第二十二話:入港
五日目の朝は、通信音で始まった。
ドック・ホテルの薄い壁の向こうでは、いつも通り自由港が動いている。搬送レールの低い振動。
遠くで外装板を打つ乾いた音。通路を急ぐ足音。
だが、そのどれもが今朝は少し遠く感じられた。
簡易テーブルの上の端末が短く点灯し、アドミラルの声が静かに響く。
『本艦、自由港外縁待機位置へ到達』
『誘導可能だ』
カインがベッドの端に座ったまま、短く息を吐いた。
「来たか」
向かいでは、アイリスが毛布を握ったまま目を開けていた。
寝起きのまま数秒遅れて、その言葉の意味を飲み込む。
「……来たの……?」
『ああ』
アドミラルの声はいつも通り落ち着いている。
『偽装外装、灯火抑制、熱源散逸、排気拡散。
すべて維持中』
『ノクスの誘導があれば、そのまま大ドック6番へ進入できる』
ミラはすでに身支度を終え、小型端末を開いていた。
「本日の行動予定を確認します」
アイリスも身体を起こし、毛布を膝へ引き寄せたまま頷く。
「……うん」
「一、クロン・ワークスで最終確認」
「二、ノクスで自由港外縁へ移動」
「三、エーテルガイストを誘導し、アウターリング・ドライドック6へ搬入」
「四、押さえていた物資の引き取り」
「五、宿を引き払い、生活拠点をエーテルガイストへ移行します」
アイリスがその最後だけ、小さく繰り返した。
「……生活拠点……」
宿ではない。ノクスでもない。自分たちの艦エーテルガイストだ。カインが立ち上がる。
「飯を食って動く」
朝食は、いつもより少しだけ良い物にした。
ホテルを出たところで、アイリスが通路の先の屋台を見て小さく言う。
「……あそこ、ちょっと違う匂いする……」
通路脇に出ていた屋台は、他より広く、鉄板の火も強い。焼ける油の匂いに、香草とスープの匂いが混じっている。カインが一度だけ看板を見上げた。
「今日はこっちにする」
アイリスが少し目を丸くする。
「……珍しい……」
「大事な日だ」
それだけ言って、カインは三人分を頼んだ。
出てきたのは、包み焼きより少し手の込んだ朝食だった。香辛料で下味を付けた薄切り肉を挟んだ焼きサンド。表面は強めに焼かれ、内側のソースは少し甘辛い。脇には焼いた根菜と、細かく刻んだ香味野菜。さらに小さな器に、魚介の出汁が利いた透明なスープ。飲み物は濃いめの茶。
アイリスが受け取った皿を見て、素直に顔をほころばせる。
「……ちょっと豪華……」
「朝から動くなら、このくらい入れとけ」
カインはそう言って、自分のサンドを一口かじった。肉の脂と香草の匂いが広がる。味は濃いが、嫌な重さではない。ミラも静かに着席し、同じように皿へ手を伸ばした。まずはサンドを一口。次にスープを少し。それから根菜へ視線を落とし、落ち着いた声で言う。
「本日の朝食は、かなり良好です」
アイリスがすぐに反応する。
「……また始まった……」
ミラは気にせず続けた。
「焼きサンドの表面温度は高めですが、内部の油分とソース量が適切です」
「薄切り肉は加工蛋白主体ですが、香草処理により単調さが抑えられています」
「特にこの甘辛いソースは、朝の覚醒に対する刺激として有効です」
カインが茶を飲みながら言う。
「要するに」
「うまいです」
ミラは即答した。
アイリスが思わず吹き出す。
「……そこは分かりやすいんだ……」
ミラは次に透明なスープを一口飲んだ。
「こちらも優秀です」
「塩分はやや高めですが、魚介抽出成分と香味油の量が安定しています」
「起床直後の胃負担を抑えながら、体温上昇と塩分補給を兼ねています」
アイリスがスープを飲み、目を少し見開く。
「……あ、おいしい……」
「…思ったよりちゃんとしてる……」
『有益だ』
アドミラルが通信越しに言った。
『記録を継続しろ』
「…提督まで当然みたいに言わないで……」
アイリスが少し笑いながら言う。
ミラは焼き根菜も一つ口に運んだ。
「付け合わせも合理的です」
「表面の焼き目に対して内部水分が残っています。咀嚼負担が軽く、携行食より満足度が高い」
「艦の朝食候補として、類似構成は再現価値があります」
カインがサンドを食べ終えながら言った。
「じゃあ記録しとけ」
「すでに記録しています」
ミラは穏やかに答える。
アイリスが少しだけ嬉しそうに皿を見た。
「……なんか、こういうのいいね……」
「何がだ」
カインが聞く。
「……今日は大きい日だけど、ちゃんとごはん食べてから行くの、なんか……いい」
「ちょっと落ち着く」
カインは短く頷いた。
「それでいい」
通信越しに、アドミラルが落ち着いた声で言う。
『本日行うのは大型艦搬入だ』
『空腹で臨む合理性はない』
「うん……それはそう……」
アイリスは小さく笑い、もう一口サンドをかじった。
屋台の湯気の向こうでは、自由港がいつも通り動いている。だが三人の朝だけは、いつもよりほんの少し丁寧だった。今日は、エーテルガイストがこの街へ入る日なのだから。
「……なんか、変な感じ……」
「何がだ」
カインが聞く。
「……ずっと隠してたのに、今日、ほんとにこの街の中に入るんだなって……」
「……エーテルガイストが」
カインは短く答える。
「入れる場所を作ったからな」
ミラが静かに補足する。
「自由港側の導線は完成しています」
「視線誘導、補修搬入名目、記録処理。いずれも予定通りです」
通信越しに、アドミラルが落ち着いた声で言う。
『本艦は見られる』
『だが、見られても“補修対象の大型船”と認識されれば十分だ』
アイリスは茶をひと口飲み、少しだけ頷いた。
「……うん」
クロン・ワークスに入ると、ノクスは三番枠に静かに係留されている。補修を終えた小型艦は、もうこの工房の風景の一部みたいに馴染んでいた。
クロンは工具義肢を腰に当てたまま、三人を見る。
「来たか」
「ああ」
カインが答える。
「外は」
「流してある」
クロンは即答した。
「ドック6周りには補修資材の搬入予定を重ねた。
関係ない連中の目も少し外してある」
「完璧には隠れん。だが、“でかい補修対象が入る”くらいには見せられる」
ミラが確認する。
「ロイ側は」
「管理番号処理まで済ませてる」
クロンは鼻を鳴らす。
「お前らのデカブツは“補修対象 6-A”だと」
アイリスが少しだけ笑った。
「……ほんとに名前いらないんだ……」
「この街じゃ、名前がある方が面倒なこともある」
クロンはそう言ってノクスを顎でしゃくった。
「行くなら今だ」
カインが短く頷く。
「出すぞ」
ノクスは工房三番枠を離れ、工房街の船用通路を滑るように抜けた。ミラが操縦席。カインは主席。アイリスはその横で、何度も前方と端末表示を見比べている。自由港の中を出ていくノクスは、もう“よそ者の急造船”には見えなかった。工房に出入りする、少し癖のある流れ者の船。そういう顔だ。外縁へ抜ける補助航路へ入り、視界がひらける。巨大なリング都市の外壁。その向こうの黒い宇宙。点々と動く輸送艇、補給シャトル、作業灯。そして、そのさらに外。最初は、影にしか見えなかった。巨大な、沈黙した塊。灯火を抑えた鈍い船体。補修板を貼られ、外観を崩した巨艦。傷んだ大型輸送艦。そう見えるように偽装されている。だが、ノクスが近づくにつれて、その輪郭が少しずつ正体を浮かび上がらせる。
エーテルガイスト。約四百メートルの艦体は、いくら偽装してもその存在の圧までは消せない。
アイリスが息を呑む。
「……あ……」
その声は、ほとんど漏れた吐息みたいだった。
「……ほんとに、来た……」
カインは無言でその姿を見上げる。逃げる時に見た艦。隠し続けてきた艦。それが今、自分たちの作った道の先にいる。
『ノクスを確認』
アドミラルの声が、今度は艦橋の通信のように近く響いた。
『誘導を要求する』
カインが短く返す。
「ついて来い」
『了解』
ノクスが先に立ち、エーテルガイストをアウターリングドライドック6番へ引いていく。
自由港の外縁では、すでに補修用コンテナがいくつも動いていた。資材搬送ドローン。外装板。作業アームの展開。補修灯の点灯。クロンとロイが作った“補修搬入”の空気が、確かにそこにある。
視線はある。だが、その視線は一隻の巨大艦だけには集まらない。誰かにとっては、またどこかの訳あり大型船が入ってきた。それだけだ。
アウターリングドライドックの巨大開口部が開いている。普段は閉じられている重装甲ハッチが左右へ引かれ、内部の補修灯が白く奥まで伸びていた。ドック内壁のガイドラインが青く点灯し、誘導灯が進入角を示している。待機している支持アームは六基。磁気固定クランプはすでに展開準備済み。床面のビーコンも起動していた。ミラが静かに読み上げる。
「進入角、適正」
「速度、許容範囲内」
「ドック内支持アーム、同期待機確認」
アイリスが息を詰める。
「……ほんとに、入る……」
ノクスがドック開口部の脇を抜け、先導位置から外れる。その後ろを、エーテルガイストの巨体がゆっくりと滑り込んでくる。艦体側面の補修板が白い光を受ける。偽装外装の継ぎ目。傷んだ輸送艦に見せるための仮装甲。それでも内部に隠し切れない、流線型の戦艦めいた骨格。開口部との間隔は広くない。巨大艦だからこそ、わずかなズレが目立つ。だがエーテルガイストは揺れず、迷わず、静かに前進した。
『ドック進入開始』
アドミラルの声が落ちる。
『右舷側クリアランス、維持』
『左舷側クリアランス、許容範囲』
『前進継続』
支持アームが順番に伸びる。まず艦首側。次に中央。最後に艦尾。磁気固定クランプが船体外板へ接触し、低い接続音が響いた。ドック全体が、ほんのわずかに震える。アイリスが思わず小さく声を漏らす。
「……すごい……」
最後に艦尾がドック内へ収まり、開口部の外に残る影が消える。
『固定開始』
アドミラルの声が静かに響く。
『磁気固定、問題なし』
『外部ライン接続開始』
『補修ドック接続確認』
カインはそこでようやく息を吐いた。
「入ったな」
「……うん……」
アイリスの声は少し震えていた。怖さではない。
張り詰めていたものが、少しだけ解けた震えだった。ドック内ではクロンとロイが待っていた。
クロンはエーテルガイストの巨体を見上げ、さすがに数秒黙った。それから工具義肢を軽く鳴らす。
「……でかいな」
ロイも端末を片手に、その全長を一度眺めた。
「ホエール未満、か」
カインは表情を変えない。
「嘘じゃない」
ロイは鼻を鳴らした。
「まあいい。枠には収まってる」
「契約違反じゃないなら、それで十分だ」
そこで、ドック内のスピーカーを通してアドミラルの声が初めて直接響いた。
『受け入れに感謝する』
クロンとロイの目が、わずかに動く。
先に口を開いたのはクロンだった。
「……コイツが艦のAIか」
工具義肢を軽く鳴らしながら、エーテルガイストの外壁を見上げる。
「喋るとは聞いてたが、ずいぶん堂々としてるな」
ロイも端末を片手に、艦体の上部を一度見回した。
「艦載AI自体は珍しくない」
アイリスは少しだけ緊張が解けたのか、小さく息を吐いた。
「……ちゃんと、挨拶した……」
ミラが静かに補足する。
「アドミラルは礼節プロトコルを重視します」
「搬入に協力した対象には、初回の謝意表明を優先します」
『私は本艦の統合管理知性体、アドミラル』
『本艦の運用、管理、戦術判断、生活補助を担う』
クロンが小さく鼻を鳴らす。
「アドミラル、ね」
「大層な名だ」
ロイも口元だけ少し動かした。
「珍しくないが、提督とはまた大きく出たな」
『本艦の役割に照らし、適切な呼称だと判断している』
その返答に、クロンがわずかに口元を歪める。
「はっきり言う」
「嫌いじゃない」
カインが短く言う。
「こいつはそういう奴だ」
ロイが端末を閉じた。
「礼を言うAIか」
「それなら話は早い」
「こっちも契約通りに枠を用意した。そっちも契約通り、面倒を起こすな」
『了解した』
『本艦は自由港内において、契約範囲を逸脱する武力行使を行わない』
クロンが艦体の補修板を見上げながら言う。
「補修対象に見せる偽装も悪くない」
「近くで見れば無理があるが、遠目にはそれっぽい」
『評価感謝する』
『偽装外装は短期運用を前提に最適化した』
ロイがそこでカインへ視線を向ける。
「よく仕込まれてる」
「船も、AIもな」
カインは短く返す。
「そういう艦だ」
アイリスが少しだけ笑う。
「……うん……そういう艦……」
クロンは最後に工具義肢を軽く鳴らした。
「まあいい」
「でかい。喋る。提督気取り。面白い艦だ」
「ちゃんと枠に収まって、ちゃんと金を払うなら文句はねぇ。なぁロイ」
ロイも頷く。
「同感だ」
「正体を聞く気はない。だが、契約の中で動くなら歓迎するここは自由港だからな」
『本艦も、協力関係の継続を希望する』
クロンが鼻で笑った。
「そこはまず、働きぶりを見てからだな」
ロイが続ける。
「ギアハンドは口だけの相手には長く付き合わん」
『異論はない』
アドミラルの声は変わらず静かだった。
『結果で示す』
その返答に、クロンはわずかに目を細める。
「やっぱり嫌いじゃねぇな、そういうの」
『以後もよろしく頼む』
クロンとロイはそれ以上深く聞かなかった。
聞かない方が、この街では賢い。
搬入が終わると、次は押さえていた荷の引き取りだった。ノクスでジャンク・バザールへ向かい、スクラップ・フィストの店先に立つと、ヴェラは相変わらず椅子にもたれて義眼を細めた。
「……来たか」
「ああ」
カインが言う。
「引き取りだ」
ヴェラは端末を見もせず、店の奥を顎でしゃくる。
「払いは済んでる。持ってきな」
店の奥から、押さえていたコンテナが運び出される。主砲回りの改修用部材一式。 冷却導管。収束ライナー。補助部品。そして別枠で固定されたハルバード 6本。
アイリスがそれを見て小さく言う。
「……ほんとに全部、うちのになるんだね……」
「置き場ができたなら、そうなる」
ヴェラはあっさり答えた。
「でかい物ってのは、買う前より、置けるようになった後の方が現実味が出るものさ」
カインは軽く手を上げた。
「世話になった」
「また来な」
ヴェラは椅子から動かずに言う。
「今度は、もっと面白い物を見せてやる」
宿へ戻ったのは、その後だった。宿の部屋は、来た時よりもさらに狭く見えた。仮の寝床。それ以上でも以下でもない。荷物は多くなかった。衣類。端末。細かな携行品。フロントに降りると、最初の日に部屋を取った女主人が端末を叩いていた。顔を上げて、三人を見る。
「チェックアウトかい」
「ああ」
カインが答える。
「今日で出る」
女主人は端末を叩き、部屋番号を確認する。
「B-12。最初に一泊分だけ払ってたね」
アイリスが小さく言う。
「……残り、4日分……」
「そうだよ」
女主人は肩をすくめた。
「残りは 1200ソル」
ミラが即座に支払い処理を済ませる。認証表示が灯る。
「受領確認」
女主人は頷いた。
「これで終わりだ」
「案外短かったね」
アイリスが少しだけ笑う。
「……うん」
ミラが続ける
「助かりました」
女主人は鼻を鳴らす。
「この辺は寝るだけの場所だ。役に立ったならそれでいい」
カインが短く言う。
「世話になった」
「また泊まりたくなったら来な」
女主人は端末に視線を戻した。
「ただし次は、もう少し静かな顔で入っておいで」
アイリスが少しだけ目を丸くする。
「……そんなに分かりやすかった……?」
「最初の日はね」
女主人は笑いもしないで言った。
「今は少し、この街の顔になってるよ」
それを聞いて、アイリスは小さく息を吐いた。
「……そっか……」
エーテルガイストへ戻ると、空気そのものが違った。広い。自由港に比べて静かだ。艦内の照明はまだ控えめだが、宿の狭さに慣れた身体には、それだけで十分すぎた。ドック6の中にあるというだけで、もうこの艦は逃げるためだけの場所ではない。自由港の中に置かれた、彼らの拠点だった。ミラが静かに言う。
「生活区画、再稼働を開始します」
アイリスが通路を見回し、小さく息を吐く。
「……帰ってきた……」
カインは何も言わずに艦内を見渡した。
ドック。工房街との線。ノクス。ヴェラの部材。ロイの契約。クロンの工房枠。全部が、ようやく一つに繋がった。今度は通信越しではなく、艦そのものから響くような近さでアドミラルの声が落ちる。
『エーテルガイスト、これより自由港拠点化フェーズへ移行する』
アイリスが少しだけ笑う。
「……なんか、提督、ちょっと嬉しそう」
『気のせいだ』
その夜、三人は宿のテーブルではなく、エーテルガイストの艦内で端末を広げた。ミラが要点を静かに整理する。
「本日の結果です」
「一、エーテルガイスト、搬入成功」
「二、事前支払い済みの部材一式、引き取り完了」
「三、ハルバード 6本、搬入完了」
「四、宿のチェックアウト完了」
「五、生活拠点をエーテルガイストへ移行」
アイリスがゆっくり息を吐いた。
「……やっと、ちゃんと落ち着ける……」
「まだ終わっちゃいない」
カインが言う。
「でも、隠れるだけの段階は終わった」
ミラが頷く。
「はい」
『その通りだ』
アドミラルの声が艦内に響く。
『本艦はもはや、逃走用の艦ではない』
『自由港における拠点だ』
アイリスはその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「……うん」
「ここから、また始まるんだね……」
「ああ」
カインは短く答えた。
「ここからだ」
エーテルガイストは、逃げるために身を潜める艦から、自由港で活動するための本拠地へ変わった。それは、ようやく手に入れた“置ける場所”であり、そしてこれから先、さらに多くのものを引き寄せる始まりでもあった。




