傷口はまだ痛む
夜の海のような濃紺色に身を包んだ背中が、目の前で上下に揺れている。その上には、頭を垂れた稲穂の色。壁際につけられた妙に薄暗いランプの光に照らされて、二つの影が床を這う。
ふたりは城を出て、暗夜が今朝窓から見下ろした裏庭を通り抜けて、しばらく歩いた先にある修練場の廊下を歩いている。
「輝夜様、今日は私と手合わせしましょうね!」
軽快な足取りで自分の左前を歩くアドレインが、こちらを振り向きながら目元を細めた。
「ああ、うん……」
歯切れ悪く返答をした暗夜。アドレインは足を止めて、暗夜より少し高い位置にある頭を低くして、こちらの顔を覗き込んできた。
「あっ……私とは、今は難しいですか?」
「ああ、いや、大丈夫だよ」
暗夜は首を左右に振って答える。
暗夜の剣はキーナに仕込まれた。
キーナは『処刑王子』だったけれど、暗夜は『王子の処刑人形』だった。
――アドレインはキーナに似ているけれど、キーナじゃない。だからきっと、剣の稽古くらいなら大丈夫。
「輝夜様、最近お強くなりましたよね! 前回は負けてしまって悔しかったです。私も鍛錬しないと……」
そう言って歩みを再開したアドレインの後ろを歩く。
長く続く廊下の中程に、外からの光が差して明るいところがある。そのまま開け放たれたままのドアに近づいていくと、がやがやとした声と剣戟音が聞こえてくる。
開いたドアのそばに立ち、おそらく暗夜が先に入るように促そうとしたアドレインは、柔らかい表情を一変、急に鋭い視線をこちらに向けてきた。扉の影の暗がりで、緑色に光る彼の虹彩。
「輝夜様」
彼の硬質な声色と顔つきに驚いた暗夜は、足を止めた。
開いたドアの向こうから、なにか巨大な塊が吹き飛んできた。アドレインはそれを素早い動きで捕まえて、砂利が散らばった石床に叩きつける。
「うっぐへ!」
床に転がった茶色い塊――犬のような顔をした魔物が間抜けな悲鳴を上げて、床の上で悶絶する。
「うぇえええ……」
呻きながらごろごろと左右に揺れる魔物の腕を掴んで、アドレインが彼の動きを止めた。
「立てるか?」
「ああぁ、アドレイン様、ひでぇよ、なんでぶん投げたんですか」
立ち上がりながらアドレインに向けて抗議する獣。真っ直ぐに立った耳にはタグがつけられており、少し離れた位置に立っている暗夜からは、ファーグという名前だけが読み取れた。
「壁に激突するよりはマシかと思ったんだが」
「どっちもどっちです!」
すがりつくようにしてアドレインの肩を掴むファーグ。アドレインは彼の手を雑に解いて、触られた肩に付いた毛を手で払う。
「毛がつくだろう。触るな」
「アドレイン様のいじわるー! てかなんでそんな抜け毛が目立つ色の服着てるんですかぁ」
情けなく耳を倒してわめく獣。ゆっくりと彼が立ち上がると、その背はアドレインよりも頭三つ分ほど高かった。自分よりも遥かに高い位置から見下されて、アドレインは涼しい顔を崩さずに口を開く。
「ひとの服に文句をつけるな。――身体は痛まないか?」
「アドレイン様にいじわるされて痛みもぶっ飛びました」
「そうか、それはよかった。……傷んだらすぐに医務室に行くように」
ファーグと話すアドレインの表情は、暗夜と話すときと違って一切変わらない。感情の抑揚がないように表情が動かない。きっといつもそうなのだろう。ファーグは特にそれを気にした様子もなく、こちらに顔を向けると、顔から突き出したマズルを器用に歪めて笑った。
暗夜は彼を、見たことがある。彼は暗夜がここにきた時に、門番をしていた。……ような気がする。似たような造作の魔物だってきっといると思うしまだ暗夜にはその見分けがついているかどうかもわからないので、もしかしたらひと違いかもしれないが。
「魔王様、見苦しいところ見せちゃいましたね」
「ううん、それより大丈夫?」
「オレは丈夫が取り柄なんでね! 全然平気っす!」
大げさな動きで元気を表明するファーグ。彼は暗夜をまっすぐに見つめて、短い毛足に覆われた眉山をきゅっと跳ね上げた。白目の伺えない琥珀色の瞳で、暗夜をじっと見る。
「ん……? 魔王様……」
上手に眉を寄せて、ファーグがその場から上体をこちらに倒して、空気を嗅ぐ仕草をした。そのまま、つやつやの黒豆みたいな鼻を揺らしながらこちらに近づいてくる。
「わっなに? なんで匂い……わぁ、やめて!」
きっと自分から湧き出る匂いに対しては無意味なのだろうけど、暗夜は思わず自分の身体を抱いて、後退る。
ファーグの鼻先から、スンスンという呼吸音が鳴っている。それが暗夜に聞こえるほどの距離に彼が近づいてきている。
「無礼だぞ、離れろ貴様」
アドレインが、ファーグの首根っこを掴んで後ろに引いた。アドレインよりも頭三つ分ほどでかいファーグはあっさりとよろめいて、よたよたと数歩後ろに下がってから地面にへたりこんだ。
「ああぁ、ごめんなさい許してアドレイン様。なんか魔王様、最近匂いが男らしくなったと思って……」
命乞いでもするように、大げさな身振りでアドレインに頭を下げるファーグ。アドレインは鬱陶しそうな表情で彼から少し離れて、適当な相槌を投げた。
「そうか」
「オレ本当は魔王様女のコなのかと思ってて。でも女の子の匂いもしないから――」
「そうか。無礼者」
「ああすみません、許して。だって魔王様、かわいいんだもん」
「そうだな」
そう言ってから、アドレインは「しまった」といったふうな顔をして暗夜を見た。暗夜はよく聞こえなかったふりをして、ぼんやりと笑顔を浮かべてアドレインの金色の瞳を見つめ返す。居心地悪げに、アドレインが頭を揺らしてこちらから顔をそらした。
「アドレイン様、さあ行きましょう。先週入った新入りの稽古をお願いしますよ」
媚びたようなファーグの声。真っ黒な肉球のついた長い指が、アドレインの背中を押す。アドレインは促されるままに歩き始めながら、金色の瞳で大きな獣を見た。
「新入りよりもお前の根性を叩き直す方が先だな」
「ああ、いてて、さっき打った腰が……」
今度はわざとらしく腰を抑え始めたファーグ。アドレインが自らの背後――廊下の方を後ろ手で指す。
「医務室」
「はいっ!」
腰が痛いといった割には軽快な動きで、ファーグはそそくさと踵を返して廊下の奥へと去っていった。
ころころと調子の変わるファーグに圧倒されてフリーズしていた暗夜に、涼しい顔を一転させて笑顔を作ったアドレインの声がかかる。
「輝夜様、行きましょうか」
「うん」
アドレインに促されて暗夜が扉をくぐると、先程まで絶えず聞こえていた喧騒が、止まる。わずかの間、水を打ったように静まる空間の中で、風が木をかき混ぜる音だけが聴こえる。
『魔王様!』
見た目も身体の大きさも様々な騎士たちが、こちらを見て一様に暗夜を呼ぶ。魔物討伐から血まみれの姿で帰る暗夜を称えるものはなく、こんな扱いを受けたのは、暗夜は初めてだった。
「輝夜様、緊張しておられますか? 珍しいですね」
背後から、アドレインがささやく。暗夜は無言で首を縦に振った。
「そういう日もありますよね。私もなんだか、緊張してきました」
自分を追い越したアドレインが振り返って、にっと歯を見せて、目を細めた。そのいたずらっぽい表情が、暗夜の心の蓋をひっかく。
「キーナ……」
暗夜の心臓が、強く跳ねる。彼の口から漏れ出た名前を、聞くものは誰もいなかった。




