桜とカレー
「やべ、そろそろ片付けしないとな」
バイトが詰まってたせいか、部屋は予想以上に荒れていた。足元には脱ぎっぱなしの服が散っていて、近くのテーブルには、ビールの空き缶があふれるほど並んでいる。いつも寝ているベッドは朝起きたままの状態で、掛け布団がずり落ちていた。
「あー、風呂に入って寝るか」
俺はテレビを諦め、風呂場へ行く。毎日使っている風呂場に入った瞬間、なにか鼻を突くような鉄の匂いがした。こんな匂い、前もしていただろうか。まあ、築八年のアパートだから水道管が錆びついてるんだろう。
手早く服を脱ぎ、今日はさすがに近くの洗濯機の上に汚れた服を乗せる。山になった服が雪崩れそうになるけど、明日は休みだ。家中の溜まったゴミを一掃しよう。
「寒っ」
両腕を抱きしめるようにこすりながら、風呂場のシャワーのスイッチをひねる。「冷たっ!」シャワーヘッドが俺に向かっていたので、温まる前の冷水の直撃を食らう。
めげずにいつも通りシャワーを浴びるが、石鹸の香りに混じって、妙に生臭い匂いが強くなってきた。
最初は気のせいかと思ったが、息をするたびにそれが濃くなる。
足元の排水溝から、ぬるい湯気が立ち上っている。
「……なんだこれ、詰まってるのか?」
排水溝のフタを外して確認しても、何も異常は見つからない。
……しょうがない、排水溝は諦めて、俺は風呂場を出た。
次の日、あまり眠れなかった俺は、決めてた通り部屋を掃除し始める。二時間ほどで部屋は片付いてしまったので、台所もこの際片付けよう。
「ん?」
シンク下の棚から、少し黄ばんだ二十センチぐらいのタッパーが出てきた。まったく見覚えがない。
「ま、黄ばんでるし、これも一緒に捨てるか」
ゴミ袋にタッパーを詰め込み、俺は買い出しついでにゴミを捨てに行くことにした。
コンビニでちょうどカレーフェアをやってたので、チルドカレーを買ってきた。昼飯にちょうどいいだろう。
アパートに戻り、綺麗になったテーブルでカレーを食う。蓋を開けるとほわり、とカレーの香りが広がった。
「そういえば……」
ここに引っ越してきたばかりのとき、隣に住んでいる人からカレーをもらったことがある。
「作りすぎちゃったので」
そう言って差し出す彼女は、色白で赤縁の眼鏡をかけた地味な女の人だった。
俺の顔を見て、一瞬目を見張ったものの、そのあと視線を下げ、頬を染め恥ずかしそうにタッパーに詰められたカレーを差し出してきた。
「あ」
そうか、あの黄ばんだタッパー。あれは返し忘れた彼女のもの。
「捨てちまったな、しょうがない。何かお返し考えとかないとな」
またそのうち会うだろうし、早めのバイト帰りにでも、ちょっとしたお菓子ぐらい買っておこう。
あの休みから数日後。
バイトが立て込みすぎて、毎日深夜まで長時間勤務を俺はこなしていた。接客業だから地味に神経も削られた俺は、部屋に戻ってギリギリ風呂に入り、寝るだけの生活。
だけど、唯一の癒やしである風呂。
あの鉄臭の夜から違和感はあったけど、ついに風呂場にはものすごい匂いが立ち込めるようになった。
「いやこれ、なんかさすがに臭い」
いつものように湯船に浸かった俺は、クン、と鼻で息をすると、石鹸に混じって、肉が腐ったときのような匂いが鼻の奥にへばりついていた。
風呂から上がったら、さすがに大家に連絡しよう。
ふと、カレーの女の人が脳裏に浮かぶ。
肩で切りそろえたストレートの黒い髪。
パーカーの紐に、桜の花びらがくっついてたっけ。
お返しのお菓子を今日買ってきておいたから、明日にでも会えると良いけど。
タオルで髪を拭きながら、大家に電話をしたら「明日にでも確認しておきます」とのことだった。
次の日の深夜。アパートに戻ると、入口にパトカーと救急車が赤い警告灯を灯したまま止まっていた。
「なんの騒ぎだ?」
俺は、視線を上に向けると、俺の家の入口の隣、あのカレーの女の人の部屋が開け放たれて、そこからブルーシートに囲まれた「何か」が運ばれていた。
俺の視界に、一粒の雪が降ってきた。




