第8話 雨音と二人の距離
休日の午後。
ショッピングモールの人混みは、いつもより騒がしかった。
家族連れ、カップル、友人同士。
色とりどりの袋と、甘い匂いと、ざわめき。
その中を、俺とプリンは並んで歩いていた――はずだった。
だが、今は少しだけ距離がある。
ほんの一歩分。
けれど、やけに遠い。
「……」
「……」
会話は、ない。
さっきまで、普通に笑っていた。
服を見て、雑貨を見て、プリンがはしゃいで、俺が呆れて。
それなのに。
ほんの些細なきっかけで、空気は簡単に壊れる。
雑貨屋の一角。
小さなガラスケースに、ペアのブレスレットが並んでいた。
「なーおーき、これ!」
プリンが、目を輝かせて指を差す。
「お揃いだって! 可愛い!」
「……ああ」
何気なく視線を向けて、直樹は言った。
「こういうの、今だけだろ」
「……え?」
プリンの動きが止まる。
「今だけって?」
「いや、だから……」
直樹は軽く肩をすくめた。
「そのうち、元の世界に帰るんだろ?」
その瞬間。
プリンの表情から、すっと血の気が引いた。
「……帰るって」
声が、わずかに震える。
「そんな簡単に言うんだ」
「簡単ってわけじゃ……」
「じゃあ何?」
プリンは、手に取っていたブレスレットを、そっとケースに戻した。
「直樹にとって、あたしって」
俯いたまま、続ける。
「期限付きなんだ」
「……」
「今だけの、居候で」
「……」
「いつか消える前提の存在なんだ」
胸の奥を、鋭い刃で突かれた気がした。
「そんなつもりじゃ――」
「でも、そう聞こえた」
プリンは顔を上げる。
その目には、怒りよりも、ずっと深いものが宿っていた。
「直樹の世界に、あたしの居場所はないんでしょ?」
「違う」
即答だった。
「違うけど……」
言葉が、続かない。
プリンは、ふっと小さく笑った。
「……そっか」
それは、どこか諦めたような笑いだった。
「じゃあ、いい」
「おい」
プリンは踵を返し、歩き出す。
「もう、帰る」
「待て」
「今は、無理」
振り返らず、そう言った。
その背中が、人混みに溶けていく。
直樹は、立ち尽くした。
――最悪だ。
何が悪かったのか、分かっている。
分かっているのに、取り消せない。
「……もういい」
プリンは俺の方も見ずに静かにそう言った。
「帰る」
「おい、待て」
だが、プリンはそのまま人混みに紛れていった。
残された俺は、その背中を見つめながら、舌打ちをひとつ。
――最悪だ。
胸の奥が、妙にざわつく。
モールを出ると、空はすっかり曇っていた。
嫌な予感は、すぐに現実になる。
ぽつり。
ぽつり。
やがて、音を立てて降り出す雨。
バス停の屋根へ、駆け込む人々。
地面を叩く雨粒が、視界を滲ませる。
少し離れた場所に、プリンが立っていた。
傘を持っていない。
俺も同じだ。
無言のまま、同じ屋根の下に入る。
距離は、腕一本分。
近い。
けれど、触れない。
沈黙。
雨音だけが、やけに大きい。
濡れた髪が、プリンの頬に張り付いている。
制服の袖も、少し濡れて色が濃くなっていた。
「……風邪引くぞ」
ようやく出てきた言葉は、それだけ。
プリンは、小さく肩をすくめた。
「悪魔だから平気」
拗ねた声。
また沈黙。
言いたいことは、山ほどある。
でも、どれも言葉にすると、余計に拗れそうで。
しばらくして、プリンがぽつりと呟いた。
「……怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘」
「……呆れてるだけだ」
「それも嫌」
小さく、唇を噛む。
「直樹、あたしがいなくなっても平気そう」
その一言に、胸が強く締め付けられた。
「なんでそうなる」
「だって」
プリンは、雨の向こうを見つめたまま言う。
「直樹、何でも一人で決める」
「……」
「危ないから。心配だから。そう言われると、あたし、子供みたい」
その声は、少しだけ震えていた。
胸の奥が、じくりと痛む。
「……そんなつもりじゃない」
「分かってる」
プリンは、ほんの一瞬だけ、こちらを見る。
「でも、分からなくなる」
また、視線を逸らす。
雨脚が、さらに強くなる。
横殴りの雨が、バス停の床を濡らし、風が冷たく吹き抜ける。
気づけば、二人の距離は自然と縮まっていた。
肩が、触れる。
驚いて離れようとしたが――
プリンの方から、そっと寄ってきた。
濡れた制服越しに、体温が伝わる。
どくん、と心臓が跳ねる。
「……」
「……」
何も言えない。
ただ、雨音と、互いの呼吸だけ。
プリンの髪から、微かに石鹸の匂いがする。
近すぎる。
触れれば、すぐにでも抱き寄せられそうな距離。
その瞬間。
プリンが、ゆっくりと顔を上げた。
視線が絡む。
至近距離。
吐息が、かかる。
世界から音が消えたみたいに、静かになる。
ほんの少し、プリンが背伸びをした。
俺も、無意識に身を屈め――
――はっとして、我に返る。
寸前で、動きが止まった。
プリンも、ぴたりと動きを止める。
数秒。
永遠みたいな沈黙。
やがて、プリンが小さく息を吐いた。
「……ばか」
「……俺のセリフだ」
お互い、視線を逸らす。
けれど、さっきまでの張り詰めた空気は、もうなかった。
雨が、少しだけ弱まる。
「……さっきは、ごめん」
プリンが、ぽつり。
「俺も」
それだけで、十分だった。
完全に分かり合えたわけじゃない。
でも、少なくとも――
離れる理由は、どこにもなかった。
バスが、遠くで音を立てる。
「帰ろうか」
「うん」
並んで歩き出す。
肩が、時々触れる。
その度に、心臓が跳ねる。
それが何なのか、考えない。
考えたら、きっと壊れてしまうから。
ただ、今は――
この距離が、心地よかった。
■影より来るもの(ルシア・サイド)
魔界、中央監視庁・深層記録室。
無数の魔導式スクリーンが、薄暗い空間に浮かび上がっている。
その中心で、ルシアは静かに立っていた。
視線は一点――次元干渉ログ。
「……やはり来たか」
呟きは、感情の揺らぎをほとんど含まない。
表示された魔力波形は、軍部特殊部隊特有の符号を帯びていた。
それも、ただの戦闘魔法ではない。
次元越境型暗殺魔法。
魔界から人間界へ、直接攻撃するためにのみ存在する、禁呪に近い術式群。
正式記録には残らず、命令系統も闇に包まれた、完全な非公式作戦。
――軍過激派、ついに実行。
「対象:人間界・蔵前直樹」
冷たい電子音声が読み上げる。
次に表示されたのは、三つの術式名。
夢侵食型呪殺。
遠隔精神破壊。
存在乖離干渉。
どれか一つでも、人間には即死級。
三重掛けは、殺意の塊 だった。
ルシアは、深く息を吸った。
「……判断が早すぎる」
直樹の危険性は、まだ理論段階だ。
それでも、過激派は「可能性」だけで殺しに来た。
国家安全の名のもとに。
ルシアは、魔導端末に手をかざす。
「対処プロトコルB-7。実行」
瞬間、空間に無数の魔方陣が立体的に展開される。
だが、それは迎撃用の防御結界ではない。
情報攪乱型迎撃網。
攻撃を「弾く」のではなく、
攻撃そのものを成立させないための構造破壊。
人間界・直樹の夢。
そこは、現実の部屋を模した穏やかな空間だった。
プリンがソファで眠り、静かな夜の気配が満ちている。
その風景に、歪み が走る。
床が揺れ、空間が軋み、黒い霧のようなものが滲み出す。
――夢侵食、開始。
直樹の意識が、わずかに沈む。
「……?」
違和感を覚えた瞬間、霧は鋭利な刃へと変わり、喉元へ迫った。
しかし。
刃が届く直前、空間が凍結する。
霧も、刃も、時間ごと縫い止められたかのように停止。
直後、空間構造そのものが、書き換えられる。
魔界。
ルシアの指が、淡々と符号を打ち込む。
「侵入点、特定」
スクリーンに、三つの発信源が表示される。
いずれも軍部内、だが正式系統には存在しない影の座標。
「……三重秘匿構造。ずいぶん用意周到ね」
それでも、ルシアの表情は変わらない。
彼女は、攻撃を逆流させた。
夢侵食術式を、逆位相で再構築。
遠隔精神破壊を、情報経路ごと折り返す。
存在乖離干渉を、術者自身へと帰結させる。
魔界軍・極秘施設。
制御室。
突如、警告音が鳴り響く。
「魔力逆流!?」「術式が……崩壊して――」
次の瞬間。
制御台にいた三名の魔族が、無言で崩れ落ちた。
死んではいない。
だが、精神回路は完全に焼き切れている。
再起不能。
ルシアは、モニターを閉じた。
「……警告は、これで十分」
彼女が潰したのは、ただの実行部隊。
本丸ではない。
だが、“やり返せる” という事実 を、軍上層部へ叩き込むには十分だった。
ルシアは、背もたれに軽く寄りかかる。
「これで、しばらくは大人しくなる」
軍は強硬派。
だが、合理性も持つ。
“割に合わない” と判断すれば、一時撤退する。
視線が、次元観測ウィンドウへ移る。
そこには、眠る直樹と、隣で丸くなっているプリンの姿。
「……何も知らずに眠れるというのも、幸せね」
小さく、吐息。
だが同時に、理解していた。
これは、始まり だと。
次に来るのは、
保守派の「管理」という名の支配か、
軍の「排除」という名の殺意か。
どちらにせよ。
この人間は、もう引き返せない場所に立っている。
ルシアは、静かに目を閉じた。
「――だからこそ、守る」
それが任務であり、
選んだ道であり、
そして――彼女自身の意志だった。
深層記録室に、再び静寂が戻る。
だが、次元の向こう側では。
確実に、世界の歯車が動き始めていた。




