主の変貌
足の手当を受けて連れ戻された輝夜の部屋には、まだ一昨日の血の匂いがかすかに残っている。見た目はきれいに掃除されているけれど、匂いはなかなか消えない。そういうものだ。暗夜には慣れた匂い。窓からさす幽かな月明かりが、ベッドに座ってうつむく暗夜の横顔を照らす。
「暗夜様。近いうちに輝夜様と会うのでしょう? その時に話し合って、レーデ様と一緒にこちらに戻る方法を決めましょう」
壁際に腰をおろしたオクリが、暗夜に向けて声を放つ。暗夜は窓から差す星明りを反射して幽かに光る虹彩を彼に向けて、首を左右に振った。
「僕は……だめだよ」
「何故?」
「僕は、幸せになっちゃだめなんだ。僕は、罰を受けないと」
血が滲んだ声。脳裏に浮かぶのは、赤く染まったキーナの手。自らの小さな手に落とした暗夜の視線を、オクリの声が奪う。
「何の罰を? 暗夜様がなにかしたのですか?」
毛に覆われて片方しか見えない、オクリの真っ黒な瞳。見つめ合って、目をそらす。暗夜の尻の下でベッドがきしむ。
「――僕は……」
暗夜は語った。オクリに、盾の国であったすべてを。本当は語りたくなかった。けれどきっと、暗夜は誰かに聞いてほしかったのだと思う。盾の国では誰にも信じてもらえなかったし、レーデに語る時間もなかった。城の者たちはふたりをなるべく引き離そうとしていたから。それに、暗夜も彼を避けていた。
ずっと心に秘めていたことを詳らかに話したのは、これが初めてのことだった。震える声。ぎゅっと握りしめた手のひら。
すべてを語り終わって唇を噛んだ暗夜に、オクリは黒い目を向けて、細い息を吐いた。
「それで、あなたに何の罪が? 悪いのは盾の国のほうじゃありませんか。暗夜様はお辛かったでしょう。それに、キーナというもののしたことが本当なら、彼はあなたに罰されて然るべきでしょう」
至極当然とでも言いたげな顔をして、オクリが、朝方にネオンが言ったのと同じようなことを口にした。
「そうなの……?」
「そうですよ。なんの罪もない子どもをろくに教育もせず無理やり戦場に出して、その上無為な折檻なんて……」
「罰を受けるのは、盾の国の方?」
「俺はそう思いますよ。だから、そんなところは捨てて、こちらに来ませんか?」
「……うん」
暗夜は両の瞼を下ろして、目を細めて笑顔を作った。
*
剣戟の音と喧騒が、その場にいる誰もの鼓膜を激しく揺らす。
「オクリさん」
騎士隊長の名を呼ぶアドレインの視界の中央では、彼の主よりもはるかに上背のあるファーグと暗夜が、型の練習をして剣を噛み合わせている。
「壁の外から帰ってから、輝夜様の様子がおかしいのです。……その、なんというか、ふとしたときの表情や言葉の選び方が以前と違って……」
膝の上で祈るように組まれたアドレインの指。握りこませた指先が、白い手の甲にへこみを作る。
「この三日くらい毎日オクリさんに会いに行っておられますし、なにか聞き及んでおりませんか?
――ああ、その、うっすらとは聞いているのです。壁の外で――」
言いかけて彼は口をつぐんだ。これ以上は喋らないと言うように唇を押さえて、オクリの目をまっすぐに見つめる。
オクリは彼から目をそらして、ため息をついた。
「おまえが直接聞けばいいだろう」
「私のような男には話しづらいようなことがあったようで、無理に聞き出すのは良くないと思いまして。ただ、私が把握していないせいで輝夜様を傷つけるような行動をしてしまっているので、このままではいけないのです」
「――俺の口からは言わない。そのうち教えてくれるだろう。今はそういう時期なんだよ。魔王様も、克服しようと頑張っておられる。あまり心配するな」
もっともらしいことを言ってはぐらかすオクリにアドレインは不満げな表情を送って、それから主に視線を戻した。
「やったー! 僕の勝ちだ!」
アドレインの視界の中央で、いつの間にか戦闘訓練を始めていた暗夜が、ファーグを負かして大きな声をあげて笑っている。
自分の命よりももっと大切だと思っている主は、他者を負かしてこんなに悪戯っぽく、勝ち誇ったような顔で笑うことなど今までなかった。かつて自分の心を救ってくれた幼き主の心を、今度は自分が救いたいとアドレインは思っている。しかしそれは、叶わないのだ。自分がこの姿で生きている限り。
暗夜の目が自分を見ているアドレインに気がついて、ぎこちなく細められた。無理をして笑いかけているのが見て取れる表情。血が滲む心中を見ないようにして、アドレインはこちらに駆け寄ってくる主に笑顔を向けた。
「輝夜様、お疲れでしょう。部屋に戻って休憩しませんか?」
アドレインの手からタオルを受け取って、汗を拭う暗夜。その視界の先にいるのは、アドレインではなくその隣にいるオクリ。
「ううん、大丈夫。ねえオクリさん」
「はいはい、じゃあ部屋で待っていてくださいな。あとで行きますので」
「行ってくるね! 夕ご飯までには帰るよ」
ぱぁっと輝く暗夜の笑顔。アドレインの様子なんか微塵も気にしていない表情。以前の主は、こんなふうではなかったはずだ。いつだって自分や周りの者たちをまっすぐに見てくれて、だから自分は、救われたのに。
「お気をつけて行ってらっしゃい、輝夜様……」
どうしようもない無力感に苛まれて、アドレインは肩を落とした。
*
とぼとぼと背を向けて去っていくアドレインをかわいそうに思わないこともないのだけれど、暗夜には暗夜のやることがある。
修練場を出た彼の背を見送ると、暗夜はオクリに手を振って、城の出口の方へと向かう。暗夜の行き先と目的は、オクリも知らない。この国に再び戻るために、城の外のことを学びたいとオクリに頼んで、オクリの部屋で勉強を教えてもらうと言う名目でアドレインを自分から遠ざけてもらった。そうして暗夜は、束の間の自由を手に入れた。
――本当のところは、暗夜はまだ、ここに帰ってくるのかは決めていない。迷っている。大嫌いな環境から離れられるのはありがたいことだけれど、数多の魔物を手にかけて生きてきた暗夜がここに暮らすのは、なにか違うような気がしている。盾の国に戻ったって、このままずっとここにいたって、暗夜の居場所はどこにもないのだ。たとえ周りが受け入れてくれたとしても、暗夜の心の置きどころはどこにもない。




