異形
自分の身体が、得体の知れない何かに造り変えられていく。身体だけでなく視界も思考も価値観までもが、赤と黒とが斑になった塊に圧し潰され、僅かな理性さえも崩れていく。
もはや痛みは感じない。目の前で何かを叫んでいる少女の名前すらも思い出せない。彼女の後頭部に長い槍を突き立てている少女も、その横で腹の底から笑っている少女の名も。
『ねぇ、レイア』
脳内を蛆が這いまわる様な不快感の中、その声だけが聞こえてくる。ただの幻聴だ。もうどうでもいい。早く意識を失くして楽になってしまいたい。
「レイア!レイアぁ!嫌っ……嫌だ………ああぁぁぁあ……!!」
「そろそろ理性も失くして、餌でも欲しくなることだろう。あの様子じゃあ校舎の中に生き残ってる人間も居なさそうだしね。……せっかくだから、この子には新鮮なヤツを用意しといてあげよう」
「あぁぁぁあ……レイ…………っ」
無限に反芻される声色と、たった今、頭を槍で貫かれた少女の声が重なった。
どうでもいい。考えるだけ無駄だ。私もどうせ死んでいくだけだ。
ただの化物に成り果てて、このまま……
『そんな下らない事、考えてるだけでお腹減っちゃうよ』
「ぐっ……!!うぅ……ぅ……ぁあああ……!!」
「へぇ~、まだ意識保ってるんだ。お嬢様の癖にやるじゃん」
再燃した痛みは脳髄を焼け焦がす様に深く、そして四肢末端にまで広がっていく。
震え続ける右手を左手で押さえ、のたうち回る身体を無理矢理に縮めた。
「エリカ様。これは……大丈夫なのでしょうか?」
「問題ないって。ちゃんと顕性になる程度の量は打ったんでしょ?たまーに悪足掻きする個体がいるだけで、この子も時期に成り果てるよ」
『誰も、なりたくてあんな化物になる訳じゃない』
私は、望んで化物になった訳じゃない。
『そうなった奴らは皆、殺されるまで必死に藻掻いてる』
彼女は、自分の身が危険に晒されても最後まで私の名前を叫んでいた。
「ああぁぁ……!!ぁ……ああアァァあああァアアァアあアアァア!!!」
「エ、エリカ様……!」
「………少し、まずいかもね」
『もし、私が化物になったら……私は、レイアに殺してもらいたいよ』
もし、私が化物になったら、私は……
「み……ずっ……は………水葉……っ!」
徐々に視界の靄が晴れていく。身体を覆っていた肉の鎧が剥がれ落ち、痛みも痙攣も嘘の様に黙り込んでいた。
幾度も前方に倒れ込みながら、門の眼前にまで這っていく。
足元に転がっていたのは、微動だにせず倒れ伏し、穴の開いた後頭部から夥しい血を流し続ける水葉だった。
「嘘……な、何で……!?」
頭上から、筒ヶ原の震えた声が流れる。
「お前……!本当に致死量分打ち込んだんだろうな!?」
激高するエリカに胸倉を掴まれた彼女は、涙目を浮かべて首を横に振った。
「本当です!渡された1アンプル分、ちゃんと彼女の手から……!」
「あ、あり得ない……!じゃあ何でコイツは……」
格子の間から両手を伸ばし、水葉の頬に添える。
指の先から冷ややかな温度が駆け抜け、その命が疾うに絶たれていることを理解した。
頭が割れる程、泣き叫びたくなった。この光景が嘘だと、地団駄を踏んで否定したくなった。しかし中途半端に熟れてしまった思考は、これが現実で、いくら叫んだところで無駄だという結論に帰結する。
もう、水葉はこの世にいない。死んだ。……たった今、殺された。
「……このウイルスは、人工物なんですか?」
自分でも驚くほど落ち着いた声で問うていた。
見上げると、二人は死体の様に固まって微動だにしていない。
「筒ヶ原さんが学園にウイルスを持ち込んで、私にも朝、握手をした際に打ち込んだ。痛みを感じなかったのは特殊な針か何かを使った小型の注射器でしょうか」
「な、何……?何でアナタ……どうして……」
「そして、それは虹村さんが命じたんですか?」
視線を映すと、エリカは咄嗟に槍を私の鼻先に向けた。その顔には、滝のような汗が流れていた。
口元を震わせながら、腰を引きながら、まるで化物と対峙しているかのような震えを以て敵意を露わにしている。
「動くな!少しでも動いたら……こ、殺すぞ……!」
「………ようやく、言い直してくれましたね」
「は……?」
「配信で見ていた時も、さっきも、貴女はずっと”処理する”と仰っていました。でも、違いますよね」
あの時の感染者も、私も、そして水葉も、決して大義の下で処理されたのではない。彼女らの故意によって殺された。
「お、お前は何なんだ!?何で理性を保ってる!何でまだ人間の姿で喋ってるんだよ!?」
「そっくりそのまま、お返しします」
「……は」
二歩、後ろに下がる。
私は自分の右手首を嚙み千切った。
「なっ……何を……してる……!?」
溢れ出る血液を数秒見つめ、創傷部を左腕に叩きつけた。
異形になりかけた影響で肥大化した腕は、既に制服の肘から下を破っている。剥き出しの皮膚に血液を染み込ませ、そのまま左の手首まで走らせる。前腕の甲側は夥しい血で赤黒く染まり、陽光を禍々しく反射させていた。
「何故、異形に対してわざわざ近接武器を使うのでしょうか」
左腕を顔の辺りまで持ち上げ、血塗りの前腕をエリカたちに向ける。
「エ、エリカ様!一旦ここを離れましょう!彼女は何か……」
「黙れ!お前に逃げられたら、困るのは私の方だ!」
「恐らくは、無駄に血を流させたくないのでしょう?銃を使えば、もし急所を外れた時に血が噴き出ますからね。……だからと言って、焼却は悪手です。半端な火力ではすぐ再生しますし、強力過ぎても市街地での戦闘には向かない。故に機を伺いながら、確実に急所を貫けるような武器と、それを可能にする能力を持ったプロセッサーの組み合わせが重要な訳です」
「……さ、さっきから……一体何を喋ってる!?お前は今……」
「さぁ、どっちでしょうね」
左手の指を、第五指から順に握り込んでいく。
「ところで、お二人とも」
自らの骨を軋ませながら、沸き立つ感情を握り殺す様に、一本ずつ。
「何故、まだ、人間の形で喋り続けているのでしょうか」
そして、第一指。握り込んだ瞬間、全てを理解した上で呟く。
肉ではなく、血だ。本当に私達が恐れるべきは、いや。本当に彼女らが恐れているのは。
「………”凝血”」
瞬間。腕に塗られた血液が気泡を発し、そのまま私の全身を駆け抜けていく。
体幹部を通り右腕へ、腹部を通り下肢へ。湧き続ける血は鎧の様に幾層にも重なり、制服ごと私の身体を包み込む。不思議と、先ほどとは全く違う、心地の良い高揚感すら覚えていた。