異変
翌日、教室の扉を開けると、うんざりするほど見慣れた景色が広がっていた。
「ごきげんよう、レイアさん」
行儀よく着席していたクラスメート達は一様に目を輝かせ、口々に上品な挨拶を私に投げかける。作り慣れた笑みを浮かべつつ、私は彼女達に軽く会釈をしながら最前列中央の席に座った。
秋麗女学院。生徒数約千二百人程度の中高一貫校。外部募集は無く、在籍する生徒は軒並み経営者や政治家等の娘である。そしてそれは、私も同じだった。
「あ、あの……レイアさん。今週の日曜、私の自宅でパーティを開きますの。よろしければ貴女も……」
着席するなり、右隣に座る生徒が声を掛けてきた。名前も覚えていないが、度々私と交友関係を持ちたがる人間であることだけは記憶している。
「ごめんなさい。日曜は予定がありまして……」
「そっ、そう……ですのね。因みに、どのような……?」
「お父様が、学生時代のご友人と会食をなさるそうで、私も立ち会う事になっているのです」
彼女の目的は私との交友ではなく、私を通して父である衣更木隆二と繋がりを持ちたいのだ。しかし娘であるにも関わらず私は父と最後にいつ言葉を交わしたかも覚えていない。目下の仕事内容すらも分からない。つまり、これは誘いを断る為の嘘だった。
「わ、分かりましたわ。そういう事であれば……。もしご予定が空いている日があれば、その時はぜひ私と……!」
「失礼ですが」
彼女の言葉を遮り、隣を振り向く。陽光に映える長い黒髪、雪の様に白い肌。切りそろえられた前髪から覗く瞳は、私と同様、生まれてから何の努力も苦労も無く丁寧に温室で育てられた果実が如く瑞々しかった。
「貴女のお名前は何でしょう?」
「えっ……?」
「名も存じない方とお近づきになるのは、人見知りの私には少々難しいかと」
「い、いや……え……?レ、レイアさ……」
「そろそろホームルームが始まります。私語は厳禁ですよ、《《お嬢さん》》」
我ながら、極めて意地悪く不躾な態度だと分かっている。しかしこの空間に居る以上、どうしても彼女達と私自身に対して苛立ちを感じざるを得ない。言い逃れのしようもなく、これは己を棚に上げた腹いせだった。
「あの、レイアさん」
懲りずに、彼女はまた声を掛けてきた。
眉を顰めながら振り向くと、突然私の右手を両手で取り、そのまま握りこんだ。
「なっ、何を……!?」
「ただの、握手です。……筒ヶ原愛実。良ければ覚えて下さいね」
強い力にたじろぎながら、何とか振りほどく。
彼女は不気味な笑みと共に教壇に向き直った。
すぐに予鈴が響く。誰もがノートを開く中、右隣からは紙の擦れる音一つしなかった。
◇
退屈な授業を一通り終え、日が傾き始めた頃に下校となった。
すれ違う生徒や教員達と機械的な挨拶を済ませて早々に校舎を出た私は、駄々広い庭園の様な敷地を歩いていく。
「……ふふ」
門に向かいながら鞄を開き、私は一人で微笑んだ。
中には屋敷からこっそりと持ち出した洋菓子が幾つも入っている。今日は特に大収穫である。
放課後にいち早くあの廃ビルに行き、私が持参した菓子を食べながら水葉と談笑する。一年前から続いている私達の日課。私の一日は学園を出てからようやく始まる。
「やっていることは……それこそ、野良猫と変わらないかもしれませんね」
こんなことを言ったら彼女は怒るだろうか。いや、不貞腐れて無言になるかもしれない。
幾つもの表情を思い浮かべながら、鼻歌交じりに歩いていく。
しかし暫くして、門の方から男女の言い争う声が聞こえてくる。
「おい!離せっ……て!ここにいるんだろ!?衣更木レイアだよ!」
「暴れるな!部外者の立ち入りは出来ない!今すぐ立ち去れ!」
人間の背丈よりも遥かに高い、格子状の黒い門。それを隔てた向こう側に、二人の男性警備員と言い争う水葉の姿を見た。
「み、水葉!?」
咄嗟に走り出す。すると私の姿を見た水葉は一切の躊躇なく男性二人に交互にボディブローを入れた。
痛みに耐えかね同時に蹲る二人だったが、彼女は『ざまあみろ』と言わんばかりに鼻を鳴らしていた。
「ど、どうしたんですか!?何故こんなところに……?」
「やっぱりここに居た!死ぬほど探したよ全く……」
息を切らして膝をつく彼女。よく考えれば、私は自分が通う学園の名すら水葉に教えていない。わざわざ自分から口にしようとも思わなかったし、他人の身の上話に興味のない水葉から聞かれる事も無かった。
格子の間から両腕を伸ばした水葉は、門を隔てて私の肩を強く掴んだ。
「レイア、今すぐこっから逃げるぞ!」
「えぇ!?に、逃げるって……どうしてですか?」
「いいから!早く門開けて出てこい!」
声を荒げる彼女の顔は、これまで一度も見た事が無い鬼気迫る表情を湛えている。
釣られるように動悸がし始めるが、同時に違和感を覚えた。
「どうした!?早く出てこいって!」
「い、いや……。そもそも、何故下校時間になっても……門が開いていないのでしょうか……」
「はぁ!?んなこと私が知るワケ……」
直後。私の後方から微かに、しかし確実に、女子生徒の悲鳴が耳朶に触れた。
「えっ?」
振り返るが、周囲に人はいない。下校時間を過ぎたというのに、不自然なほど誰一人として居ないのだ。
異様な雰囲気を感じ、向き直った私は両手で格子を掴む。
「くっ……!ど、どうして!?全然……開かない!」
「鍵でもかかってるのか!?」
「いや……遠隔で開くもので、毎日下校時間になると勝手に開くんです!でも……!」
「クソッ!裏口とか無いのかよ!?」
静かに首を振る。生徒達の家柄上、外部からの侵入を防ぐ為に出入口はこの門一つしか無い。
「水葉……。一体何が起こってるんですか……?」
「私もよく知らない!でも、今日の朝見たんだよ!」
「な、何を……?」
「レイアと同じ制服着てる女子生徒が、あの廃ビルの近くで……!」
「キャアあぁぁぁアアぁああ!!!」
今度は、耳を劈く程の絶叫が敷地内に響き渡った。
軋んだ歯車の様に振り返る。
すると遥か後方、校舎の入口から、人間が一人投げ出された。
「なっ……なに……?あれ……」
鈍い音を立てて芝生に落ちた体。遠目で見ても、その制服は夥しい量の血液で濡れていた。
その後も悲鳴は校舎内の至る場所から響き続け、入口だけでなく一階、二階、三階と、窓を突き破って赤黒く染まった生徒達が投げ出されていく。
どの生徒もぴくりとも動かない。どう見ても死んでいるのが分かってしまった。
「い、嫌……何で……?まさか……」
「レイア、落ち着け!……クッソ……!さっさと開け……ぇええぇ!!」
水葉は格子を掴んで力を込める。こじ開けようとしているのだろうが、人間の力でそう簡単に歪む訳がない。
「こ、校舎に戻って、門を……」
「馬鹿野郎!もうあの中は化物だらけになってる!戻っても死ぬだけだ!」
頭のどこかで感じていた懸念を口にされた瞬間、全身から冷汗が溢れ出る。
どうしようもなく早く打つ鼓動に釣られて、激しく息が乱れた。
「な、何で校舎の中から……?まさか保菌者が生徒に……!?」
無意識に流れ出る涙で霞む視界の中、死体は累々と重なり続ける。
「違う。あの化物は、あのウイルスは……」
「おやぁ?一匹、外に出てるじゃん」
水葉の声に、もう一つの声が重なる。
振り返ると、彼女の背後に二人の人間が立っていた。
そのどちらの顔にも、見覚えがあった。
「申し訳ありません、エリカ様」
「まぁ、万が一の為に門を閉じさせておいたんだし。結果オーライだね」
一人は、ホームルーム前に私に声を掛けてきた、筒ヶ森愛実と名乗っていた女子生徒。
そしてもう一人は、昨日、スマホの画面越しに水葉と共に見た、”NIMA”の所属メンバーである虹村エリカだった。
「えっ……?え?なに……何が……」
訳が分からず口籠もる私とは対照的に、水葉は振り向きざま、筒ヶ森に向かって拳を振り上げた。
「お前は……!なっ……なんて事をしたんだ!このクソ野郎!」
しかし、その拳はエリカによってすぐさま掴まれる。涼しい顔をしながらも、握り込んだ手からは骨が軋む音が響き、水葉は苦痛の表情を浮かべた。
「ぁっ……!ぐぅ……はっ、離……せ……!」
「女の子が、あまり乱暴な言葉遣いをするもんじゃないよ?」
「やっ、やめて!水葉から離れなさい!」
必死に叫ぶ私だったが、エリカは冷ややかな視線でこちらを睨む。
「生憎だが、化物の言う事を聞く程、私は落ちぶれてないよ」
「ば、化物……?何を言って……」
エリカの言葉を耳にした瞬間、水葉の顔から血の気が引く。
私の顔を一瞥した直後、消え入るような声を吐いた。
「ま、まさか……レイアにも………」
「そうだと言ったら?」
直後、今度はエリカに向かって怒りの表情を向ける。
痛みを忘れたかのように彼女の胸倉を掴み、目の端に涙を浮かべて叫んだ。
「テメェ……!殺す……!ぶっ殺してやる!!」
しかし、小さい体躯は軽々とエリカに投げ飛ばされ、固いアスファルトに顔面から落ちた。
「み、水葉!」
「……エリカ様。こいつです。今朝、こいつに顔を見られて……そのまま逃げられました」
筒ヶ森は無表情のまま水葉を指差した。エリカは口角を上げつつ彼女の髪を掴み、頭を持ち上げる。
「そうか。それは不幸中の幸いだったね。この様子じゃあ、必死になってお友達が通う学校を探し回ってただけみたいだし」
「く……っそ……!レイア……!」
立て続けに起こる異常に脳が追い付かず、ただ苦悶に満ちた水葉に向かって、声にならない叫びを上げ続ける。
「まぁ、アクシデントはあったけど問題ないでしょ。この子はここで殺すし、彼女もじき発症するだろうしね」
エリカの視線は、私に向けられていた。
「えっ……発……症……?」
「あぁ。それが筒ヶ森さんの任務だからね。安心しなよ。化物になっても、私が責任を以て処理してあげるからさ」
ゆっくりと、視線を筒ヶ森に移す。彼女は何故か笑っていた。
「さようなら、レイアさん。……ごきげんよう」
瞬間、全身が熱く、煮え滾るように熱くなる。
これまでに無い程視界が歪み、平衡感覚を失った体はいつの間にか膝から崩れ落ちていた。
「がっ……!ぐ……ぁ……あぁ……!」
無意識に吐いた呻きは、とても私自身の喉から発せられた声とは思えないほど低く、嗄れている。
地鳴りかと思っていた振動と音は、激しく打つ心臓から感じ取ったものだった。
だらりと伸びた右腕は、視界の中で赤黒く変色していき、指先から徐々にこちらへ近付いてくる。
「レイア……!レイア!!」
「せっかくだから、死ぬ前にじっくり観察しておきなよ」
痙攣する身体は芝生の上で跳ねまわり、視界の中で天地が激しく入れ替わる。
断片的に鼓膜を揺らすのは、心の底から何かを楽しむようなエリカの一言だった。
「お友達が、化物に成り果てる姿をね」