少しだけ話そう
部屋に戻ってすぐに眠りについた暗夜が目を覚ましたのは、夕暮れ時だった。
室内には、眠りについたときにはついていなかったぼんやりとした灯りが灯っていて、もしかしたら、眠っている間にアドレイン灯りをつけに来たのかもしれない。
暗夜はもぞもぞと布団から這い出て、椅子についた。窓の外は橙色に染まっている。椅子に座ったまま空の色を眺める。
盾の国にある自分の部屋は窓を塞がれていて、室内から外の景色を見ることはできなかった。それに、窓がある空間では外の景色を眺めるような余裕もない。
テーブルに置かれたティーセットを手持ち無沙汰にいじったりしながら、新鮮な気持ちで外を眺める。
部屋の外から、音量のかわいい地鳴りのような音とともに足音が近づいてくる。その音は暗夜のいる部屋の前で止まって、それから、静かに扉が開かれた。
「あっ、もうお目覚めでしたね。ちょうどよかった。夕食をお持ちしました」
薄く開いた扉からひょこっと顔を出して、アドレインがにっこりと笑った。暗夜は一瞬、キーナの顔が脳裏をかすめる。
――違う。こいつは、違う。
「今日は輝夜様の好きなはちみつのロールパンですよ。温かいうちに食べられてよかったです。まだお休みでしたらどうしようかと。――失礼しますね」
そう言って、引いてきた台車を部屋に押し入れる。台車の上には、ふたり分の料理。アドレインは慣れた手付きでティーセットと料理をテーブルに広げて、暗夜の前の椅子に座った。テーブルから、焼きたてのパンの甘くて香ばしい匂いがする。
目を細めてこちらを見るアドレインに怪訝な目を向けて、暗夜は少し、彼から離れるように椅子を引いた。
食事はいつもふたりで摂るのだろうか。魔王というくらいだから、暗夜のよく知る王族たちみたいにもっと広い空間で大人数で集まって、豪華な食事を摂っているのかと思っていた。しかしテーブルの上を見るに、それは暗夜の思い違いだったのかもしれない。
大きめのパンが一つと、豆のスープと、茹でた野菜。暗夜が普段食べているものよりは豪華だけれど、大きくは変わらないような質素な食事だ。
目の前でアドレインがティーポットから紅茶を注ぐ。いい匂いがするが、暗夜は紅茶はあまり好きではない。平気な顔をして飲めるだろうかと、重たい心持ちで身動ぎした。
「輝夜様、もしかして食欲がないのですか?」
アドレインが、金色の目をこちらに向けてきた。食事に手を付けず、こちらの手元ばかり見る暗夜を不審に思ったのだろう。
「あぁ、ううん。寝起きでちょっとぼーっとしてて」
暗夜は左右に首を振って、小さな手でパンを掴んだ。一口かじる。甘くて、いい匂いがする。温かくて柔らかい。
「おいしい」
思わず口元が緩む。もう一口かじる。
「よかったです。輝夜様のために、一番甘そうなやつを選んだんですよ」
いたずらっぽい表情で彼がにーっと歯を見せて笑うと、杭のように尖った歯が並んでいるのが見えた。肉食獣の歯だ。思わずその歯に食いちぎられるところを想像した暗夜は、彼の顔から目を逸らした。
「あぁ輝夜様、パンといえば、昨日、料理長が酵母菌を――」
輝夜があのぼろ屋に出掛けたあとにあったことなどを話すアドレインに、相槌を打ちながら食事を進める。アドレインの大仰な身振り手振りが少し面白い。
「それはもうとんでもない膨らみようで、慌ててガス抜きをしようとしたら爆発したそうで――」
彼は自分の食事に一切、手を付けていない。普段からそうなのかは暗夜にはわからないけれど、この状況で彼が食事を摂らずに話し続けるのは、様子がおかしいように思う。
「……」
不意に、アドレインが黙った。静寂。暗夜は頬張ったパンを咀嚼しながら彼の目を見た。暗夜を穿つようにまっすぐと向けられていた金色の瞳は、しかし目が合うと逸らされた。
テーブルの上の料理に視線を向けたまま、言い淀むように、彼がゆっくりとまばたきをした。深く吐かれる息の音。黙ったまま居心地悪げに身じろぎをした彼。暗夜は硬直してそれを見る。
「……輝夜様」
躊躇うように、ゆっくりと、彼が低い声で空気を揺らした。暗夜は顎を引いて応える。
「うん」
「お帰りになってから、少し様子が変に思うのですが……」
薄く伏せられたまぶたの中で、金色の目が泳ぐ。元気な魚みたいに、ふわふわと。
「……その、お出かけの際に何かあったのかと、私の思い違いでなければ……」
目が合った。彼の顔が近づいてくる。強い力で両肩を掴まれて、急なことに驚いた暗夜は目を見開いた。暗夜の表情の変化を見て、彼は暗夜の体を離して椅子に尻を付ける。
「――私になにか、関係することでしょうか? 私に話せることでしたら、お聞きしたいのですが」
――見抜かれている。自分がアドレインの容姿に反応していることを。
暗夜は内心うろたえて、それを気取られぬようにゆっくりと息を吐いて、彼の目をまっすぐに見た。彼もまっすぐにこちらを見つめ返す。しばしの間、沈黙。
「輝夜様、言いづらいことであれば、言わなくてもいいのですよ」
柔らかい言葉。暗夜はうつむいた。
彼が今表している思いやりの気持ちは、自分にではなく、輝夜に向けられた気持ちだ。暗夜はそれをわかっている。けれど、この優しさを無碍にしてはいけないような気がする。暗夜は今度はうなだれて、天を仰いだ。
「……輝夜様?」
そっと様子を伺うような、穏やかな声色。暗夜は再びうつむく。
「――ひどい目に遭ったんだ」
小さな声で言うと、彼は気配を殺すように黙る。
「詳しくは、話したくないけど」
自然と上がる息を鎮めながら、言葉を続ける。
「君に、似てるんだ。あいつが」
暗夜の脳裏に浮かぶのは、キーナの顔。いつもイタズラっぽく笑って、暗夜に構ってくれたキーナの顔。存在しない腥い臭いが、暗夜の鼻腔を掠めた。振り払うように首を振る。
「君じゃないのはわかってるんだ。でもどうしても、君と重なるんだ」
アドレインに目をやると、彼はテーブルの上にある手のついていない食事に目を落としたまま、しばしの間沈黙した。静かに深い息を吐いてから、暗夜の目を見る。
「私が側にいて、それであなたが傷ついてしまうのならば、私は、あなたのお側にはいられませんね」
「そういうことじゃないんだ。僕が君に慣れないと。……慣れるから、大丈夫だよ」
「――その、似ているのは、顔だけですか?」
「顔じゃないんだ。髪の毛と、服の色とか、背格好とか、その、ぱっと見の雰囲気が似てて、それでどうしても……」
キーナと彼は似ていない。顔も、仕草も。けれどどうしても、その見た目の印象がキーナと重なってしまう。低い声で答えると、アドレインがうつむいたまま深く息を吐いた。
「そうですか……言いづらかったでしょうに、ありがとうございます。嫌なことを聞いてしまってすみません」
「いいよ。大丈夫」
笑顔を作って答える。それから、輝夜がいつも自分に向けていたように明るい声を上げた。
「ねえ、それより、さっきの話、どうなったの? パン生地爆発しちゃったんでしょ? 続きが気になるところで、お話切らないでよ」
「ああ、すみませんね、そんなに大した話ではないのですけどね。爆発したパン生地が料理長の毛に絡まってしまって、三人がかりで川で丸洗いしたんです。私も手伝いましたよ。彼、身体が大きいので本当に大変で――」
彼は穏やかに笑って、先程途切れた語りを再開した。けれど、暗夜は見た。穏やかな顔をして話す彼の手が、かすかに震えを帯びているのを。




