんだよ?」
「……別に、拘るわけじゃない」
視線を逸らした達の様子に、鎖守が一度息を吐く。
「あいつが何者かは知らねえけど、トッチャは、何が知りたいんだ」
「俺が、俺自身について知りたいと思うのは、そんなにおかしなことか?」
「おかしくないけど、知って、どうなるんだよ」
「鎖守は、考えたことないのか」
「何を」
「…………」
そこで達は言葉を飲み込んでしまった。決して物言いの上手い方ではないとわかっているので、鎖守は続く言葉を急かさず待った。
「知れば、自由が増えるだろ。……自分で自分の体がどうにもならないっていうのは結構歯痒いんだ、俺だって」
ゆっくりと言葉を紡ぐ度に、達の目元は曇る。鎖守が短く息を吐いた。
「……そのために俺がいるんだろ。なあ、俺は」
「一昨年くらいに、一緒に書庫に入ったの覚えてるか。母屋の裏の一番大きいやつだ」
いきなり話が飛んだのですこし面食らったが、とりあえず視線を合わせて鎖守が頷く。
書庫の中身はほとんどが達の祖父の蔵書だった。活版で印刷されたものから、ガリ版、手書きのものまで種類内容は多岐に渡ったが、その中に一度も頁が捲られていないものはなかった。
更島の年史は角背仕立ての上製本で、それぞれ表紙に時期と、題字が記されているものだった。単なる年史にしては美しい本で、表紙には漢字が一文字、蝦茶色の糸で刺繍加工されている。文字は端から『朔』で始まり『繊』『舟』『望』と続いていた。それが月の名称を指すのだと気づくのと同時に、足りない月があることにも気がついた。誰が持ち出すとも思えなかったので、どこか別所に紛れているのだろうくらいにしかその時は考えなかった。
「……その足りない本をあいつが持ってるって言いたいのか?」
「それはまあ、発想が飛躍してるとは思う。けどもしかしたら」
口篭もる達の様子から、明らかにまだ何か言いたいことがあるのだと鎖守は覚る。とりとめのない話ではあるが、達がそこに拘るからには何か理由が必ずあるのだと鎖守は考える。
「あのな、俺は客観的に見て、あいつの話が信用出来ねえ。と言うより個人的にあいつが気にいらねぇ」
「それは知ってる。顔に書いてあった」
「俺の顔の話はもういいって」
怖い顔をするくらいで追い払えるなら、いくらでも鬼の形相をしてみせるが、目遠の薄ら笑いに、恐らくそれは通じない。
「なんていうか、やな感じがすんだよ。あいつ」
「……やな感じ?」
「なんか……うまく言えねぇけど」
今度は鎖守が口篭もってしまう番だった。正直、どこの馬の骨ともわからない奴と達が絡むのが気に入らないというのが九割だが、それ以外にも何か嫌な気配がある。それがあの目遠という男から来るものなのか、それとも彼に纏わる何かであるのかまでは、鎖守にも掴めてはいない。
部屋へ戻り、簡単に夕食を済ませて後。テーブルの上にはインスタントコーヒーのカップがふたつ。達はベッドに、鎖守は床に座って話し込んだ。
「とにかく関わらないのが一番いい」
「でもそれじゃ、何もわからないままだ」
こうなると達が頑固なのは、鎖守はよく知っている。
ここはひとつ情に訴える方向で行くべきだと真面目くさった顔を作る。
「心配なんだよ。あんな妙な奴のところにノコノコ行って、何かあったら」
「だから、お前がいるんだろ」
「……は?」
「何かあっても、お前がいてくれたら大丈夫だ」
しれっとそう返されて、鎖守が絶句する。その反応に言った達の方も、キョトンとした顔をした。
「何だ。さっき自分でそう言ったんじゃないか」
「いや、言ったけど……ていうか、どこでそんな口説き文句覚えてきたんだよ」
「お、俺は本当のこと言っただけだ、口説いてなんかない」
「だからそれが」
ああもう通じねえ、と鎖守が奥歯を噛む。
「落ち着こう、いったん落ち着こうな」
「俺は落ち着いてる」
達が涼やかな目元を顰めると、幼い頃と同じ顔になった。ただ、稚けなかった面差しは成長しひどく容姿の端麗な少年に育ち、最近更に大人びてきた。
「今のトッチャは、言っちゃなんだけどチョロいんだ」
「チョロい?」
「気になるんだろ、あいつが何を隠し持ってるのかが。もう滅茶苦茶気になるってそれこそ顔に書いてあったからな。そんな状態で相手の懐になんか入っていったら」
「どうなるっていうんだ。とって食われやしない」
「く、」
食われるかも知れないだろ、と、喉まで出かかって止めた。
達の気持ちがまったくわからないわけではない。島を出てからこちら、生活の変化が達の思考にも変化を与えたのだと鎖守も知っていた。これまで更島という閉鎖された空間の中にいればこそ、気にもならなかった達の身体の特異性が、街に居を移したことで浮き彫りになってしまった感は否めない。
自力で普通の暮らしがしたい。そのために、自分自身についての知識を達が追い求めるのを止める権利などは、鎖守にあるはずもなかった。
ただ、だからと言って何にでも手を出せばいいというものではない。いきなり焼け栗を素手で掴むようなことになればそれこそ。
「あの、な……」
と鎖守が口を開きかけて、そこで議論は強制終了になった。
達の身体はふらりとベッドに倒れ、そのまま冷たくなったからである。
目覚めは静かだ。いつもの通り眼は最後だが、今日はやけに時間がかかる。しばらくして達の眼の問題ではなくて、部屋の中が暗いのだと思い至る。
ベッドに座った状態だったはずだが、今はきちんと寝かされて布団もかかっている。
首を横に倒すと、見知った後頭部がすぐそこにあった。
「鎖守」
呼んでも、返事がない。どうやら床に胡座をかいて腕組みしたまま、居眠りをしているらしかった。見張りの兵士じゃあるまいし、と軽く呆れて達がもう一度呼ぶと、ぴくりと身動ぎして鎖守が目元を擦するのがわかった。
「眠いなら、ちゃんと布団で寝ろ。そんなに必死に見張らなくたって、夜中に勝手に出て行ったりはしない」
正確には部屋を暗くしていたのではなく、外が暗くなったのだ。街の夜はそれでもどこかしらに灯りがある。外灯だったり近隣の家だったり、どこかで全く知らない誰かが使っている灯りが、達と鎖守の元にも届く。街で暮らすとは、こういうことだ。
鎖守がゆっくりと振り返り、達をじっと見た。まだ怒っているのかと思ったが、予想に反して鎖守の声は緩慢として穏やかだった。
「トッチャ、さっき何言いかけた?」
「ん?」
「なんか言いかけてやめただろ。俺が、何考えたことないのかとかって」
訊ねられて、達はゆっくりと思考をめぐらせた。余計なことを言わず、核心のみを伝えたくていつも言葉を探すのだが、どうも自分はこれが上手くない。そうでなくても、この時間は頭がうまく働かないというのに。
「どうしてお前が今、ここにいなきゃならないのか、ってことだ」
「……」
「医更木と鎖守はそういうものだから、なんて言われて、本当にそれだけでお前は納得しているのか、って」
達にしては率直に、胸のつかえを吐露していく。鎖守は何も言わずにそれを聞いた。
「島にいる時は、俺はそんなこと考えもしなかった。鎖守が俺の傍にいるのは当然のことで、それで俺は」
不安になった、という単語が口から出てこない。自分が何か言えば言うだけ、鎖守は不自由になるのではないかという気がしたのだ。彼は優しい、この世で誰より達に優しい人間だから。
永遠にたゆたうような沈黙を、鎖守の声が破った。
「……アイス」
「え?」
「アイス、食う?」
唐突な問いかけに、達の理解はついていかない。でも、確かにアイスはいいなと思った。妙に渇いた口の中に冷たさが広がることを想像すると、妙に素直な返事が口をついて出た。
「……あるなら、食べる」
ふっと笑って、鎖守が静かに立ち上がる。気配は一度遠ざかって、冷凍庫の扉の開く音がして、そしてすぐに鎖守は戻ってくる。かしゃりとアイスの袋を剥く音。やがて目を閉じたり開いたりを繰り返す達の口元に、四角いアイスバーの角が近づけられた。
「あんま大きくかじると、崩れるぞ」
「ん」
甘やかされている、と思いながら近づいてきた角を、達の歯が噛んだ。しゃくりと脆くアイスが砕けて、口の中に転がった。甘い味が何かのフルーツを模しているのだとはわかるが、何なのかまではよくわからなかった。ただ、甘くて冷たくて美味しい。反対側の角も差し出されるままに齧った。鎖守が手元にアイスバーを引き、自分も一口齧る。
「俺が考えないのかって、さっきのやつさ」
「……、」
口の中が案外アイスでいっぱいになってしまっていて、声が出ない。聞いてる、と意思表示したくて、達は慌てて数度頷いて見せた。
「正直言うと考えたことねえし、これからも考えねえと思う」
でも、と鎖守が付け足した。
「お前が考えろ、って言うなら考えるよ」
「……」
再びアイスが差し出された、のかと思ったが違った。
鎖守の骨っぽい手が、達の頬に静かに触れた。こんな風に触れられるのは初めてで正直驚いたが、達はじっとしている。鎖守の手は、そのまま頬に留まる。乾いた掌の感触が心地よかった。
「何をどう考えたって、俺の居場所は変わんないけどな」
鎖守の声が、なんだか今にも泣きそうに聞こえて、達は闇に目を凝らす。
「動くなよ」
「っ……?」
首筋に触れたのが、鎖守の唇だと認識するのに時間がかかった。ちくりと何かが刺すような感触が走る。ぞくりと肌が騒ぐ。
「な……に……」
動けない。言われるまでもなかった。沈黙の後、鎖守が低く言った。
「痕、つけた」
「……なんで」
口走ってしまってから、軽率だったと達は後悔したし、鎖守も耳を塞ぐべきだったと思った。人が人の肌に痕を刻む理由など、なぜ、というならそんなものは。
もう一度、同じ箇所に同じ感触が落とされて、達の思考は真っ白になった。
「さ、」
音にならない声をあげて、達は首を仰け反らせた。だがすぐに与えられる刺激の面映ゆさと身の奥に響く熱に、反らせた首を前に畳む。
「……っ」
「声、出せないんだろ」
言った鎖守の声が、聴いたことのない色を帯びていて、達の身の熱が昂った。否、この昂りに、達は覚えがある。夢の中ではこの熱に煽られて鎖守の項に腕を伸ばしたが、実際はそうはいかない。布団の中で、ただこぶしを固く握りしめているだけだ。
互いに息を飲むことしか出来ず、全身が心臓になったかのように鼓動がうるさく感じられた。
「昔から、ずっとそうだ」
大事なことを、何も言わない。それは、お互い様ではあるのだが。
鎖守の鼻先が、達の目の前にあった。この距離で見てもやはり尖っていて、それを綺麗だと達は思う。その鼻が達の耳元に寄った。唇が開いて、
「……嘘だよ」
という囁きが落とされる。
何が嘘なのか、達には全然わからない。声だけが耳に残って、鎖守の身体は離れていった。生きた鎖守の身体、骨と、肉と、血が。
触れればいい。理由はわからないが、その距離で踏み留まって息を詰めているくらいなら、どこをなりと触れてくれていいと達は思う。鎖守にされて嫌なことなど何もないのに。
ほんの、壁一枚扉一枚を隔てているだけなのだが、今風の部屋の作りというのは便利に出来ている。家族で住むにしてもプライバシー云々が重要視されているので、互いを隔離するのには都合がいい。
一番北側の、自分の部屋のベッドに寝転んで鎖守は天井を見ていた。部屋と言っても半分は物置状態だし、自分の荷物というのも着替えくらいで、他は大してない。
―― 一昨年くらいに一緒に書庫に入ったの、覚えてるか。
覚えているに決まっている。達が覚えていないことまで、鎖守はつぶさに覚えている。
既に秋口だったがその日は残暑がまだ厳しく、妙に蒸し暑かった。あんな日に限って滅多に入らない書庫に達が何をしに行ったのか気にも留めていなかったが、今にして思えば、あの頃から達は既に自分が何者であるのかを探り始めていたのだろう。
中があまりに埃っぽくて、堪らず鎖守が裏手側の窓を開けようとしたところで、ガタンと大きな音がした。見に行くと、達が書庫の中に倒れていた。
こんな早い時間に身体が死ぬのは珍しい、と思いつつ慌てて鎖守が達の元へ駆け寄り、身体を抱き起こすと。
「いたた……」
「……うわ! 生きてる?」
普通なら、死んでる、と言って驚くところだが、達と鎖守の場合は仕方ない。こういうときの達は『死んでいる』のが常だったからだ。
「違う……ちょっと、気分が悪くなって」
「あ、ああ、そっか。空気篭もってたもんな。大丈夫か?」
「へいきだ、クラッとしただけで……」
浅く短く呼吸をしながら、達は鎖守の顔をじっと見て薄く微笑んだ。
「……なんだか、変な感じだな」
「言ってる場合かよ」
達の背中が、息苦しそうに上下する。その背を鎖守はゆっくりと擦った。いつにない温かさが手に伝わって、しかもそれはいつまでも冷めなかった。やがて、達の額には汗の粒が浮かんだ。鎖守が触れてみると、妙に冷たい。おそらく貧血を起こしているのだろう。
「生きてると、苦しいな。死んでる方が楽だ」
他人がきけば、何事かと驚かれるだろう発言だが、達には実感である。実感ではあるが冗談めかしているので、つい鎖守も一緒になって笑った。
いつもなら冷たく動かない存在になっているはずの達が、今日は自分の腕の中で呼吸し、話し、笑う。温度のある身体が近い。それだけのことに鎖守の胸はひどく昂ぶっていた。
「……みず、水もってくるから」
「ああ、頼む」
このままでは妙な気を起こしかねない、と、逃げるように鎖守は書庫を出た。台所に置いてあった水差しの盆をそのまま持って戻ってみると、達の身体はいつもの通りしんと静かになっていた。時間にすればほんの4、5分であったかと思う。
傍らに盆を置いて、乾いた唇に指を這わせる。先まであんなに血を通わせていた唇から熱は失せ、石のような冷たさのみが指に伝わってきた。奇妙な喪失感だった。数え切れないほどに達の身体の死に立ち会ってきたが、そんな風に感じたことはなかった。時間が経てば、元に戻るのだ。それがわかっていながら、こんな風になる己を解せない。
無意識に胸元を押さえながら、鎖守はふと考えた。
これでもし。
もし、今ここにいるのが自分ではなく、たとえば達の恋人であったならどうなるだろう。何も知らずに関係を深めてきた相手が、もしこの姿を見ればどうだろう。悲鳴をあげて逃げ出すだろうか。それとも、その場で泣き崩れるだろうか。いずれであったとしても、達は恐らく同じことを言うのに違いなかった。済まなかった、と、綺麗な顔で目を伏せて。
何だかそれがとても許せないことのように思えて、いもしないその『達の恋人』に無性に腹を立てたことを、なぜ今になって思い出したのか。
「……」
今の身体では確かに、達がひとりで普通に暮らすのは難しいのだろう。普通。それが何を指すのかは鎖守にはよくわからない。今の暮らしは鎖守にとっては何より普通だし、達もそうなのだとばかり思っていた。達の傍で、彼が眠り起きるのを見届ける。一体それの何が苦になるというのか。
いくら天井を見つめても眠りは訪れなかった。
壁を隔てた向こう側で、達は寝息をたてているだろうか。
公然の秘密、というやつだった。
更島の中で知らぬ者はない、そして島外の人間で知る者はない秘密。
一日三時間、彼は死ぬ。
屍化がいつ来るか、それは達本人にも掴めていない。顔を知らない達の父も、目遠の祖父が逢ったというその先代も。そもそもこれが病気と呼ぶべきものなのか、特異な体質なのかそれとも神仏にしか正体を知り得ないものなのか。
何ひとつわからぬまま、医更木の当代と島の人間たちはそれを受け入れてきた。
死んでいる間は、眠っているのでもなんでもなく完全な死体だ。だが、二時間ほどで息を吹き返し、三時間も経てば完全に元通りの、健康そのものの身体に戻る。
それが一体、二十四時間のうちのいつ訪れるかは、屍になる本人であっても読めない。一日一度訪れる、突然死である。
死ねば、当たり前だが身体は動かない。その動かない間、医更木の身体を守護する役目を担ってきたのが、鎖守の一族だった。医更木の当代に影のように付き従い『その時』が訪れれば素早くその身体を保護し、守る。
更島が、まだ開墾されず人も住まずの、本当にただのご拝領の荒れ島だった頃に取り交わした約束が、形を変えてまだ今の世に残っているのは、不可思議と言えば不可思議だ。
医更木と鎖守の関係は、元は主従である。
途中で社会情勢が変わり、歴史に於いても社会に於いても、身分の差というものはなくなった。新しい世の中になって、信頼だの忠誠だのという言葉が目に見える利害関係の中で聞こえてくるようになっても、医更木と鎖守の関係は変化しなかった。
ただの口約束だからだ、と鎖守の養母は言っていた。
血の意味で言うなら、鎖守結は、鎖守の人間ですらなかった。赤ん坊の頃に、今の養母鎖守キヌに拾われた子で、その事実を秘密にしようとしなかった養母を鎖守は好きだし、尊敬もしている。面と向かってそんなことを言えば照れくさいくらいの、いわゆる家族ならではの距離感も築いてきた。
そのせいもあってか、鎖守はその『口約束』というあっさりしたものに因って紡がれてきた医更木と鎖守の関係を、根本的に否定する気になれない。強制されていないからこそ、その気になればいつでも切れる糸で繋がれているからこそ。
達がその糸に絡まってもがいているのも知っている。縺れた糸束をなんとか選り分けて正しい形にしようとするのは、達の心根の真っ直ぐさの故だとも。正しい形を求めるからこそ、知りたがる。自分の身体と、その身体に纏わる話を少しでも聞きたがる。
知ってどうしようって言うんだ。小さい頃のこと、忘れたのかよ。妖怪話聞くだけ聞いて、興奮して眠れなくなっただけだっただろいつだって。
いつだって、今と同じように鎖守は達の傍に居た。
ただ居るだけでいい。それだけで某かの達の助けになれるのなら、彼の形が正しくあれるのならば、それ以上を鎖守は望まない。
糸束がどうなろうと、知ったことではない。鎖守が見ているのは、それを選る達の指先だけなのだから。
いつも通り、いつも通りの顔をすればいい。
洗面台の鏡の前で、鎖守は頭を抱えていた。いつも通りって何だ、普段自分がどんな顔をして生きているかなど、考えたこともない。怖いとか怖くないとか、好き勝手なことを達に言われている顔は、一体どうすれば普通であるのか。
昨晩自分がしたことを思い出すと、このまま鏡に映っている男の顔を一発殴るのが一番相応しいのでは、という気もする。
正直なところ、鎖守にとって今自分の顔はどうでも良かった。思い浮かぶのは、昨晩の達の顔に他ならない。
ただ鎖守は先からそれを、思い浮かぶ端からなるべく遠くへ放り投げている。脳内再生ですら直視出来ない、という状態が続いている。こんな状態で生で達の顔を見た日には、絶対いつも通りの顔が出来るはずがなかった。
さっさとしなくては、ぼちぼち達も起きてくる。余計な考えごと洗い流すように雑に顔を洗った。着替えて、朝食の支度をすべく冷蔵庫から卵と牛乳を取り出す。
手を動かすうちに、まずは楽観的な考えが浮かぶ。確かに昨日は少し調子に乗りすぎた。だが、相手はあの達である。単に、ちょっと悪ふざけをしたくらいの受け止め方をするのに決まっている。そうして、今自分が用意している朝食を日本茶と一緒に平らげて、いつも通りに一日が始まる。そうだ、そうに決まっている。
そうとなったらさっさと朝食を作らなくてはならない。そうだ、今日だって色々忙しい。その通りだ。そんな気分で、いつも通りのフレンチトーストを焼いた。牛乳と卵を混ぜたものにパンを浸して、それをフライパンで焼いた上に砂糖をどっさりとかけたやつを。
「……いくらなんでも、多すぎないか?」
「……ちょっと、手が滑って」
動揺が匙に出すぎた、とばかりトーストの上には白い山が出来ていた。明らかに面食らった顔をした達だったが、いつもの通りに食べ始める。鎖守は日本茶の葉をいつもより多くした。
食事中の会話が少ないのは、いつものことだ。だが今日はやけに会話以外の音が目立つ気がした。砂糖を噛むシャリシャリいう音、向かいの交差点の信号待ちの音、達がお茶を啜る音。
「あのさ」
「さが、み」
まさかの発言かぶりに、双方絶句した。そんなバカな、そんな、マンガやドラマで使い古したみたいな陳腐な現実があっていいはずがない。達も鎖守も無駄に怖い顔をして、またしばらく沈黙して生活音をきいていた。
今度はさっきの二の舞になるわけにはいかない。互いの呼吸を読みあって、ついに口を開いたのは、達の方だった。
「鎖守、あのな」
「……?」
それきり言葉をなくした達を訝しみ、顔をちらりと覗いてみた鎖守は再び絶句する羽目になった。
ちょっと待て。待ってくれ。
その顔するのか。わざわざ一言呟いてそんな顔するくらいなら黙っててくれりゃいいのに、と、思わざるを得ない。
俯き加減で、眉間に軽いしわを寄せて、それでも達の頬は間違いなく赤かった。
ちょっとでいい、ちょっとでいいから普通の顔をしようみたいなのなかったのかよと思う反面、これが精一杯だったかと思えばこちらの表情のほうが崩壊しそうだった。
余計空気がおかしくなった自覚があるのか、達は大急ぎで砂糖まみれの朝食を口に押し込み、苦目のお茶でそれを流し込むと忙しなく立ち上がった。
「ち、ちょっとそこまで、出かけてくる」
「そ、そこって? どこ」
「いや別に、そのへん、だ……その、散歩」
「あ、ああ、うんそっか。いいんじゃねえか」
ダメだ、全然ダメだ。今世紀最大の無様だ、と思いながら、携帯電話のみ握って部屋を出る達の背中を見送った。食べ終わった食器を手早く洗い、掃除機を引っ張り出した。散歩って。じじいかよ。他に何か言い方あるだろねえのかよ、などとひとり口の中でブツブツ言いながら続いて洗濯をし、シーツを干す。
いや絶対俺が悪いけど。絶対、俺が悪いんだけども。
一度自分が悪いと自覚すると、猛烈に罪悪感が湧いてきた。言って達には、行く当てもなければ他に帰る場所もない。その唯一の拠点に居づらいとなれば、それは散歩にでも行くしかないだろう。
返す返すも昨日の自分を丁寧に殴りたい。一体いつ箍が緩んだのか、自分でもわからなかった。そもそも、嫌悪の目で見られても仕方ないと言えば仕方ない。だがそうならないだろうという確信も、どこかにあったはずだ。
最悪だ俺は、と思いつつ鎖守は風呂の掃除に取り掛かった。
その頃。
達は、本当に老人たちに紛れて川沿いを散歩していた。犬を散歩させている人の姿も目立つ。朝っぱらから何を暇そうにブラブラしているのかと言われても文句は言えない。
ただ、鎖守と部屋でふたりきりのままでは、冷静になれる気がしなかった。
昨晩のあれが一体、現実に起きたことであるのかどうか自分でも怪しかった。そもそも最近、妙な夢をみたばかりだったせいもあって、ひどく後ろめたい。
「…………」
ふと自分で自分の首に手を当てて、すぐにまた降ろした。
一体あの行為は、何だったのか。あまり具体的に考えると先のように頬が熱くなってどうしようもないので、極力ぼんやりと考えることにした。
たとえばこれが、キス、だったならば。流石に達にもその意味くらいはわかる。だが昨日のあれはキスではない。じゃあ何だ。再び首に手を持っていきそうになるのを堪えて、ぎゅっと握りしめた。
別に大したことではなかったのかも知れない。昨日は確かに色々言ってしまったから、肩の力を抜かせる意味で鎖守はちょっとふざけてみせただけなのでは。一度その考えに取りつかれると、先の自分の態度が猛烈に恥ずかしくなってきた。顔が赤くなっていたのを気づかれただろうか。こちらに移ってから今までひとりで散歩なんか行ったことなかったのに、急に不自然だとは思われなかっただろうか。
どうしようもなくなっているところへ、ポケットの中の携帯電話が鳴った。
白い車体だよ、という言葉に従って見回すと、通りの向こうに停車している小さな車がそれだと知れた。電話をかけてきたのは目遠である。車の途切れるのを待って道を渡り、近付いていく。
「うお割と大胆」
達の顔を見るなり目遠はそう言った。怪訝な表情の達になんでもないよとへらりと笑って見せてから、目遠は先日と変わらない軽い調子で言った。
「ちょっとそのへんドライブしない?」
「……そのへん?」
「うん、そのへん」
成り行きでこうなった、と言えばそうだが正直渡りに船の気分でもあった。
何せ自慢ではないが達には知人も友人もいない。どれだけ鎖守頼りで生きているのか、こうなってしまうと思い知らされる。
「いやね、ちょうど近くにいたからね。会えるかなあって思って」
その言葉がどこまで真実かはわからなかったが、結局目遠の車の助手席に座って、達は流れていく景色をもの珍しげに見ていた。あまり車というもの自体に乗る機会のない生活をしているせいか、幅の広い道を車で走るのは楽しかった。
「彼、一緒でなくて大丈夫だった?」
鎖守のことを言われているのだと一瞬胸が騒いだが、はいと短く答えた。
「まあそうか。子供じゃないもんね」
確かにそうだと達も思う。お互い子供ではない、ただ自分たちの場合は特殊である。と思ったが黙っていた。
さして気にするでもなく目遠は雑談を続けてから本題を切り出した。
「ところで、こっからだと三十分くらいなんだけど、どう?」
「え?」
「こないだ話したでしょ、俺んち」
「……」
都内だけどすごい郊外、と言っていただろうか。高速に乗ればそれくらいで着くのだという。断ろうと思えば断れるし、断れば恐らく目遠はそっか残念、と言って引き返してくれるのだろうとも思ったが。
「帰りも送ってくれるなら」
「そりゃもう。放り出したりしないってば」
機嫌のいい声を出し、目遠はそのままハンドルを切り、インターチェンジへ入っていった。
二十分ほどで下道に出ると、風景は一転した。うねる細い山道は両サイドが杉の林であるためか薄暗い。そこを抜けると、道は開けて明るくなったが景色は更に荒涼としたものになる。
「まだかかりますか」
達の問いに、目遠がのんびりと答える。
「そうでもないよ。……あんまり田舎道だから、不安になっちゃった?」
「俺の住んでたところはもっと田舎です」
と達はまっすぐ前を向いたまま言い、
「じき雨が降ります」
と、真面目な声で付け足した。そう言う達の横顔と空模様とを横目で見比べながら、目遠が訊きかえした。
「そうかな? なんか、晴れてるけど」
「でも降る」
妙にきっぱり言い切る達の言葉に、目遠が楽しげに笑う。
「君が言うと本当に聞こえるね」
あやす調子でそう答えた目遠は、数分後には目を見張ることになった。雲が出ていたわけでもない青空は急に姿を消し、篠突く雨が降り出したからである。
「……降ってきた、ね……」
ハンドルを操作しながら、半ば呆れたような声を目遠が出した。
「なんかすごいね、達くん。森の人、とかそういう感じ?」
「よくわかりません」
「すぐ止みそう?」
「さあ、そこまでは……降りそうなことしかわからないんです」
「あぁ、あるねそういうの。こっちがわかるなら、そっちもわかりそうなもんなのにみたいなね」
しばらくはワイパーが全力で仕事をする勢いの雨が降ったが、ほどなく雨足は弱まった。都心は、家の近くは雨が降っただろうかとふと考える。雨が降れば鎖守から連絡がきていてもおかしくないと携帯を確かめたが、着信はない。
タイヤが濁った音をたて、砂利を撒いた道を走る。一応これでも舗装の跡なのだろう。
「俺にわかるのは、人が死にそうな気配だけ」
「……?」
「なんてね。ほら、見えてきた。あれ」
目遠が現在ひとりで暮らしているという家は、ちょっとした森の片隅に立つ洋館の風情を持っていた。達が住んでいた実家の母屋も大抵人から驚かれる古さであったが、こちらも相当だ。話に聞いた彼の祖父の色が強いのだろうと思った。達は先に車を降りて、しばらく館を眺めていた。
家のすぐ脇の丸太小屋めいた車庫に目遠が車を入れるのを待って、家へ案内される。
「散らかってるけど」
重厚な木の扉には鉄製のノッカーが取り付けられているが、もう叩く者もいないのか錆び付いていた。玄関はフラットな板張りで、床には美しい合わせ木細工が施されている。 一歩踏み込んで、ああ、と達は納得した。祖父の部屋と同じ匂いがするのだ。古い本が山ほど詰まれている部屋、整理整頓がされていないわけではないのに、ものや本が多すぎてなんとなく雑然としていた部屋。そこと同じ匂いだった。
かつては相当に裕福だったのだろうと思わせる邸だが、残念ながら現在は埃をかぶってしまっているのも確かだ。
木製の階段には美しい装飾の施された手すりがついていて、昇るとキイと高い音が鳴った。
案内された部屋は書斎に無理矢理応接間をくっつけたような部屋で、綺麗に整頓すればそこそこ広いのだと思われたが、今は床を覆い尽くす書類と書籍の山に埋もれている。日本語ではない言語で書かれたものも山積していた。
「どこをどう触っても構わないよ。お茶淹れてくるね」
言い残して目遠が部屋を出ていくと、達は本と一緒に閉じ込められたような気分になった。
祖父の部屋のものは、何も触らせては貰えなかった。
本当に幼い頃の話で、記憶も曖昧ではあるが。
達は達で、何か触れてはいけない秘密があるようで、どちらかと言えば祖父の部屋は怖かった。この部屋は祖父の部屋に似ている。よく似た場所で、どこを触ってもいいと言われている現状が、何だか少し面白かった。
部屋の正面と西側は大きな作り付けの本棚で、反対側の壁に沿って鍵のついた書棚も置かれていた。
本棚には種類別にぎっしりと本が並んでいる。下の方に大判が並び、緑の布表紙に金のかざり縁のついた、やけに豪華なデザインの植物図鑑には達も見覚えがあった。
「……」
どこからどう、手をつけたものか。達はそれなりに本を読むが、そう熱心な読書家というわけでもないと自覚している。文字と情報の山に埋もれそうになりながら、本棚を見て回る。多分、島の書庫にもこうした本や資料は埋もれているのだが、手をつけていないものがほとんどだ。
自分はいったい何を知りたくてここに来たのか。それを考えながら、手を伸ばすべき一冊を吟味した。
その前に、鎖守に連絡をすべきだとも思うのだが、すこし気がひけた。本当に最初は散歩だったから別に嘘をついたつもりはないのだが、今のこの状況はまるで、鎖守の目を盗んでこっそり目遠の家に来ているようではないか。ほんの一時間ほど滞在して帰れば、無駄に鎖守を心配させる必要もないだろうか。
キッチンで湯が沸くのを待ちながら、目遠は目を閉じる。
結局本だけが、この古い家に馴染むことが出来る唯一のものだった。
目遠峰一が築いたこの本の城に、最後まで自分の居場所はなかったのだと、はっきり葵は思っている。
祖父が自分を愛さなかったとは言わない。本だけを相手にして生きてきた超のつく変人だった祖父が、葵にだけは言葉をかけ、特別な存在として扱ってくれたことは重々承知していた。
ただ、やはり葵はこの家では異物だったのだ。
目遠が手に持っている盆もティーセットも、祖父が愛用していたものだった。海外の王室御用達、というブランドのアンティークもので、現在ではコレクションアイテムになっているような代物だが、祖父が若い頃から実用品として使っているのでもはやその価値はない。そのカップにティーバッグを泳がせて淹れた紅茶の盆を手に、目遠は書斎に戻る。
「あれ、なんかちょっと妬けるな」
目遠が口角を持ち上げてそんなことを呟いた。
書斎が、達を受け入れている。そんな風に感じてしまうのは、この少年の持つ古い水のような美しさの故か。調度品のひとつでもあるかのように、達の身体はここに馴染んでいた。
「俺のことは、ずっと拒否してたくせにね、まあ」
俺が先に拒んだんだけどさ、と目遠は笑った。
この、本で出来た要塞のごとき書斎は、結局祖父の墓になった。彼が幸せな大往生を遂げたことには微塵の疑問も感じないが、自分は御免こうむる、と思う。
書物は結局、葵の欲しいものを何も与えてはくれなかったからだ。書物には、欲しいものを探せとは書いてあったし、探し方を教えてくれる本もあった。でも結局、欲しいものが何なのかは教えてくれなかった。祖父のように本を愛せたならば、あるいは正解を教えてくれたのかも知れないが、そんなことをしなくとも。
ゆっくりと、目遠は達に歩み寄った。自分の影が達の肩に落ちる距離まで近づくと、膝を折る。
「本当だったんだ」
何故か、あやすような口調だった。意識のない、達の身体をくまなく見つめる。意識などあろうはずもない。なぜならこれは、屍なのだから。目遠の口元に、知らず笑みが浮かぶ。やがて目遠はゆっくりと腕を伸ばし、それに触れた。
「……これは、ちょっと無防備すぎるんじゃないのかな」
ふと、達の首筋に薄く残る痕に視線を落として、とても残酷な気分になった。この子は、この美しい屍は基本的に彼のものだ。それはわかっている。
目遠が達の頬に触れる。青ざめた死者の、土色の頬。それでも目遠の右手には、あたたかいほどだ。
「冷たくない? ないよね、君は」
うっとりと、どこか夢でも見ている調子で目遠は続けた。
「みんなこの手を怖がった。生きたものの温度ではないからね、仕方ないけど」
目遠の右手は達の頬を愛おしげに滑る。肉に血は通っておらず、死者の静けさは目遠の手に何も返してこない。
「実際俺だって、右手で自分に触るとさ、冷たいなって思うんだ。不気味だと思うよ」
己で、己の一部をおぞましいと思うとき。
「そういうときはさ、凶暴に誰かが欲しくなる。誰でもいい、嫌がられてもいいからこの手で触れたくなった。でもさ、世の中っていうのは不便に出来ていて」
一度その欲求を満たすと、目遠の周りからは人がいなくなった。元々、そう人付き合いの多い方ではないから、ひとり親しくなっていなくなって、また新しい誰かと知り合ってはいなくなる。返事をしないとわかっている達に向かって、目遠は喋り続けた。
「途中で、知り合いっていうのはお金で買えることに気がついた。って言うとなんだか人身売買みたいだけど。でも、そんないかがわしい感じじゃなくてもさ。意外と人は買えるんだよ。代償は様々、時間とか、感情とか、興味とか。色々払ってみたけど、でも」
結局空のままだったよ、と、目遠の右手は達の頬をしつこいほどに撫でまわす。長く揃った睫は伏せられたまま、目遠の愛撫にあわせて揺れた。
「君は何も言わずに、好きにさせてくれる。最高だよ。こんなに綺麗なのに、君は死んでるんだよね」
目遠の声はひどく優しく、労りに満ちていた。
眼を開けると、知らない天井と照明が見えた。クラシカルなつくりの、花を模った美しい照明器具だ。その微弱な光に照らされた室内はぼんやり暗く、そうして達が頭を置いているのは、誰かの膝の上だ。
「……起きた?」
覚醒した眼に、目遠の笑顔が映った。穏やかだが、やはり人を食ったそれ。達の身体は布張りのソファに横たわっており、そこに腰掛けた目遠の膝を枕にしているのだった。
「どうして、」
今のこの状況を問いただそうとした達の言葉を、目遠が穏やかなまま遮った。
「屍の身体」
「……」
やはり知っていた、と、達は極力己の表情を殺す。一体目遠の目的が何であるのかを見極める必要があった。思考しなくてはならない、と思うのに、とにかく気分が悪かった。いつも通りの不快感。身体に感覚が戻るとき、いつも一緒に流れ込んでくるあの重苦しい気配が達を支配していた。
しかばね、という言葉がしんと冷たく達の意識に染み込んでいく。目遠は、見たのだろうか。達の身体が屍になり、また血の気の戻るまでを。人の営みの中にあってはならない、死と再生を。目遠が達の身体を運んだのだとしか、考えられない状況はある。見たのなら、それに何を感じたのか。興味か、嫌悪か、それとももっと別のことをか。
達の思考を読んだかのように、穏やかに目遠が続けた。
「君のご先祖さまの中にはね、この体の秘密を探られてバラバラに切り刻まれた人があったんだって」
何か冷たいものが体に触れた気がして、達が身震いする。目遠が何の話をしているのか、一瞬理解出来なかった。
「死なない身体、って思われたんだろうね。研究しようと思ったか、もしかしたらそのまま生薬にされたのかもね。でも結局そのひとはそのまま死んでしまったし、その『生薬』を飲んだ奴らも、不老不死の身体なんかにならなかった」
それはそうだろう、と達が頭の中で答えた。達は死んで生き返りを繰り返しているが、身体は着実に成長している、つまり、老いているのだ。先人にしたって、赤子でない限りそれは老いた身体だったはずだ。
「この国の人たちもね、ひと昔ふた昔前までは、割と安直な理由でヒトを殺しちゃってたんだよね……この話、つまらない? なんだか無理矢理連れてきたみたいになっちゃったからさ。せめて少しでも情報をって思ったんだけど」
目遠が左手で達の前髪を軽く梳きながらそう訊ねるので、達は首を横に振った。正直頭がぼんやりしていたが、つまらないとは思わなかった。その反応に、目遠は双眸を細める。子供にするように達の頭を撫でながら、言葉を続けた。
「君さ、自分の一族に関する文献を探してるんでしょ。一族っていうか、直系? その、屍の体質を継いだ人の記録を」
目遠の声は優しかった。達が小さく頷く。
「きちんとした医療記録でなくてもいい、日記みたいなものでもいいからって。ちょっとおかしいよね、確かに。少なすぎるって、思わなかった?」
虚ろな目で、達は目遠の笑顔を見ている。確かに島の書庫の中には、そうした類のものがまるでみつけられなかったのだ。
「わざとだった、って考えたらどうかな。記録を残せば、いつか誰かの手に渡ってしまうからね。知れば、興味を持つやつが必ず出てくる」
きょうみをもつやつ。
それは目遠のことではないのか、と達は思う。だが彼の口ぶりは、どちらかと言えばそういう者を侮蔑しているように聞こえた。
「だから君の祖先たちは、自らについて語ったり書き残したりするのをやめてしまった。禁じたのかも知れないね。後世の自分の子孫たちが被害を被らないように、極力自分たちの痕跡を何も残さないという手段をとった……俺の予想だけどね」
そこまで話して、目遠は達の青い顔を撫でた。
「あんまり気分よくなさそうだね」
「……すぐ、治る」
「無理しなくていいよ」
柔らかい声だった。本心が読めないのは相変わらずだが、撫ぜる手を振り払う気に達はなれなかった。自分を害する手ではないとは思う。なのに何故か達の心は不安定なままだった。
「戻るときは、いつもそうなるんでしょ。気にしないで、落ち着くまでゆっくりしなよ」
「……」
「本当はこれ、鎖守くんの仕事なんだろうけどね」
鎖守の名が出た途端、動揺はますます深まり、ひどく情けない気持ちに達はなった。秘密というものは、露呈するとこんなに不格好なものなのか。一度形をはっきりさせてしまうと、ひどく恥ずかしかった。元より、秘密であるなどとは思っていなかったことまでが、暴かれることによって自分自身を恥じるような心映えそのものが情けないのだと、全身全霊で達を肯定してくれる鎖守が傍にいてくれなければ、こんなにも簡単に自己を否定してしまう己の心根の弱さに嫌悪感を抱いた。
ひとりでは、こんなものなのだ。いつも自分ひとりで世界を背負って立てているつもりになって、結局は甘え続けて辛うじて日々を生きている。
今ここに鎖守はいない。鎖守がいなければ、自分はこの男に甘えるつもりなのだろうか?
「達くん?」
「違う、ちがう……」
何を否定したいのか、達自身よくわかっていなかった。ただ、鎖守のことを軽んじられている気がして、無性に腹が立った。達と共にあることは鎖守の仕事などでは決してあってはならない。そんな風に自分は鎖守を縛ってはいないし、鎖守もまた。赤の他人の目遠に、一体なにがわかると言うのか。
「わかった、うん。大丈夫だから」
それなのに今、その目遠の声で宥められ、髪に触れられることでひどく安心しかけている自分がいる。ひととき安寧に縋れたら何でもいいのか、と自分で自分を罵るほどに達の気持ちは追い詰められていた。ただ、
「ごめん、俺あんまりうまくないんだよね、人に優しくするの」
そう言って詫びた目遠の声だけは、妙に真実味があった。すこし苛立って投げやりな言葉に、この軽妙な男の本心が見えた気がして、達が顔を上げた。
達の目は、何ともいえない不安定さを露呈していた。ああ、と目を細める目遠は、既に劣情に近いものを感じている自覚がある。願わくばこうして、この目を、この姿を、自分の手元に置いておきたいと思った。
驚いた、この俺が。
こんな気持ちになるなんて。
達の目を見つめたまま、目遠は笑みこぼすのを止められない。欲しいものが見つかる、というのは、こんなに。こんなに気持ちのいいことだったのか。
ずぅっとこれを探していた。何を探しているのかすらわからずに、一生ひとりで呆けたように薄ら笑いを浮かべて生きていくのだろうと思っていたのに。
目遠が左手を伸ばして、達の手を握った。びくりとその接触に慄き、色のない唇を達が開いた。
「おれは、」
震える手を、達は必死に離そうとする。涙こそ流していないが、幼い子供がむずかっているような、転んで痛みを堪えているような、そんな姿。
「いいよ、いいから。落ち着くまで」
労りたかった。とにかくこの、美しくて不安げな、強くて弱い化物を慰めて抱きしめて、甘やかしてやりたくなった。目遠がぎゅっと手に力を入れると、達が息を飲むのがわかる。
「ね? 誰にも、彼にも言わないから、安心して。今だけ」
達が浅い呼吸を繰り返すと、薄い胸元が上下した。これ以上ないくらいの甘い声で、目遠が言葉を連ねた。
「君の秘密を勝手に見たのは謝るよ。代わりに、俺の秘密も見せるから、許して」
それからああ、と満足げなため息を洩らすと、目遠は達の肩にこつりと額を添わせた。そうしてゆっくり右手を伸ばして、もう片方の達の手を握った。
「つめ、たい」
「言ったでしょ、俺にわかるのは人の死の気配だけだって」
その手は本当に石のように、氷のように冷たい手だった。夢現の狭間がわからないままに、達はもう一度、つめたい、と言った。
「ああそうか、残念」
軽さを装ってそう言って、目遠は一度右手を離した。が、すぐに同じ手で、達の手をもう一度強く掴んだ。冷たさが達の身体に染み込んでくるような、そんな錯覚に陥る。
「冷たいのがわかるのに、どうして振り払わないんだろうね君は」
目遠の声から甘さが消えた。神妙な顔が達を見据えていた。
「嫌なら嫌で、拒んでくれなきゃ。俺、離してあげられないよ」
やはり達には、この男が何を考えているのかがわからなかった。それはきっともう、目遠本人ですら、無意識のことなのではないかと思った。隠すつもりはなくとも本心を隠してしまう物言いを、身につけなくては生きてこられなかった。
「俺の傍にいてよ、ずっと」
冷気が、達の思考を奪っていく。冷たい、この冷たい手を達は知らない。達の知っている手は、もっと、もっと。
そこで、達の眼は何も映さなくなってしまった。
「とおるちゃんに、会わせてください」
医更木の屋敷の前通りで、かわいらしい少女はそう言って丁寧にお辞儀をした。そのときちょうど風が吹き抜けて、木に咲く白い花にあわせて少女の長い髪も揺れた。美しい、夏の風景。
鎖守はこの少女を知っていた。近隣の島に住む網元の娘で、確か達と同い年。季節ごとの寄り合いに、必ずついて来ていたはずだ。
肌が透けるように白いのは、今現在街の小学校に通っているかららしい。器量がよく聡明で、大人に混じっても弁えていることの出来る、こんな島には珍しいほどの大人びた美しい少女だった。
短い帰省の間を縫って、彼女は雇いの漁師に自分で頼んで舟を出させて、親御さんには内緒でひとり達に会いに来たのだという。
「急にお会いしたいなと、思ってしまって」
ませている。会わせてやりたい、と鎖守は思った。こういう少女を無碍に追い払うような真似はしたくなかった。この子なら達に似つかわしい、という、上から選ぶような気分になっていた。普段ならもっと素っ気なく追い払うところを、思わせぶりな言い種で引き止めた。
「今ちょっと、寝てるから」
「お加減が、悪いのですか」
「……少し」
「まあ」
そのまま、鎖守が黙ってさえいれば、彼女はきっとそのまま帰ったのだろうと思う。病床に押しかけるような、慎みのない真似をするような少女ではなかった。なかったからこそ、鎖守は。
見せたくなってしまった。
この少女になら。
達と、達のその秘密を見せてもいいのではないかと。
「そろそろ、起きるかも」
庭を抜け、達の部屋の見える廊下へ少女を連れていった。暑い盛りの時刻、屋敷は出払って無人だった。恐ろしいような陽射しと、色の濃い影と、じわじわいう蝉の声だけが世界だった。
一番北側の、陽の入らない部屋の中。
蚊帳の向こうに、横たわる達が見える。鎖守が運んで、あそこに寝かせたのだ。
鎖守がそこを指差すと、少女はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「鎖守さん」
少女の声は凛として、冷たかった。
「あれは、なに?」
あれ。
その瞬間、鎖守は思い知った。
秘密が、秘密でなくなることの恐ろしさを。
己が全身全霊を傾けて肯定しているものを、欠片ほどでも否定される絶望を。
何故自分は、この少女になら達を見せていいと思ったのだろう。聡明な彼女は、一目でそれを見抜いてしまった。あれはなあに? あれは、ヒト? ヒトではないモノ?
秘密の重さを達の知らないところでひとり肩から降ろそうとした自分を、卑怯だと思った。分けあいたいなどと、これっぽっちも思っていなかったくせに。気づいたときには鎖守は走り、そうして。
月が出ていた。
掌の中に新しい秘密を握りしめて、鎖守は少女の乗った舟が遠ざかるのを見送った。
三日月は、あっと言う間に姿を消した。
部屋へ戻ると、身体の戻った達が、布団の中で上半身を起きあがらせていた。鎖守が近づくと、ゆっくり振り返る。宵闇の中から浮き上がる達の風貌は青褪めてとても美しかった。少女の来訪があったことを告げても、その表情は特に動かなかった。
「病気で寝てる、って言っといた」
「鎖守」
「なに」
「嘘つかせて、ごめん」
「……」
ああ。
鎖守に小さな罪を犯させたことを、この少年はこんなにも悲しむのだ。こんな顔をさせたいわけじゃない。悲しい気持ちにさせたいのではない。
「別に、嘘じゃないだろ」
「でも」
「気にするなよ、俺は気にしないから」
「……うん」
そう。こういう風に達が安心して、声を緩ませる瞬間が好きだった。何もかもを預けてくれていると感じる、この瞬間が。
「…………」
どうやら鎖守は達のベッドに新しいシーツを敷いた直後、そのままそこにつっぷして寝ていたようだった。
目を覚ました鎖守は、とりあえず室内を確認する。達の帰宅が遅いのは気になるが、それ以上に今の姿を見られたらもしかして本格的に警戒されるんじゃないか、と背中を冷たい汗が伝った。違う、そんなんじゃねえんだ、と取り繕えば繕うほど、じゃあどんなんだ、と言われる気しかしない。
時刻はすでに午後を回って、陽も傾こうかという頃合である。さすがに暗くなるまでには帰ってくるだろうが随分長い散歩だ、と携帯を確認しようとした瞬間、着信が入った。
達から、だった。
足のない奴はいざというときに何の役にも立たない、と、養母がよく言っていたのを思い出す。
当時は何のことだか意味はよくわからなかったが、今はその理屈に則って免許を取らせてくれた養母に感謝の気持ちしかなかった。
どう走ったかは覚えていない。テーラーの老人のところの古びたバイクを強奪するように借りて、達の財布に残っていた名刺に書かれた目遠の家に着いたときには、陽は落ちていた。息を切らせて、鎖守は目の前にある目遠の屋敷を睨んだ。だが足を向けたのはそこではなく、裏手に伸びる細い道、とはいえ、夜目にも草の生い茂る、入り口とも思えない入り口。
暗い森へ躊躇なく分け入って、鎖守は歩く。携帯からの光源が唯一、視界を開く頼りだった。
達がここにいる、と確信したわけではなかったが、ひとつ強烈な想いに囚われた。
もし自分が。
もし自分が、達を隠そうとするなら。きっとこんな場所を選ぶだろう。
ずいぶんと冒涜的なことを思っている自覚はある。
達を隠す。樹の根本に、幹の虚に、それともお社の床下に。身体をバラバラにして、肉や血をとろかして、その奥にある大事な、骨の欠片だけを。
万に一つも、月の灯りに照らされて秘密が露呈してしまったりするような、そんなことがないように。灯りの届かぬ場所に隠すだろう。
鎖守がぎゅっと拳を握りしめる。まるでその秘密が、既に掌の中にあるかのように。
闇を鎖守は恐れない。彼が恐れるものは、いつだってただひとつのことだけだった。
『森の中で待ってるよ』
あの声を思い出すと、背筋が戦くような怒りが沸いた。達の名を示した電話から響いた、歌でも歌うような目遠の声。
『君が来るなら、返してあげないこともないけど』
『でもね、俺は』
『あの子がとても欲しくなっちゃった』
かくれんぼ、かくれんぼ。
いつの間にか、鎖守の周りには子供の影が纏わりついてきていた。無邪気な様子で歌いながら、その数は徐々に増えていく。
かくれんぼ、かくれんぼ。逃げたら、勝ちよ。
邪悪だ、と咄嗟に思った。今自分に群がっているこれは、なんと邪悪なモノなのだろうかと。
『ねえ、隠れてよ』
子供の形をした邪悪は、鎖守の腕に絡みつき、懇願する。
『ねえ隠れてよ、見つけてあげる』
「俺は、探す方だ」
『なあんだ、お兄ちゃんが鬼か』
ケラケラと、子供たちは一斉に笑いさざめく。
『じゃあぼくらも隠れるね』
「待て、お前ら」
『ちゃあんと十、数えてね』
「駄目だ、俺は」
『まあだだよ』
わっと子供たちは散っていく。森の闇はただ暗く、響く声は狂気を誘う。
ひとりだけ、鎖守のすぐ傍に残った少女がいた。
『お兄ちゃんがかわいそうだよ。わたし、教えてあげるね』
少女は笑う。先の子供と同じ邪悪の笑いを。
この妙なモノを呼び寄せてしまったのは、自分か達か、それともこの森に元より棲みついていたものか。だとすれば。
『あのね、わたし知ってる。お兄ちゃんの探してるひと、あっちにいるよ』
白い指が示す方には、舟があった。いつか島の浜で見た覚えのある、小さな舟。
『あの中に隠れるの、あたし見たの』
少女の笑い方は、もはや子供のそれではない。声は、明らかな媚びと欲情を含んでいた。鎖守の記憶の底に沈めた舟を引き上げてきたその邪悪は、うふふと鎖守に微笑みかける。
違う。その舟の中に、達はいない。その舟に乗っていたのは、達ではない。
『ねえ、あの人を見つけたら、あたしと遊んでくれるでしょう? あたし、お手伝いしたもの』
ぶくり、ぶくぶく。どこかで水の音がする。正確には、水の底に沈む人の息の音が。
『あそぼうあそぼう、私とあそぼう』
「俺は、お前とは遊ばない」
きっぱりと言葉ではねつける。そう、遊ばない。他の誰とも鎖守は遊ばない。
『意地悪、嫌い』
一瞬、記憶の中の夏の日に鎖守は連れられる。その日は暑くて、吹き抜ける暑い風が鎖守の頬を打って。
『まあだだよ』
『いつでもいいよ』
『もういいよ』
秘密が秘密であるためには、月は空から消えるべきだし、舟は海に沈むべきだった。
呼びあう魂などという感傷を、鎖守は信じない。欲しいと思うものは自分の掌の中に、ぎゅっと握りこんでおくべきなのだ。
強く、強く、握りこんでおくべきなのだ。
鎖守が辿り着いた先にあったのは、勿論壊れた舟などではなかった。離れに当たるのだろう、木製の古びたコテージは、森の闇に埋もれるようにひっそりと建っている。
バンと思い切りドアを押した。鍵はかかっていなかった。
部屋の中には、目遠がいた。椅子に腰掛け、質素なテーブルの上に置いた蝋燭の灯りで、本を読んでいる。鎖守の姿に気づくとその本を閉じて
「すごい、来られるもんだね。名刺の住所しかヒントがないんじゃ、ちょっと厳しいかなって思ったんだけど、お……!」
有無を言わさず鎖守が一発、思い切り目遠を殴りつけた。座っていた椅子から叩き落されて、目遠は床に倒れた。頭を起こした目遠は、忍び笑いを洩らしている。
「……また会えて嬉しいよ」
「うるせえんだよ」
「その感じだと、真っ直ぐここに来たんだ。達くんのこと心配なんじゃないの。ちゃんと俺、教えてあげたよね。彼母屋の書斎にいるよって」
「俺はお前のことを信じてねえ」
目遠は、やはり笑っていた。初めて会った時も今も、鎖守の中ではこの男はいつでも笑っている。
「そっか、そうだよね。でも、俺が彼を傷つけない保障なんてどこにもなくない?」
「お前になんかを保障してもらおうなんて思ってねえよ」
「博打師だねえ」
よいしょ、とわざとらしい声を出して、目遠が起き上がる。
「ねえ鎖守くん。ひとつ君に、頼みがあるんだけど」
「俺がきくと思うのかよ」
「まあ聞きなよ。君にも悪い話じゃないから」
立ち上がった目遠が、鎖守に視線を合わせた。
「あの家、燃やしてくれない? 勿論書斎ごとね」
鎖守が、寄せていた眉間を一層険しくした。あの家、とは取りも直さず、今しがた鎖守が睨みつけてきた館のことに他ならない。
「君なら今更、本を焼くくらいの罪で怯みやしないだろ」
「……」
「本当はね、誰にも知られずにさっさと焼いちゃおうと思ったんだ。あの紙束の山になにが隠されてたって、正直俺にはもう興味がないんだよ。君にはこの気持ち、わかるはずだ」
目遠は蝋燭を手に取った。妙に明るく光る炎は、目遠がゆっくり腕を左右させると、一層輝いた。
「本当に知っておかなくちゃならないことなんて、そう沢山はない。そうだろ?」
机の上に、数冊の本が置いてあるのが見える。手書きのものと、古い上製本と、本の他にも何かこまごましたものが。それによく見ると、使い込んだ旅行鞄が広げてあるのがわかった。
「彼が何者なのか、一体何が彼をああいう身体にしてしまったのか。君には全部どうでもいいことなんだ」
「知った口きくんじゃねえよ」
沈黙を保っていた鎖守が目遠の言葉を遮った。それでも目遠は口元に薄い笑みを浮かべて、続けた。
「俺はね、あの子と同じで化け物だ。そういう風に生まれついた」
「同じこと、二度言わせんな」
目遠はまだ笑っている。鎖守は眉ひとつ動かさずにその笑みを睨んでいた。
「なぜじいちゃんだけが、俺を受け入れてくれたと思う? あの人はね、俺の秘密を知っていた。本で読んで知ってたんだ」
書痴、と呼ばれた本の虫。古今東西のありとあらゆる本に精通し、誰かに問われれば即、情報を引き渡すことを生き甲斐とし、また誇りとしていた書籍仲買人は、誰の秘密であろうととにかく本にさえ書いてあることでさえあれば、頭に入れていた。
とある血腥い生業で代々糊口を凌いできた一族のことも、その一族が人体生薬で財を成していたことも、そこに生まれた子供が石のような手を持って生まれたことも。
「人間は、知っているものを怖がらない。知っているから怖くなかったんだ。君だってそうだ。君があの子を怖がらないのは彼のあの身体を知っているからだ」
三度目の忠告はないまま、鎖守がもう一度目遠の頬を張り飛ばした。
「達くんが欲しがってるのは、自分について書いてある本だ。それがあれば、秘密は秘密でなくなるからね……でもこれに関しては、俺は君と同意見だと思ってる」
鎖守がいくら手をだしても、目遠は動じなかった。
「彼を正しく理解する人間なんて、そんなに沢山いなくていい、いや」
「俺一人でいい」
鎖守が、きっぱりとそう言うと、目遠の口元の笑みは邪悪な形に歪んだ。
「俺、君のそういうところ嫌いじゃないな」
「俺はお前が満遍なく嫌いだ」
「自分の欲望で焼け死ぬのが好み? 大概だな君は」
「そんなわけねぇだろ、アホかお前」
ずけずけと踏み込んで来られる不快感に耐えかねたとばかりに鎖守が吐き捨てた。
目遠はそんな鎖守の様子を面白そうに眺めていたが、やがて例の、親しい友人に話しかける調子で話し始めた。
「大切な人に大切にされるのってさ、割と苦しいよね。本当はとても幸せなことなんだってわかってるんだけど」
「……」
「じいちゃんは本当に不器用な人だったから。これまでギリギリのバランスで保ってきた暮らしが、俺を引き取ったせいで崩壊しちゃったんだ。でも俺は、じいちゃんには今まで通りの暮らしをしてほしかった。本に埋もれて文字に浸かって、その合間に時々俺の頭を撫でてくれたらそれで充分だった。だから」
必要な資金は、こっそり俺が調達して補填してたんだ、と目遠は言った。
「簡単だったよ。俺のこの手は、静かに暮らすには不便でも、搾取するにはちょうどいいから」
突然、目遠が右手を鎖守に向けて伸ばした。咄嗟に手の甲で振り払ったが、一瞬触れた感触に驚き、目遠の顔を見た。
「今の……」
「冷たかった? ごめん。これが、俺の秘密でね」
目遠はそう言って、ゆっくりと自分の右手の掌を見た。鎖守の見た限りでは、どう目を凝らしても外見は普通の人間の手である。
ただひとつ、その手が愛する人を守るために、幾多の罪を自ら被ってきたのだろうということだけは鎖守にもわかった。直接触れられない代わりに、出来ることを捧げただけだと、目遠は言った。
「正しい使い方がまあ、あるんだけど。君にしたってつまんない話だから」
そう言いつつ、目遠はゆっくりと手を開くと鎖守に向けた。ぴしりと緊張感が走る。
「達くんにも嫌われたよ。冷たいってさ」
「触ったのかよ」
もう一度踏み込みかけて、咄嗟に鎖守が足を止めた。初対面でこの男に会ったときの嫌な感じは、この手から出ていたのかも知れない。銃口を向けられたかのように動けず、鎖守が半身を引いたのに合わせて、目遠も手を下ろす。
「君が賢明な人で俺も助かるよ」
「なんならお前ごと燃やしてやりてえよ」
「俺、やっぱり君のこと嫌いじゃないな」
「何度でも言ってやる。俺は」
お前が嫌いだ。
目遠はそれでも、笑っていた。
「彼、書斎にいるよ。入ったらすぐわかる」
目遠が、机に広げていたものを、端から鞄に詰めていく。もはやここに留まる気はないのだろう。鎖守も最早、目遠と話すことは何もなかった。目遠に背を向け小屋を出る、その鎖守の背中に声が投げられた。
「ねえ鎖守くん。本当に大きなお世話だとは思うけど、気をつけなよ。あの子はさ」
更島の、海に面した崖の上のそこは、子供心にも美しい場所だった。風で運ばれてきたのだろう浜辺の白い砂が広がり、月夜にはそれがキラキラと光った。
達の姿は、大抵ここで見つけることが出来た。幼い達は、月に向かう砂の上に座って、そうして機嫌のいいときは一生懸命歌を歌い、機嫌の悪いときはただ黙っていた。共通しているのは、いずれのときも眉間にぎゅっと皺を寄せていることだった。
「どうしてふくれてるの?」
「……」
「おなか痛いの?」
違う、というときは達はきちんと首を横に振る。鎖守の話を聞いていないわけではない。
「俺がいない方がいい?」
ぶんぶんと、達はもう一度首を横に振る。そんならと鎖守は隣に座る。それきり、お互い特に話をしない。それでも困らなかったし、不思議なことにつまらなくもなかった。
達の幼い頬の線を眺めていると、何故か絵を描いているような気分に鎖守はなった。絵など、学校の図画の時間にやったきりだが、鉛筆でくにゃりと、この柔らかい線を描いたらきっと楽しいと思った。
そんなことを考えながら手癖で砂をいじっていると、達の視線がそこに注がれるのがわかった。相変わらず眉間にしわが寄っている。
鎖守は片手で砂を集めて、自分と達の間にごくちいさい山を作り、
「やまが出来た」
と言った。
「雪が降って」
と、白い砂をぱらぱら振りかける。そして。
「最後、隕石が落ちた」
ドゥン、と効果音をつけて拳で山をつぶした、その瞬間ケタケタッと笑い声が起きる。驚いて鎖守が顔を見たときには、またいつもの八の字眉に戻ってはいたが。
達の子供らしい笑い声が気に入って、鎖守は同じことを繰り返す。今度は両手を使って、
「もっとでっかい山が出来た」
とやる。達は知らんぷりをしようとするものの、既にちいさい笑い声が洩れてしまっている。
「雪も超いっぱい降って」
「でもまた隕石が落ちた」
ずがー、と言いながらまた山を崩すと、今度は仰け反って達が笑う。
なにが面白いのか鎖守にはさっぱりわからなかったが、ただ、その笑う声がとても心地よかった。もういっかい、と言われるより先に、何度でも山を作って崩してやった。その度に、達は身を捩って笑っていたが、ある瞬間、ぷつりと糸が切れたように動かなくなった。
ああ、今日も。
月が彼を連れていった。
まだ幼い達の身体は、冷たくなって砂の上にどさりと重くめりこんでいた。
投げ出された手足を整えてやって、鎖守は達の顔をじっと見つめた。肌の色は紛れもない死者のそれだ。だが醜くはない。今の達の肉体は屍以外の何でもないのだが、それでも醜くはなかった。
すぐに部屋に運んでやろうかとも思ったが、月明かりにい照らされている達の身体は、なんとなくここにあるべきな気がして、鎖守は動けなかった。
生まれついた何もかもを、達は受け入れていた。そういう性質の子なのだ。拒まない、逃げない。ただ受け入れる。
強い子なのだと最初は思った。だが、時が経つにつれてその強さこそが達を雁字搦めにするものなのだと、鎖守は気がついた。
こんなの嫌だ、と、何故泣かないのだろう。
与えられた何もかもをもし、彼が呪ったなら。壊すことを望むのなら。
自分はそのときを待っているのかも知れない。
鎖守、俺のために、全てを壊して。
罪を犯しながら、その甘美な命が下される日をただ待っている。
街での暮らしは、時の流れがひどく速い。島でも同じ営みを繰り返してきたはずだが、気づけば年が明け月が巡り、また桜が咲いた。
今年の春は雨が多い。花は盛りに水で打たれて身を穿たれ、アスファルト舗装の地面には、散った花弁が未練がましく貼りついた。
昼過ぎにはその雨も止み、夕刻には月が出た。それを眺めて歩こうと達が言うので、鎖守も一緒について出た。
達が薄いシャツ一枚で出ようとするので、上着を着るよう勧めたら、ほんの近所の散歩なのに一番いいのをひっぱりだして来て、羽織り代わりに着てしまった。テーラーの老人は怒るだろうが、それでもその服は達に似合い、きっとその姿を見れば彼も黙るのに違いなかった。
「本当に冷えるな」
「だから言ったろ」
達が肩に羽織っているだけの上着がすり落ちるのを案じ、肩口を両手で摘んで掛けなおしてやる鎖守は黒シャツ一枚の姿だが、特に寒そうな様子はなかった。
「落とすなよ」
「子供じゃないぞ」
そういえば小さい頃から、靴下だけを砂に埋めてきたり、暑い寒いに関わらず上に着ているものをそこらに脱ぎ捨ててしまうことが、なぜか達にはよくあった。
達のそうした部分は、思うに身を軽く保つための本能だったのかも知れなかった。とかく人が世話を焼きたくなるような、色気に似た危なげがある。構われ過ぎる。本人の静かな性質とは裏腹に、妙に人心を騒がせるところがあった。だから、好意にせよ悪意にせよ、他者から向けられるモノを無意識のうちに脱ぎ捨てるくらいのことが出来ないと、自身がすり減ってしまう。
それでも達は、なくしものに気づくととても心を痛める。決して人の想いや、それらの付随した物品をあっさり切り捨てられる質ではない。そのことを誰より知っているので、鎖守は彼が取りこぼしたものを黙って拾って歩く。万が一拾い損ねたときには。
そのときには、なくしものの存在そのものを、消してしまう。
それが鎖守の優しさだった。
生来やわらかく出来た達の心が、なくした何かを嘆いて静かに苦しむくらいなら。そんなものは、最初からなかったことにしたほうがいい。
鎖守は優しい。誰よりも達に優しかった。
花を減らした桜の木の下を歩く達の姿は妙に不穏で、越えてはいけない線の真上を、背筋を伸ばしてまっすぐに歩いているように見えた。
勿論達本人は、そんなことは知らない。一体この世に越えてはいけないものなどがあるとすら、気づいていないのではなかろうか。それを強さと呼ぶべきか、きっと鎖守はこの先も一生悩むのだろう。
「もう帰ろう」
鎖守が声をかけると、達が立ち止まって振り返る。
「何怖がってるんだ」
形が良すぎるほどに良い達の目が、鎖守を見て笑う。上瞼の曲線が持っている、あらがい難い美麗は鎖守をひきつけて離さなかった。
「なにも怖がっちゃいねえよ」
「嘘だ、お前がそういう顔するときは、怖いときだ」
茶化す達は、砂の上で笑い転げていた頃となにも変わらない。
砂の山をもっと壊して、と頼まれる前に、作っては壊した。
もう一度、上着の位置を直してやりながら、鎖守はすこし脅すように声を顰めて、ぼそりと達の耳元に囁いた。
「もう暗くなるから」
まさか暗がりに怯える年ではない。達の黒目がすらりと動いて鎖守を見る。それから、東の低い空に張りついている細い月を。
無駄なもの、腐るもの、温かい肉と血。それらを全て削ぎ、殺ぎ、そして形だけになった、白くて冷たい骨のような月。
もうじきあれは、溶けてなくなる。
達の唇が、月によく似た弧を描いて、鎖守の名を呼んだ。
骨の三日月/終




