第10話 真実と諸刃の剣
――Project:DREAM GATE 全貌
魔界中枢領域、七重結界で封鎖された地下深層。
そこに存在するのは、軍事・魔術・政治・宗教――
あらゆる権限を束ねた、魔界最高機密区画。
その最奥で、ルシアは一人、巨大な魔法陣の前に立っていた。
床一面に刻まれた紋様は、魔界語、古神語、異界数式、精神干渉符号が複雑に絡み合い、幾何学的に組み合わされている。
理解できる者は、魔界全土を探しても十名に満たない。
――Project:DREAM GATE。
すべての始まりであり、すべての終着点。
彼女は、静かに息を吐いた。
この計画の全貌を知る者は、魔界でも極秘中の極秘。
王直属諮問機関、上級将官、宗教最高位司祭――
それでも、完全な形を把握しているのは、ルシアを含め、三人しかいない。
「……ついに、ここまで来てしまったのね」
独白は、広大な地下空間に微かに反響した。
視線の先。
魔法陣の中央に浮かぶ巨大な水晶球。
その内部では、無数の光点が流星群のように渦巻いている。
それは、人間界・魔界・異界――あらゆる次元から収集された「意識波長」の集合体だった。
ルシアは、水晶球へと歩み寄り、掌をそっと触れさせる。
次の瞬間。
膨大な情報が脳裏に流れ込んだ。
世界の構造。
次元の階層。
神格領域の観測データ。
そして――直樹の存在座標。
「……やっぱり」
微かな苦笑が、唇に浮かぶ。
蔵前直樹。
人間界の、どこにでもいる普通の青年。
だが、その魂は、どの世界にも存在しない特異な周波数を持っていた。
神と魔族、どちらにも属さない。
それでいて、両者に干渉可能な、唯一の存在。
――神への鍵。
それが、直樹に与えられた、避けられぬ宿命だった。
Project:DREAM GATE。
この計画の真の目的は、単なる次元干渉ではない。
意識と次元の完全同期。
それは、物理法則を越え、精神法則を越え、存在階層そのものを書き換える禁忌の術式。
簡単に言えば――
「夢」を媒介に、次元と意識を完全に重ね合わせる。
そうすることで、次元そのものを制御下に置く。
そして最終的に――
神格領域への干渉。
神とは、次元を統括する概念存在。
時間、因果、存在、消滅。
それらを司る絶対的管理者。
魔族は、長きに渡り、神の支配下に置かれてきた。
自由を与えられながら、決して超えられない天井。
だが、Project:DREAM GATEは、その天井を破壊する。
――魔族が、神になる。
それが、この計画の最終到達点だった。
「狂ってる……って、言われるわよね」
ルシアは小さく呟く。
だが、その声には、迷いも否定もなかった。
むしろ、どこか諦観に近い静けさがあった。
神は、全能ではない。
だが、絶対だ。
魔界の歴史は、神の気まぐれと試行錯誤の繰り返しだった。
文明を与え、滅ぼし、再生させる。
善悪の概念すら、神の実験の副産物。
その歪みを、誰も正せなかった。
――だからこそ。
神の座を奪う。
世界を、自らの手で管理する。
それが、魔界の最高指導部が選んだ「答え」。
だが。
「……直樹」
その名を口にした瞬間、胸の奥がわずかに軋む。
彼は、計画の要。
夢と意識を完全同期させるための、唯一の触媒。
直樹の魂構造は、神格領域と直接リンク可能な「空白」を持つ。
通常、あらゆる存在は、何かしらの属性に縛られる。
光、闇、秩序、混沌、生命、死。
だが、直樹は違った。
彼の魂は、まるで未完成の器のように、何色にも染まらない。
だからこそ、神の座標へと到達できる。
同時に――
最も壊れやすい。
「……あなたは、知らなくていい」
ルシアは、そう願っていた。
彼が、人間界で、プリンと過ごす穏やかな日々。
笑い、戸惑い、恋に近い感情に揺れながら生きる時間。
それこそが、直樹の本来あるべき姿だった。
だが、世界はそれを許さない。
魔界軍過激派は、すでに独自に暗殺計画を走らせている。
直樹を「排除」することで、計画を暴走させ、神格領域への強制干渉を狙っている。
成功すれば、世界は崩壊する。
失敗すれば、直樹の魂は完全消滅。
どちらに転んでも、救いはない。
――だから、私が守る。
ルシアは、静かに指を鳴らした。
次の瞬間、空間に幾つもの立体魔法陣が展開される。
人間界観測。
夢干渉監視。
精神波長防衛。
因果干渉遮断。
国家級結界が、一斉に稼働を始めた。
「直樹。あなたは、まだ知らなくていい」
その瞳には、冷静な知略と、僅かな痛みが混じっていた。
守るということは、
真実を奪うことでもある。
だが、今はそれでいい。
彼が、ただの青年でいられる時間を――
一秒でも長く、引き延ばすために。
水晶球の中で、直樹の意識波長が、淡く揺れていた。
それは、神へと繋がる、唯一の鍵。
そして――
この物語そのものの、核心。
ルシアは、ゆっくりと背を向けた。
迫り来る破滅の未来を、ただ一人で背負うように。
■ 諸刃の優しさ
学食の喧騒というのは、どこか心地よい孤独を生む。
トレーの上に載せた定食――鮭の塩焼きと味噌汁、それから小鉢の煮物――を前に、直樹はぼんやりと箸を動かしていた。隣の席では知らない男子学生二人が今日の講義の課題について愚痴り合っている。向こうのテーブルではサークルの仲間らしいグループが笑い声を上げている。いつもなら自分もその喧騒の一部だった。プリンと二人で向かい合って、たいして中身のない話をしながら、それでも時間が経つのを忘れるくらい笑っていた。
今日は一人だ。
プリンが風邪を引いた。熱は既に下がっているのだが、取り敢えず安静にしておいた方がいいと思い、今日は1人で大学へ来た。
鮭を一口食べながら、スマートフォンを確認する。メッセージは来ていない。ちゃんと寝てるだろうか。
突然、
「今日はあの娘は一緒じゃないの?」
不意に声をかけられ、直樹は顔を上げた。
立っていたのは、見覚えのある顔だった。一瞬だけ胸の奥で何かが軋んだが、直樹はすぐに表情を整えた。
「……綾香」
ほんの数ヶ月前まで付き合っていた、元カノだった。
綾香はトレーを手に持ったまま、直樹の向かいの席に視線をやった。空いている、とわかって、問うような目をする。直樹は小さく頷いた。綾香はトレーを置いて、腰を下ろした。
「ちょっと風邪引いてな。家で安静にしてる」
直樹は答えた。声は思ったより落ち着いていた。
「そっか」綾香は箸を割りながら言った。「大事にしないとね」
しばらく二人は黙って食べた。気まずいはずなのに、不思議と沈黙は重くなかった。それが余計に、少しだけ苦しかった。
「ねえ」綾香が口を開いた。「あの娘って、どういう関係なの」
直樹は味噌汁を飲む手を止めた。
「同居人」
「同居人?」綾香はオウム返しにした後、少し考えるような顔をした。「それだけ?」
「それだけって……」
「恋人とか、そういうんじゃないの?」
「違う」
「でも、一緒に住んでるんでしょ」
直樹は箸を置いた。どこから説明すればいいのか、少し迷った。
まさか悪魔が勝手に俺の部屋にやって来たなんて言っても信じるはずもない。
少し間を置いて俺はあまり気が進まなかったけど、嘘を付くことにした。
「同居人──。名前は亜美っていうんだけど、俺の母方の親戚の娘で。大学入学のタイミングで上京してきたんだけど、最初に決めてた物件がトラブルになって。入居直前に契約キャンセルになったらしくて、行く場所なくて」
「それで、うちに来い、って?」
「まあ……そうなるな」
綾香はしばらく直樹の顔を見ていた。それからふっと笑った。苦いような、懐かしいような笑い方だった。
「直樹らしい」
「なんだよ、それ」
「そのまんまじゃない」綾香は煮物を箸でつついた。「困ってる人を放っておけない。それ、前から変わらないよね」
直樹は何も言わなかった。
「嫌いじゃないよ、そういうとこ」綾香は続けた。「むしろ、それが好きだったんだと思う」
過去形。直樹はそれをきちんと受け取った。
「でも」と綾香は言った。声のトーンが少し変わった。「それって、諸刃の剣でもあるよね」
「……どういう意味?」
「優しくしてあげると、相手は勘違いするかもしれない。あるいは、優しくしてるうちに、直樹自身が何が本当の気持ちかわからなくなるかもしれない」
直樹は黙っていた。
「私と別れたとき、直樹、ちゃんと傷ついてた?」
唐突な問いだった。しかし綾香の目は真剣だった。責めているのではなく、純粋に知りたがっているような目だった。
「……傷ついてたよ」
「でも、私が泣いてたら、慰めてくれたよね」
「そりゃ、泣いてたら……」
「ほら」綾香は少しだけ笑った。「それだよ。別れた相手が泣いてても、慰めずにいられない。優しいんじゃなくて、もう反射なんだよね、直樹の場合」
直樹は反論しようとして、できなかった。
「今の彼氏と、うまくいってるのか」と、話題を変えるように直樹は言った。
綾香は少し目を丸くした後、「なんで知ってるの」と言った。
「共通の友達から聞いた。悪意はなかったと思う」
「そっか」綾香は頷いた。「うん、うまくいってる。いい人だよ」
「よかった」
直樹は素直にそう思った。それは確かだった。
「直樹は?」綾香が訊く。「亜美ちゃんのこと、どう思ってるの。自分でちゃんと整理できてる?」
直樹はすぐに答えなかった。窓の外に目をやると、三月の空が白く霞んでいた。
プリンのことを思った。朝、布団から「やだ行く」と半泣きで抵抗するのを押さえつけて、「安静にしてないとまた風邪ぶり返すぞ」と言うと、ようやく観念した顔をした。「おかゆ食べたい」とぼそっと言ったので、「帰りに買ってきてやる」と答えたら、子供みたいな顔で「ほんとに?」と言った。
あれが反射なのか、何か別のものなのか、直樹には今のところよくわからなかった。
「……整理できてるかどうかは、わからん」
正直に言うと、綾香は少し意外そうな顔をした。それからゆっくり頷いた。
「正直に言えるんだから、大丈夫だと思う」
「何が?」
「自分の気持ちに、ちゃんと向き合えてるってこと」綾香はトレーを持って立ち上がった。「ご馳走さま。久しぶりに話せてよかった」
「ああ」
「亜美ちゃんによろしく。早く治るといいね」
綾香は人ごみの中に戻っていった。直樹はしばらくその背中を目で追い、それからスマートフォンを取り出した。
メッセージを打つ。
『おかゆ、梅とシャケ、どっちがいい』
しばらくして既読がついた。返信は一言だった。
『たまご』
直樹は思わず笑った。なんだよ、それ。選択肢にないだろ。
それでも立ち上がりながら、スーパーでたまご買って帰ろう、と思った。その気持ちが反射なのか、それとも別の何かなのか、まだよくわからないけれど。




