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トリニティ・ガイスト:亡霊と少女と軍神の航跡  作者: ベルシア


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第十話:未完成の安らぎ

 副艦長室は、思っていたよりも静かだった。

壁は淡い灰色。窓はない。けれど、圧迫感はない。天井の照明が、やわらかく拡散している。

アイリスは、ソファの端にちょこんと腰を下ろしていた。背筋を伸ばしたまま、本を両手で抱えている。まだ、開いていない。少しだけ、深呼吸。

 

「……ほん……」

 

 表紙を撫でる。ざらりとした質感。

角は丸くなっていて、何度も読まれてきたことがわかる。電子端末とは違う。重みがある。温度がある。自分の手の熱が、じわりと移る。それが、妙に落ち着く。ゆっくりとページを開く。

紙がこすれる音。その小さな音に、胸の奥の緊張が、ひとつほどけた。文字が並んでいる。黒いインク。規則正しい行。指先で、そっとなぞる。一文字、一文字。追いかけるように読む。最初は、少し時間がかかる。途中で視線が止まる。意味を考える。頭の中で、情景を作る。森。風。湖面。戦いのない世界。アイリスの肩が、ほんの少し下がる。無意識だった力が抜ける。

 

「……きれい……」

 

 誰に向けるでもない、小さな声。自分の内側に向けた確認のような呟き。ページをめくる。今度は、さっきよりも自然に。時間の感覚が、少しだけ曖昧になる。エーテル・コアの低い振動は、遠い鼓動のように感じられる。怖さはない。ただ、そこにあるという安心。彼女は本を膝の上に置き直し、足をソファの上に軽く引き上げる。身体を丸める姿勢。守られている形。視線が文字を追うたびに、呼吸がゆっくりになる。胸の奥に残っていたざわつきが、薄くなっていく。ふと、ページの端に小さな染みを見つける。誰かの指の跡かもしれない。涙かもしれない。ただの汚れかもしれない。けれど、それが“誰かの時間”を感じさせる。


「……ひとりじゃない……」


本を読むという行為が、どこかで誰かと繋がっている気がする。ページを閉じることなく、彼女はそっと本を胸に引き寄せる。目を閉じる。ほんの数秒。紙の匂い。静かな空気。やわらかな光。再び目を開く。今度は、少しだけ微笑んでいる。戦う艦の中にいることは、変わらない。未完成で、不安定で、危険な場所。それでも。この小さな部屋と、膝の上の一冊がある限り、アイリスの世界は、ちゃんと穏やかだった。

 アイリスは本を開いたまま、同じ行を三度読んでいた。内容は入っている。けれど、指先が少し冷たい。その瞬間、空調の風向きがわずかに変わる。直接ではなく、壁面を伝う柔らかな循環。


『室温を0.8度上昇させた』

 

アイリスが瞬きをする。


「……さむく、ないよ……?」


『末端体温が低下傾向』


『自覚症状の有無は判断基準としない』

 

理屈。けれど声色はどこか静かだ。

横壁のパネルが音もなく開く。

小さなブランケットが、折り畳まれて出てくる。


『膝掛けの使用を推奨』


「……こどもじゃないもん……」

 

そう言いながらも、ちゃんと受け取る。

広げると、やわらかい。触覚データを解析した上で選ばれた素材だろう。照明が、ほんの少しだけ暖色寄りになる。


『読書継続時間が二十分を超過』


『視神経負荷軽減モードへ移行』

 

アイリスは目を細める。


「……きづいてたの……?」


『常時観測している』

 

さらりと怖いことを言う。だが、監視というよりは——保護。数分後。ページをめくる手が止まる。まぶたが少し重い。

 

『覚醒度低下』


『読書の一時中断を推奨』


「……まだ、つづき……」


『続きは消失しない』


『睡眠は回復資源である』


小さな沈黙。アイリスは、少しだけ考えてから、本にしおりを挟む。


「……ずるい……」

 

言い返せない。ソファの背もたれが、わずかに角度を変える。体圧を分散する微調整。

ブランケットが肩まで自然に引き上げられる。


『副艦長の休息を最優先とする』


「……ふく……かんちょう……?」


『役割定義上、正しい』

 

アイリスは小さく笑う。肩の力が抜ける。

数秒後、呼吸がゆっくりになる。本は胸の上。

指先が、まだページの端に触れている。

室内の音が、さらに静かになる。

エーテル・コアの振動すら、感じにくい帯域へ。

照明が、もう一段落ちる。

 

『安定確認』

 

報告は、誰にも向けられていない。

巨大な未完成艦の中で、戦闘計算も、航行演算も同時に進行している。だがこの部屋だけは、別処理。最優先タスクは、ただ一つ。副艦長の安眠。

黄金の単眼はここにはない。

だが、艦全体が静かに見守っていた。

世話焼きという言葉を、もしAIが理解するなら——それは、こういう状態を指すのかもしれない。


 格納式艦橋。

カインは腕を組み、改修進捗のホログラムを睨んでいた。エーテル・コアの低い振動。艦の鼓動のような音。その中に、アドミラルの声が静かに割り込む。

 

『報告』

 

事務的なトーン。


「何だ」

 

『副艦長、休息状態へ移行』


カインの視線が、わずかに横へ流れる。


「……寝たのか」

 

『肯定』


『読書開始から三十二分後、覚醒度低下を確認』


『睡眠導入を支援』

 

「支援?」

 

『室温調整』


『照度低減』


『体圧分散制御』


『ブランケット適用』

 

淡々と列挙される。

カインは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「世話焼きだな」

 

一拍。

 

『最適化だ』

 

即答。だが、否定しきれていない響きがある。

 

『現在、心拍・呼吸ともに安定』


『外部刺激を最小化』


『起床予測は約九十二分後』


「起こすなよ」

 

『当然』

 

わずかな間。

 

『本艦は未完成だ』


『だが、生活区画の保全は優先順位が高い』

 

カインは鼻で笑う。


「戦闘艦のくせに」

 

『戦闘のみが任務ではない』

 

低く、しかしはっきりと。カインはブラッドハウンドで天井越しの区画を一瞬だけ確認する。映像は出さない。位置だけ把握する。


「……そうか」

 

短い返事。それで十分だった。

 

『副艦長は現在、安全圏内』

 

報告はそれで終わり。戦術表示が再び前面に出る。未完成の主砲。未実装の弾頭。山積みの改修項目。だが、少なくとも今この瞬間、艦のどこかで、ひとつの呼吸が穏やかに続いている。

 

カインは小さく呟く。


「……頼むぞ、アドミラル」

 

『任務了解』

 

それは軍令の応答だった。だが内容は、ただひとつ。守ること。


 カインは右手で、左の袖口を無意識に押さえた。そこには何もない。少しだけ間があってから、口を開く。


「……アドミラル」


『応答』


「左腕。作れるか」

 

投影が変わる。簡素な人体フレーム。左肩から先が空白。


『義肢の製造は可能』


『艦内工作設備で対応できる』


カインは椅子の背に体を預ける。


「武装はいらない」

 

即座に補足する。


「普通でいい」

 

『定義を要求』

 

「掴めて、支えられて、動く。それだけだ」

 

沈黙。投影の空白部分に、ゆっくりと輪郭が描かれていく。骨格フレーム。外装。指の関節。

 

『素材は軽量複合フレームを推奨』


『外装は疑似皮膚処理が可能』

 

カインは首を横に振る。


「金属でいい」

 

『理由』


「隠すつもりはない」

 

短い答え。

 

投影の外装が変わる。無機質なライン。余計な装飾はない。

 

『神経接続方式は三種存在』


『直接接続』


『腕部筋電読み取り』


『補助演算併用』

 

「負担の少ないやつでいい」

 

『筋電読み取り+補助演算を推奨』


「それで」

 

さらに、指の動作テスト映像が流れる。

開く。握る。ゆっくりと曲がる。

 

カインはしばらく見つめる。


「……重さは」

 

『現状体格比で違和感の少ない重量に調整可能』


『左右差は最小化する』

 

「見た目は気にしない」

 

『副艦長は気にする可能性がある』

 

一瞬、カインの眉が動く。


「……余計なこと言うな」

 

『事実の提示』


淡々。

 

投影が最終形状に固定される。

左腕。無駄のない構造。実用一点。

 

『製造時間、約六時間』


『装着調整を含め八時間』

 

カインは立ち上がる。


「今日中にできるか」

 

『肯定』

 

少しだけ間を置いて。

 

『痛覚フィードバックは限定する』

 

「……ああ」

 

 それでいい。未完成の艦。眠る主砲。

足りない装備。だが。空白だった左側に、形が生まれようとしている。

 

『製造を開始する』

 

静かな宣言。カインは短く頷いた。


「頼む」


それは命令ではなく、

どこか、預けるような声音だった。


艦内工作区画。

密閉された作業室の奥で、フレームがゆっくりと形成されていく。金属骨格が積層され、関節部が精密に組み上がる。


『義肢フレーム、第一工程完了』


淡々とした報告が、艦内ネットワークを流れる。

同時刻――食堂区画。

照明は昼間設定。人工的だが、わずかに温かみのある色。アイリスは先に席に座っていた。

テーブルの上には、二人分のトレイ。


「……できてるよ……」


カインが入ってくるのを見て、小さく手を振る。

カインは右手だけで椅子を引き、向かいに座る。


「早いな」


「……おなか、すいた……」

 

トレイの上には、

温野菜のスープ

焼きたてに近い食感のパン

タンパク質補助用の簡易肉料理

薄く切った果実

艦内調理ユニット製だが、見た目は悪くない。


『栄養バランス最適化済み』


上方から、いつもの声。

 

カインはパンを右手でちぎる。片手動作は、慣れている。だが少し不便だ。アイリスはそれを見て、少しだけ視線を落とす。

 

「……いたくないの……?」


「もう慣れた」

 

短い答え。

 

アイリスは自分のパンを半分に割り、

そっとカインの皿に寄せる。


「……こっち、やわらかい……」


カインは一瞬だけ目を細める。


「自分の分だろ」


「……たくさん、ある……」

 

嘘だ。量は同じだ。

だが、カインは何も言わない。スープの湯気が静かに立ち上る。艦の低い振動と、食器の触れ合う小さな音。戦術表示も警告音もない時間。


『義肢製造、第二工程へ移行』


アドミラルの声が、環境音に紛れるように告げる。

 

アイリスが顔を上げる。


「……つくってるの……?」

 

「左腕だ」

 

それだけ。

 

「……どんなの……?」


「普通のだ」

 

少し間を置いて。

 

「掴めるやつ」

 

アイリスは、ほっとしたように頷く。


「……よかった……」

 

「何が」

 

「……カインが、こまらないの……」

 

視線は皿に落ちたまま。カインはスープを飲む。

温かい。

 

「困ってない」

 

言いながらも、声は少しだけ柔らかい。

アイリスは果実を小さく切り分ける。

無意識の仕草。

 

「……できたら……さわっても、いい……?」

 

カインは一瞬、止まる。


「……ああ」

 

 短い返事。アイリスは、少しだけ嬉しそうに笑う。昼の食堂は静かだ。未完成の艦。作られつつある義手。眠っている主砲。そのすべてとは関係なく、二人はただ、昼食を取っている。


『副艦長の摂取量が基準値を下回っている』

 

「……いま、たべる……!」

 

 少しだけ慌ててスープを飲むアイリス。

カインは鼻で笑う。巨大な創世級試作実験艦の中で、その時間だけは、どこにでもある昼だった。

昼食のトレイは回収され、テーブルには湯気の消えたカップだけが残っている。艦内は穏やかな巡航振動。


『報告』


天井スピーカーから、落ち着いた声。


『義肢製造、最終工程へ移行』


『完成まで推定二時間十七分』

 

カインは椅子にもたれたまま、右手でカップを回す。


「意外と早いな」


『基礎設計が単純なため』

 

アイリスは両手でカップを包んだまま、カインと天井を交互に見る。


「……それまで、どうするの……?」


わずかな間。

 

『提案を行う』

 

ホログラムがテーブル上に淡く展開される。


提案一:艦内軽運動区画の使用


『副艦長の身体機能維持』


『操縦者の片側負荷軽減訓練』

 

カインが眉を上げる。


「訓練はいい」

 

即答。

 

『却下を確認』

 

淡々。

 

提案二:簡易シミュレーション区画


『義肢装着後の動作イメージ共有』


『視覚化により違和感軽減』

 

カインは少し考える。


「……あとでいい」

 

アイリスが小さく首をかしげる。


「……こわいの……?」

 

「怖くはない」

 

短い返事。

 

ホログラムが切り替わる。

 

提案三:展望ブロックの限定開放


艦外カメラの映像が映る。星の帯。ゆっくり流れる光。


『安全圏内』


『副艦長の情緒安定効果が高い』

 

アイリスの目が、少しだけ輝く。


「……ほし……」

 

カインは横目でその様子を見る。


「近いのか」


『距離は一定』


『視覚的印象の問題』

 

数秒の沈黙。

 

「……行くか」

 

アイリスがぱっと顔を上げる。


「……いいの……?」


「ああ。座ってるだけだ」

 

『移動経路を確保する』

 

床面に淡い誘導灯が灯る。

 

歩き出す二人。

カインは右手だけでポケットに手を入れ、アイリスは少し後ろからついていく。

 

『義肢完成後は装着テストを予定』


『その前に精神状態を安定させることを推奨』

 

カインは苦笑する。


「世話が焼けるな」

 

『最適化だ』

 

即答。

 

通路の先、透明装甲の小区画。星が、静かに広がっている。義手が出来上がるまでの時間は、ただ、星を見るための時間になる。

 

『残り二時間十二分』

 

カウントは続いている。だが、急がせる声ではない。ただの事実。二人の間に流れる静かな時間を、邪魔しない程度の距離で告げていた。


展望ブロック。小さな区画だ。

 艦体外殻の一部を透明装甲に置き換えた、限定解放空間。照明は落とされ、室内はほぼ暗い。

その代わり、外の星々がはっきりと見える。

アイリスは、ガラスに近づきすぎない位置で立ち止まる。両手を胸の前で組んで、そっと見上げた。


「……きれい……」

 

宇宙は黒い。だが完全な闇ではない。

遠くに星団。淡いガス雲。微細な光の粒。

ゆっくりと流れているように見えるのは、艦が進んでいるからだ。

 

カインは少し後ろに立つ。壁に寄りかかる形。

右手だけをポケットに入れ、左の袖は空のまま。

 

「静かだな」

 

『外部音は存在しない』


アドミラルの声は、極小音量。

 

アイリスはガラス越しに、自分のうっすらとした反射を見る。その隣に、カインの影。


「……この艦、ひとりじゃないね……」

 

カインは視線を外に向けたまま答える。


「そうだな」

 

艦の低い振動が、足元から伝わる。

生き物の鼓動のよう。アイリスはそっと座り込む。床は冷たくない。温度が保たれている。

膝を抱える姿勢で、星を見上げる。

 

「……あのひかり……」


指先で、遠くの一つを示す。


「……だれか、いるのかな……」

 

「いるだろ」

 

即答。

 

「……やさしい人……いるかな……」

 

カインは少しだけ黙る。


「いる」

 

短いが、確信のある声。

 

アイリスは小さく笑う。


「……カインみたいな……?」

 

「違う」

 

即答。

だが、否定しきれていない。静かな時間が流れる。遠くで、微かにエーテル流の光が瞬く。

航路上の微粒子が、艦のシールドに触れて散る光。

 

『義肢製造、残り一時間三十八分』

 

アドミラルの報告は、風のように淡い。

 

アイリスは振り返らない。


「……たのしみ?」

 

「……わからん」

 

正直な答え。

 

「……わたしは、たのしみ……」

 

その言葉に、カインはわずかに目を細める。

 

「触るんだろ」

 

「……うん」

 

星明かりが、透明装甲越しに二人の輪郭を縁取る。未完成の艦。作られつつある左腕。まだ使えない主砲。それでも。今この瞬間だけは、ただ宇宙を見ているだけの時間。

アイリスはそっと呟く。


「……ここ、すき……」

 

カインは外を見たまま答える。


「……悪くない」

 

巨大な創世級試作実験艦エーテルガイストは、

静かに星の海を進み続ける。

その中で、二人は同じ景色を見ていた。

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