最終話 悪魔の契約
夜だった。
窓の外では、街の灯りが静かに瞬いている。
いつもと変わらない、はずの景色。けれど、今日という一日は、あまりにも濃密で、現実感がどこか薄れていた。
狭いワンルームの中央に、俺とプリン、そしてルシアの三人が向かい合って立っている。
「――状況は、だいたい理解できたかしら?」
ルシアは淡々とした口調で言った。
魔族教育文化省、国家安全保障省、次元意識共鳴実験。
夢の波長、同調、事故、そして偶然の重なり。
数日前のあの朝が、ただの偶然でも、ただの勘違いでもなかったこと。
俺とプリンが、同じ夜、同じ願いを、同じ深さで抱いていたこと。
すべてが繋がった。
「……だいたいは」
正直、難しい話はよく分からない。
けれど、ひとつだけ、はっきりしていることがある。
あの夜、様々な偶然が重なり、彼女は夢に引き寄せられ、この世界に来た。
それだけで、十分だった。
「あなたは、夢の中で願った。
“彼女がほしい。誰かにそばにいてほしい”と」
ルシアの視線が、静かに俺を射抜く。
「それが、召喚の代替行為として成立してしまった。
本来、悪魔の召喚には厳格な儀式と契約が必要だけれど……今回は、極めて例外的な事例ね」
「……つまり」
喉が、少しだけ乾いた。
「プリンは、帰らなきゃいけないってことですか」
プリンの肩が、ぴくりと揺れた。
「ええ」
ルシアは頷く。
「何の対価も支払われていない召喚は、成立しない。
このまま人間界に留まることはできないわ」
部屋に、重い沈黙が落ちる。
当たり前だ。
最初から、分かっていた。
プリンは、異世界の存在で、俺はただの大学生だ。
ずっと一緒にいられるはずがない。
それでも。
それでも、胸の奥が、強く締め付けられる。
「……ねぇ、直樹」
小さな声。
プリンが、俺を見ていた。
いつもの無邪気な笑顔じゃない。泣き出しそうで、それでも必死に耐えている顔。
「あたし、ここに来て、すっごく楽しかった」
コンビニ。
学食。
くだらない会話。
直樹のアパート。
「人間界、変で、面倒で、でも……あったかかった」
拳をぎゅっと握りしめる。
「直樹と一緒にいると、胸の奥が、ぽわっとして……」
そこで言葉を詰まらせ、プリンは大きく息を吸った。
「……帰りたくない」
胸が、ずきりと痛む。
けれど、俺は何も言えない。
言えるはずがない。
そんな俺たちを見て、ルシアが静かに口を開いた。
「――方法が、ひとつだけある」
空気が変わる。
「悪魔は、願いを叶える代わりに、必ず“何か”を奪う」
知っている。
寿命。記憶。運命。魂。
「今回の場合、契約が成立していない。
だから、正式な対価を設定すれば、例外措置として、この滞在を認められる」
視線が、プリンへ向けられる。
「プリン。あなたが決めなさい。
彼から、何を奪うの?」
部屋の空気が、張り詰める。
プリンは、俯いたまま、しばらく動かなかった。
小さな肩が、震えている。
やがて、ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに俺を見つめた。
「……直樹」
「うん」
「奪う、って言ったら……怖い?」
「少しは」
正直に答える。
「でも、プリンなら、いい」
一瞬、きょとんとした顔をして、それから、くしゃっと笑った。
「……ばか」
そして、深く息を吸う。
「あたしが奪うのは――」
一拍。
「直樹の、一生」
頭が、真っ白になる。
「最初から最後まで。
喜びも、悲しみも、退屈な日常も、全部」
声は震えていたが、迷いはなかった。
「全部、あたしと一緒に生きてもらう」
心臓が、大きく跳ねる。
「それって……」
「逃げられないってこと。
一生、あたしに付き合うってこと」
赤くなった頬で、プリンは言った。
「……それ、奪うって言うのか?」
「悪魔的には、そう」
思わず、笑いが漏れた。
「じゃあ、安いな」
「……は?」
「一生で、プリンが付いてくるなら」
プリンの目が、見開かれる。
「……ば、ばか!」
涙と一緒に、拳が胸に飛んできた。
そのまま、ぎゅっと抱きついてくる。
「離れないからね!
ずーっと! ずーっとだから!」
「ああ。望むところだ」
その様子を見ながら、ルシアは小さく息を吐いた。
「――契約、成立」
空気が、静かに揺れる。
目に見えない何かが、確かに結ばれた感覚。
「これで、プリンは人間界に正式滞在できる。
代償は――あなたの一生」
ルシアは俺を見た。
「後悔は?」
「ありません」
即答だった。
「そう」
ほんの一瞬、優しげに微笑んで、ルシアは背を向ける。
「じゃあ、私は帰るわ。
……あまり騒ぎを起こさないようにね、問題児」
「むー!」
プリンが頬を膨らませる。
次の瞬間、ルシアの姿は淡く溶けるように消えた。
残されたのは、いつものワンルームと、胸にしがみつく悪魔ひとり。
「……なぁ、プリン」
「なに?」
「これから、どうする?」
「決まってるでしょ」
顔を上げ、にっと笑う。
「人間界研修、続行!」
「いや、それは建前で……」
「直樹と、生きる」
シンプルな答え。
それだけで、十分だった。
こうして、俺の平凡な大学生活は、
とんでもなく騒がしくて、
ちょっとエッチで、
そして何より――
かけがえのない日常へと、塗り替えられたのだった。
――完――




